後編<アレクセイ> 1
彼に初めて会ったのは五歳の時。父親に母親の故郷という日本に半ば無理やり連れて来られた、その日のことだったと思う。
「アレクセイです。私からお見かけしたことは何度かございますが、こうして直接お会いするのは初めてです。以後お見知りおきを」
彼は五歳の子供相手に、膝をついてこれ以上ないほど丁寧なロシア語で話しかけてきた。
「ボスの命令で、美晴様と安樹様をお世話することになりました。何なりとお申し付けください」
俺と手を握っている双子の安樹も、俺と同じでほとんど彼の言っていることがわからなかった。ゆっくりと諭すような口調なのに、聞きとれたのは自分たちの名前と、せいぜいもう一つの単語くらい。
「ぼすってなぁに?」
安樹があどけなく首を傾げると、彼ははい、と頷いて答える。
「あなた方のお父様のレオニードのことです。ファミリーのボスではありませんが、私にとっての主ですからそう呼んでおります」
「おとうさん? あす、よくわからない」
「それは無理もありません。けれどすべてをわからなくてもよいのです。一つだけ覚えておいて頂ければ」
彼は一歩踏み込んで俺と安樹の手を取った。びく、と安樹の肩が跳ねたのが横目でわかった。
海の底のような青い目が俺たち二人の目を射抜く。
「私はあなたたちをすべてから守るための人間です」
俺と安樹はやはり言葉の意味がわからなくて、けれど同時に後ずさった。
――父さんは仕事に行ってくる。アレクセイの言うことをよく聞くんだよ。
父がこの男と自分たちを見知らぬ土地に置き去りにして行ってしまったことさえもこの時はわからなかったけど、ただこの男と一緒にいるのが嫌だった。
「おうちかえる」
安樹が不安そうに言い放って手を引く。離して、という仕草だった。
「帰れません。あなた方はこれから私とここで暮らすんです」
彼からは何かの匂いがした。それが俺たちには嫌だったのだ。煙草のようだけどそうでない、何か焦げ臭い匂いだったと記憶している。
彼が怖かった理由は俺たちが彼から危険なものを無意識に感じ取っていたからだと、後になって理解することになる。
今ならあの匂いの正体がわかる。
初めて会ったアレクセイからは、硝煙の香りがしていた。
***
パシュ、と空気を圧縮した音が響いて、五メートル先の的に小さな穴が開くのが見えた。
「まだ肘に変な力が入ってます。緊張は抜いて」
傍らに立つアレクが俺の腕を掴んで構えを直すと、もう一度、と呟く。
俺は前方の的を見据えながら左手で右手を支えながら、人差し指で引き金を引く。
先ほどと同じ音と、ダーツのように丸い的の外延部分に穴ができるのは同時だった。
「うん。上手になったじゃない」
行儀悪くテーブルの上に寝そべっていた父が緊張感のない笑顔で頷く。
「そう思うなら人型の的でやらせてくれればいいじゃないか。俺は遊びで射撃なんて覚えてるわけじゃないんだから」
「だーめ」
憎らしいほどに俺とそっくりな顔が、俺の苛立ちを含んだものとは正反対のあやすような口調で言う。
「遊びでいいんだよ。使う機会なんてないんだから」
「父さん」
「それにね、ミハイル。実際はこういう訓練で撃てるわけじゃないんだ」
父は俺の手から射撃用の拳銃を掠め取る。それなりの力で握っていたのに、あっけなくそれは俺の手から離れた。
父は構えなど取らなかった。俺から拳銃を取ったと同時にパシュ、という音が響いた。
俺が後ろを振り向くと、人型の的の頭の中心に穴が開いている。
「慣れだよ。どれほど撃ったことがあるか……的じゃなくて、人をね」
父は続けざまに引き金を引いて撃つ。
繰り返し、繰り返し、真っ黒に塗りつぶすように人型の頭の同じ場所を……一撃で死ぬ場所を撃ち抜く。
「父さんは」
弾が切れてからようやく戻された銃を持って、俺は何気なさを装って問う。
「人を殺したことがある?」
目を合わせないで俺が言うと、父は俺の額に指をつい、と当てた。
「ミハイル。僕は撃つ時はほとんどここしか撃たない。でないとこっちの命がない」
額が熱くなった気がして俺が一歩下がると、父は眉を寄せて口の端を微かに下げた。
「……言って傷つくなら嘘をつけばいいじゃないか」
父が悲しそうな顔をすると俺もつい甘いことを言ってしまう。安樹ほどじゃないけど、俺だって父が嫌いなわけではないのだ。
「ミハイルは優しいね。僕が嘘をついても許してくれるの?」
「もう慣れた。それに……父さんは俺たちを守るための嘘しかつかないから」
それだけは信じているから、幼い頃から父が数えきれないほど嘘を重ねてきたことを知った時も恨んだりはしなかった。
――ミハイル。怪我はない?
ある時父と旅行中に、突然銃で撃たれそうになった。けど倒れたのは俺や父ではなく、銃を向けた男の方だった。……父が撃ったのだ。
あまりに迷いなく銃を抜いて一発で相手を地に伏してしまったから、俺は薄々感じていた疑念を確信にすり替えた。父は、その筋の者だと。
その時以来俺にも危機感を持たせるという理由があってか、父は俺の質問攻めに時折答えてくれるようになった。
――家業なんだ。ボスは兄さんだけど、代行して僕が指示を出すこともある。
父は世間でいうマフィアのファミリーというものに属しているらしかった。それも、結構広域に部下を持つ。
「今回の仕事って、実際はどっちなの?」
「両方だよ。現地の連中とちょっともめてるらしいから仲介に入る」
父がバイオリニストであるのは本当だが、外国に行くのは半分以上が裏の仕事の方だということも、今では訊かなくても大体わかる。
「ロシアのファミリーなのに何でイタリアでもめるんだよ」
「最近はどこも国際化してるんだよ。資金繰りにあちこちの国に会社作ってさ。日本が平和なだけ」
父は口癖のように、日本は平和だとぼやく。
そこに、父が俺たち双子を日本に連れてきた理由があるのだと思う。
一つはそのままの理由で、一般人は銃さえ持てない平和が未だ日本にはあるということ。
――不本意だけど、ハルカの兄の威を借りさせてもらう。
もう一つは、俺たちの母方の伯父がこの地域で暴力団の親玉だというからだった。
「ミハイル。二月にリュウジともめたらしいね」
やはりきたか、と思って舌打ちをすると、父はテーブルから飛び降りて俺の前に立つ。
「いい? ミハイル」
そして目を逸らす俺を無理やり自分の方に向けさせて言った。
「お前はエンジェルと違ってリュウジに無条件で守ってもらえるわけじゃない。自分から喧嘩を売るような真似をしちゃ駄目だ」
「俺は守られなくたって平気だ。もう子供じゃない」
「子供だよ」
父はあくまで俺と安樹の前では、心配性な父親の顔を崩そうとはしない。
「リュウジはハルカとエンジェルには甘いけど、怒らせたらお前など平気で殺せるんだからね。ミハイルはあいつの本性を知らないんだから」
「だからって日本以外に行くことを父さんは許してはくれないんだろ」
俺の頭をそっと撫でて、父は俺と同じ色の瞳を細める。
「うん。僕かアレクのどちらかと必ず一緒にいること。特にロシアは危ない。絶対に戻っちゃ駄目だ」
「話にならないよ」
まるで駄々っ子だと自分で思いながらも、俺はぷいと父から顔を背ける。
「いつまで俺たちをアレクに監視させ続ける気だ?」
横目でアレクを睨むと、彼は感情を消した顔でそこに佇立していた。
「安樹がアレクを慕ってなきゃ、とっくに全部ばらしてるよ。アレクは『お母さん』でも何でもなくて、俺たちの監視者だって」
アレクセイは父が俺と安樹を守るためにつけたボディーガード兼留守中の世話係。そして俺たちが勝手にどこかに行かないようにする見張り役として、五歳の時から側につけられているのだ。
「ミハルがそう思うのなら構いません。事実、私は生きている限りあなたたちから目を離しませんから」
……本当はそれだけではないのを知っているが、彼が眉一つ動かさずに俺の不満をやり過ごすから、余計に腹が立つのだ。
「ミハイル。監視とは違う。アレクは」
「もう寝る」
俺は二人に背を向けて射撃場を後にする。
射撃場は俺たちの住むマンションの一階にある。俺はそこから出てエレベーターに乗ると、上階で下りて家の中に入った。
安樹の部屋をそっと覗くと、彼女はすやすやと眠っていた。まあ既に日付をまたいでいるし、安樹は一度寝るとなかなか起きないから俺たちも安心して下の部屋にこもっていられるわけなのだが。
父が久しぶりに帰ってくる夜は、安樹は素直に嬉しそうだ。無邪気に、今回はどこの国でバイオリンを弾いてきたのか、反応はどうだったのかと問いかけて笑っている。父が本当は同じ手で銃を持っているのを知らないのは哀れで、でもその安樹の笑顔を曇らせたくないために俺たちは全力で嘘をつく。
「ちっ」
隣の自室に入ると、ベッドに仰向けに寝そべる。胸の中にもやもやとした思いがとめどなく浮かんでは頭の上をぐるぐると回る。
わかっている。父が俺と安樹のためを思ってしていることだ。父に裏の家業があることも、日本に拘束されていることも、そのこと自体に不満はない。
「焦ってるのか、俺……」
ただ、いつか父が俺と安樹を引き離そうとする可能性について考えてしまう。
子供だから、守るべきものだからという理由で、父にすべてを委ねてしまいたくない。伯父が安樹を竜之介の嫁にしようとしていることに、父は表立って反対の意思を示していないのだ。安樹の安全のためにそういう方法もあると考えているのかもしれない。
――あすちゃん。あいつのこと、しんじちゃだめ。
そして、一番の問題はアレクだ。
目を閉じてその上で手を交差させながら、俺は幼い日のことを瞼の裏に映し出す。
初めて日本に来てアレクと一緒に暮らし始めた時、俺は繰り返し安樹に言った。
――おかあさんがいなくなったとたん、あいつがきた。あいつのせいでおかあさん、いなくなったのかもしれない。
――みはる。おかあさんはりょこうだよ?
もちろん今となってはそれが俺の幼い誤解だったとわかっているけど、どうしても俺は安樹と一緒にアレクを嫌いたかった。硝煙の香りをまとっていた不吉な男を、安樹に近付けたくなかった。
――うん。でも、あいつのことしんじちゃだめだ。そうじゃないとおかあさん、かえってこなくなる。
俺の言うことを何でも信じる安樹は、こくりと頷いて言った。
――みはるがいうならしんじない。おかあさん、はやくかえってきてほしいもん。
アレクの作る食事を食べ、アレクの用意した服を着て、アレクのいる家で眠ったけれど、俺たちはアレクに心を許したりはしなかった。
けれどある事件をきっかけに、安樹はアレクに懐くようになった。
――あれく。あすね、わかったの。
……それは安樹が初めて、俺より他の人間を信じた出来事だった。




