後編<アレクセイ> 2
一夜明けて、昼前。
ゲームセンターで安樹が三人の男を前に喧嘩を買おうとしているのを見た時、俺は迷わず止めに入ろうとした。
「待ちなさい」
ところがアレクが俺の肩を掴んで引き戻したのだ。
俺は真後ろに彼がいるとは思わなかったのでぎくりとしたが、すぐに眉をひそめて小声で返す。
「安樹が危ない。『説得』に入る」
「同業者だったらどうするんです。私はあなたも危険に巻き込むわけにはいきません」
彼は無造作に俺を自分の後ろに押しやる。それは何気なくやった動作なのに、俺には対抗できないほどの力を帯びていた。
「銃は持っていませんね。殺気がない」
アレクはさらりと断じてから男たちを隅々まで注視する。
「そりゃそうだよ。ここは日本だ」
「可能性は一パーセントでもあっては困りますので」
「いいから離せ、アレク。安樹に手を出されでもしたら事だ」
呑気に見ている間に安樹のかわいい顔に傷でもついたらどうするのだ。俺は乱暴に振り払うと、安樹の下に駆け寄ろうとした。
「だーめ」
「っつ」
唐突に頬に冷たいものを感じて鳥肌が立つ。
飛び上がった心臓を落ち着かせて横目で見ると、そこには冷えた缶ジュースが頬にくっつけられている。
それからすぐに真横から引っ張られてゲーム機の影に連れて行かれた。
「しー、ミハイル」
その割に缶ジュースでおどかして大声を出させようとしたのはなぜだ。
矛盾してると呆れながら振り返ると、そこにあったのは口元に指を一本当てた父の姿。
「見てごらん。リュウ君が止めに入った」
「それが余計気にいらないんだよっ」
思わず声を荒げると、父はそんな俺の口を手で塞いで微笑む。
「エンジェルはその辺の不良なんかに負けないよ。ハルカだって一人で三人のしちゃったんだから」
「母さんそんなことしてたのか……じゃなくて」
父にがっちり手を掴まれているので動けないが、俺は視線だけ安樹たちの方に向ける。
ちょうどアレクが歩み寄るところだった。
いかにも弱そうな中年のおじさんが若者をたしなめに無謀にも割って入る……ような構図だ。
実際はとんでもない。俺はこれから起こることを想像して、微かに男たちに哀れを感じた。
「もしもし」
アレクは男の一人に歩み寄ると、軽く耳の近くで話しかけた。その一方で、手の内に何かを隠しながら男の首元を叩く。
「安樹と竜之介君はここで待っててください」
途端に男の足から力が抜けて、それを見ている隙に他の二人も一瞬で動きを鈍らせる。それをアレクは支えるようにしてゲーム機の裏に連れて行く。
たぶん安樹からすれば、男たちがアレクに何かたしなめられて、大人しく後を追っているように見えただろう。
「何の薬使ったんだ、あれ」
「さあ?」
父は素知らぬふりをしながらゲーム機の横に胡坐をかいてプルトップを開けている。
「ミハイルも飲みなよ。喉乾いたでしょ」
「どっちでもいいけど……まあいい。安樹はもう安全だからな」
仕方なく俺も床に腰を下ろすと父から受け取ったコーラを開けた。それを見て、父は何でもないことのように言う。
「針だよ。首に刺したの」
アレクは男たちをゲーム機にたてかけて何かを話しかけている。ここからだとよく聞こえないが、想像はついている。
「一瞬で麻痺するような毒でも塗ってあったのかと思った」
「そんな後が残るようなことアレクがするわけないじゃん。一時的に体の自由が効かなくなるようなツボでも突いたんだよ、あれは」
父は喉を鳴らして水を飲んでから、指をさしてにっこりと笑う。
「で、今お説教中」
そう父は言うが、たぶんアレクがしていることはそんな生易しいことではない。
アレクは俺に喧嘩を避けるための技術として、『説得』を教えてくれた。平たく言えば脅しだ。
いかに相手をびびらせるか、言葉一つで心臓が破裂するような恐怖を与えるか。そういう技術をアレクは嫌というほど俺に教えてくれた。
嘘みたいな話だが、アレクは言葉だけで相手を失神させることができるのだ。洗脳に近いことを仕事でしていたこともあるらしい。
「それにしても、エンジェルの正義感の強さはハルカ譲りだね。悪いことを見逃すことできない子なんだから、困った困った」
男たちは体の自由も効かないままひたすらアレクの説得を受けている。一言でも聞いたら一目散に走って逃げたくなるような、『本物』の怖さを今頃実感していることだろう。
「母さん、強かったんだ」
「そうでもない。ハルカが手を下したことはほとんどないよ。ハルカが喧嘩しそうになると、リュウジが決まって止めに入ったから」
悪戯っぽい目で、父は俺を見やる。
「ちょうどミハイルみたいにね。自分はそんなに強くないふりをして、ハルカを逃がした。……それで、後で顔の形もわからないくらいに殴りに行く」
俺は父のからかうような視線を受け流しながらしらばっくれる。
「あの伯父も若い頃はえげつないことやってたんだな」
「今も、だよ」
「その大事に守ってた妹に、父さんはよくちょっかいかける気になったね」
父はくすっと笑って自分のこめかみの辺りを指先でつつく。
「その頃の僕に怖いものなんてなかったからね。この辺がイカレてたんじゃないかな」
「日本に留学した頃一人だったのも、父さんが荒んだ空気ばらまいてたからなんだろ」
父の若い頃のことをアレクに聞いて少しは知っているが、目の前にいる子供っぽい父からは想像もつかない人物像だった。
何にも興味を持たない無機質な少年。けれどバイオリンを弾かせると信じられない美しい音色を紡いで、同時に無慈悲なほど正確な射撃の腕を持っていた。そして年若いながらもファミリーの幹部として既に頭角を現していたという。
「だからユキは天使なんだよ。誰も声をかけられなかった僕に微笑んでくれた人なんだから」
「わからないな」
「うん? 何が?」
俺はコーラを飲みきってから顔を上げる。
「そのユキさんだって父さんは何十年も会わなかったのに、母さんをロシアまで攫うようにして連れていったのは変だ。そんな熱、当時の父さんにはなかったはずだろ」
「……」
「母さんの素性を知ってれば伯父の恨みを買うのもわかってただろうし、下手をしたら日本の暴力団ともめることもありえたのに」
父は目を閉じた。それから薄く瞼を持ち上げて、眠たそうに呟く。
「……ハルカが僕に惚れてたからだよ」
時々父は、目の前のものが見えていないように無機質な顔をすることがある。今がまさにそうだった。
「好きというなら、僕はユキの方がよほど好きだった。ハルカを連れて行ったのは、本当に純粋な興味さ」
俺はその言葉にカチンと来た。
父がゲイでも、今いくら恋人がいても構わないと思ってきた。けれど俺と安樹のルーツとなった母を、「興味」の一言で片づけてしまうのは気に入らなかった。
――レオ。おかえり。
記憶にうっすらと残る母はいつも父に微笑んで家に迎え入れた、優しい人だったというのに。
「父さん。訊きたいことがある」
それはここ数年ため込んだ焦りにも着火して、俺の中でにわかに膨れ上がる。
「ファミリーについての質問はなしだよ。お前たちにこれ以上関わらせるわけにはいかない」
「違う。母さんの死因についてだ」
変化は如実だった。見た目にはっきりとわかるほど、父は目の奥に宿らせた光を凍りつかせて俺を見る。
一瞬俺が息を止めてしまったほど完全に感情を封じ込めた顔を向けて、父はゆっくりと言った。
「事故だよ」
「だったらどうして葬式にも参加させずに俺たちを日本に連れてきた?」
「やっぱりお前たちは日本で育てた方がいいと思ったから」
父の答えは淀みない。けれどそれが逆に俺の中の不審を確かなものにして、俺は言葉を重ねる。
「アレクに俺たちを見張らせて、一度は縁さえ切った伯父の力まで借りたのはどうしてだ?」
「答えは同じだよ。日本で育てた方がいいと判断してのことだ」
「父さん。俺は心に決めてることがあるんだ」
がやがやとうるさいゲームセンターの中で、人生を決めるような話を父に持ちかけるとは思ってもいなかった。
「これから安樹が日本に留まっても、余所の国に行こうとも、俺が守るんだって。そのためにははっきりさせとかなきゃならない」
父は母をロシアに連れて行ってからも結婚せず、俺たちを認知したに留めたから、俺たちの姓は春日のままだ。そして母が亡くなってからは俺たちをなるべく日本に留めて、自分は常に世界中を巡っている。まるで俺たちは生まれたから仕方なく認知だけして、関わりを持ちたがっていない厄介な子供のように見せている。
「父さんとアレクが俺と安樹の仲を裂こうとしてるんだったら、俺は許せない」
もちろん父が安樹をかわいがっていることは知っているし、俺のこともそれなりに想ってくれているのもわかっている。だけどファミリーのために俺と安樹のことを切り捨ててしまえるのなら、もはや父に心を許すことはできない。
「アレクに聞いたことがある。父さんのファミリーではナイフが使えれば一人前に認められるって。……俺がアレクにナイフで勝ったら、安樹と俺を引きはがしたりしないと誓ってくれ」
ちょうどアレクの目の前で男たちが意識を失ったところだった。拷問に近い説得を受けて、ただでさえ針で弱っていた体に限界が来たのだろう。ずるりと地面に倒れ伏した。
アレクは慣れた手つきでビールを一本開けると、男たちの襟元からビールを注ぐ。酔って眠ったことにでもしようとしているのだろう。
ちらりと、アレクは俺を見た。この喧騒のゲームセンターの中でも、俺たちの話は全部耳に届いているとでもいうように。
彼は軽く手を後ろで組むふりをして、父に目配せをした。
「ミハイル。行こっか。エンジェルにみつかる」
それを受けて、父は俺の手を取って立たせる。父の口調はいつもの軽い調子に戻っていて、俺はそれに苛立ちを覚えた。
「またはぐらかす気なのか。俺は本気で」
「受けるってさ、アレク」
唐突に父は俺に言葉を放つ。真意の読めない薄っぺらな笑みを浮かべて。
「だけどミハイルが怪我するといけないからアレクは後ろで手を縛って相手するって。……それでもアレクが勝つけどね」
「……っ」
完全になめられてると、俺は奥歯を噛みしめる。
「僕は午後からエンジェルと出かけるから、その間に相手してもらいなさい。ミハイル」
俺がきつく睨みつけても、父は俺の額にキスしてくすくすと笑うだけだ。
この人を乗り越えなければ、俺は安樹と一緒に生きていくことができない。
俺はそれを確信して、絶対に負けるものかと心に誓った。




