汚さぬ袖(問題編)
シャツも。ノートも。ペンも。纏わりつく全てが湿っぽい。夏草の香りを感じ始めたはずが、気づけば灰雲で覆われる日々が続いている。梅雨がやってきたのだ。
主人公、黒川は、一限目の授業を憂いでいた。苦手な教科である数学だからだ。授業が始まり、解答の採点が進むと、黒川は先生の様子がおかしいことに気づいた。普段の癖である、チョークで黒板を叩く仕草を抑え込み、しきりに袖を払うのだ。その奇妙な行為の理由を、黒川は思案する。
シャツも。ノートも。ペンも。纏わりつく全てが湿っぽい。夏草の香りを感じ始めたはずが、気づけば灰雲で覆われる日々が続いている。天気予報が一年で最も当たる季節、梅雨がやってきていた。
生徒玄関に向かい、自分の靴箱の前で靴を脱ぐ。既に登校した生徒たちのにぎやかな声が廊下を伝い、玄関に反響していた。靴箱を開ける。生ぬるく、質感のある空気に相反し、靴箱の中で一晩眠っていた靴はひんやりと冷たい。かかとを押し込み、喧騒の響く廊下を歩み出す。陰鬱とした今日の始まりを思い浮かべながら、教室に向かってとぼとぼと歩みを進めていくと声が掛かった。
「黒川、おはよ」
振り返ると、新聞部同期、雨乃芽来が折り畳み傘を携えて立っていた。
「雨乃か、おはよ」
俺は軽く手を上げる。
「なんだか、表情暗いね。なんかあった?」
眉根を覗き込むように俺を見る。
「…まぁ、察してくれ。この後のことを」
その言葉で理解したのだろう。雨乃は軽く吹き出すのをこらえ、口元に拳を当てた。
「…一限目が数学、なのね」
控えめに笑みながら、こちらを再度一瞥する。
「あたり」
本日最初の授業は数学。正直なところ、俺は数学は得意ではない。数式を解き明かす面白みを分からずにいるままだからだ。苦痛ランキングは同率一位。物理とトップを争っている。稀に面白いと思うときは、SF作品に出てくる法則が、教科書に出てくる式とリンクしたときだが、そんなことは滅多に起こらない。
「先生とウマが合わないんだっけ」
そう。数学が苦痛である最たる理由は、数学担当の先生が絶望的に合わないことなのだ。
「そうだ。どうにもあの教え方が得意じゃなくて」
数学担当の原尾先生は、いわゆる『叩き上げタイプ』。人格否定はしないものの、問題を正しく解けないことに対しては強い口調で非難を浴びせる。一方、しっかりと問題が解けた際には、よくやった、やればできると賛辞を送る。このように、強いムチとわずかなアメを使い、原尾先生は生徒たちを指導する。このタイプの先生に合う生徒は、なにくそ、と反骨心を持てるタイプだろう。しかし、そのような対抗心や向上心、認められたいという承認欲求を持ち得ない自分にとっては苦痛でしかない。ある種の修行だ。イエスマンと化し、菩薩のように平穏心を保たなければやっていられない。
「今日の午後は全体集会と学年集会だし、午前さえ耐えればって感じじゃない?」
雨乃の言うように、今日は午前のみ授業だ。午後は選抜大会に参加する生徒の壮行会、コンクールで受賞した生徒の表彰、今後のテストスケジュールや進路指導といった学年集会が夕方まで行われることになっている。とはいえ、集会で拘束されるわけだから、どちらにせよ、辛い一日には変わらない。
「集会は集会で面倒じゃないか?」
「確かにね。じっとしていないといけないし。黒川って、男子にしては珍しく、集会とか寝ずに聞いてるタイプだもんね」
それにはちゃんとした理由がある。集会の場で寝落ちすると、生徒指導に目をつけられ、後々面倒な目にあうのだ。それは、クラスメイトたちの前例からも明らかで、だからこそ、起きて聞いているふりだけでもしなければならない。つまり、結局のところ、午後も座禅を組まされているのと同じなのだ。
「寝てるほうが面倒ごとに巻き込まれるからな。だから、今日は午前午後とも修行僧さ」
数学の授業では、問題を解答する担当が毎回割り振られており、授業が始まる前に黒板に記述しておく必要がある。今日も、教室内がざわめく中、数名のクラスメイトが自身のノートを横目に、数字やアルファベッド、記号といった文字で黙々と黒板を埋め尽くしていく。読書の中にも日本語が登場するのに、どうして数学の証明に出てくる日本語はこんなにも陰鬱な気持ちにさせるのだろう。カバンから数学の書籍を取り出しながら、思わずため息が出た。
開始時刻三分前。騒がしかった教室が静まり始める。そして、時計の針が目盛りにかかる頃には、天気の悪さと相まって物悲しい静寂さが教室を包んでいた。
チャイムが鳴って数十秒。大きな開閉音が響き、数学担当、原尾先生が姿を見せる。
「日直、号令」
「きりーつ」
バラバラと椅子の引きずる音。静止。
「れー」
一礼すると各々が着席する。授業の始まりだ。
「はい。じゃ、はじめるぞ。32ページ。問1」
先生は持参したチョーク入れから赤いチョークを手に取ると、身を黒板へと翻した。瞬間、先生の腕が大きく空を裂く。
「はい。この解き方はダ、メ、で、す! 大川、先週教えたでしょ!」
そういうと、記述された文字の羅列に、大きくバツを書きつけた。さながら、鋭い日本刀で敵を両断するかのよう。一方、解答を記述した大川は、青ざめながら黒板を見つめている。
「おまえ。こんなんじゃ、テスト赤点だぞ。いいんか、こんなんで?」
このように、毎回誰かが公開断罪をされる。強メンタルを持ち得る人間でない限り、心にダメージを負うことは避けられない。
「特にココ! なんで、こんなまどろっこしい導出してんだ」
そう言いながら、チョークで問題箇所をゴンゴンと叩く。原尾先生の癖だ。先生は黒板の該当箇所を指すとき、指などではなく、チョークで強く押し叩く。そのため、鈍い打音が響き、チョークは欠落ち、粉が舞い散る。その癖により、先生は人一倍チョークを消費するため、毎回自分のチョークケースを持参し授業に望んでいる。
「ここはこう! これなら二行で書ける。わかったか?」
「…は、はい」
萎れた大川は見事に黒板を見つめるだけの石像になってしまった。
「はい、次。問2!」
そう言いながら、原尾先生がシャツの腕を捲ったその時だった。強烈な違和感を覚える。普段、絶対に取らない行動を先生が取ったからだ。いつもであれば、服に降りかかったチョークの粉を授業が終わってもなお払おうとしないのに、今日に限って袖や腕から粉をさっさと払い落としたのだ。
「これも、ダ、メ、で、す! 山田!」
その行為にあっけにとられていたためだろう、先生の声に、山田の背中がビクつく。
「はっ、はい!」
「なんでダメかわかるか?」
「えっ、えっと…」
言葉が出てこない山田はまごついた。きっと誤答の理由が答えられるほど、脳のリソースが余っていないからだろう。先生の粉を払う仕草によって混乱しているに違いない。
「しっかりせんか! ここはこ、う、で、す!」
あれほど丁寧に書き写していた数式も、その左手に握られた黒板消しによって一瞬でかき消されてしまった。そして、真紅のチョークは美しい筆記体て新たな数式を生成していく。
「こう! この式を覚えてないのは、まず試験落ちます。ええか」
そう言いながら、黒板を叩こうとチョークが垂直に降ろされる瞬間、先生はチョークを静止させる。叩こうとする自分を押さえ込んだのだ。ばつが悪そうな表情を浮かべながらも山田に向きかえり、問題が解けないことが死につながるかのように、強い語調で非難した。
「わかっとるんか? 初歩の初歩だぞ」
理由を探ろうとする思考が頭の中でぐるぐると回り出す。袖を汚さないことに理由があって、チョークで黒板を叩く癖を抑えようとしていることは、それ付随するものだと考えられる。では、なぜ先生は袖を汚さないようにしているのだろうか。理由をいくつか推測してみる。一つ目は、単純に服を汚したくないから。例えば、降雨による多湿が原因でチョークの粉汚れが落ちにくくなるため、なるべくすぐにはらいおとそうとしている。思いついたが、すぐに否定する。それはありえない。前回の授業も雨だったが、原尾先生はそんなことをしなかった。むしろ、今まで袖を払う行為すら一度も見たことがない。二つ目。袖が汚れることで、何かデメリットが発生するから。例えば、あまりに汚し過ぎて、職員室で周りの先生から何か言われたとか。これも、なさそうか。一つ目と同じように、以前から汚して入退室しているのだから、いきなり不満をぶつけられるということはないのではないだろうか。おそらく、汚さないように気をつけている理由は、一時的、今日、もしくは近日中に限っての、なんらかの理由によるものではないだろうか。
では、例えば今日、汚れないようにしなければならない何かがあるとするなら、それは一体何だろうか。その時だった。虚空を見つめて推考していた俺に喝が入る。
「黒川! 顔が緩んでる。集中せんか!」
不意打ちだった。名指しを受けると電気信号が全身を駆け抜け、背筋が一気に伸び上がった。
「す、すみません!」
注意が前方に向く。原尾先生は不快な表情を俺に向けていた。
「ちゃんと前見ろ。お前もよそ見できるほど成績良くないだろう」
その言葉に周囲がクスクスと笑った。頰が赤くなる。それはそうなのだが、人前で断言されると恥ずかしいものがある。
「今笑った奴らも! しっかり解き方覚えなさいよ!」
教室がしん、と静まりかえる。原尾先生の言葉は、おそらく全員にとって人ごとではないのだ。
「さて、次。証明。これは、花田か」
「は、はい」
クラスで”出来る方”の人間である花田ですら、自身の採点を前に、少々ビクついているようだった。
「ようできとるな」
その一言に花田は胸をなでおろした。さすが花田だ。
「私だったらこう書くな。一応別解」
そう言い、原尾先生は花田の解答の隣に赤字を入れていく。証明の「証」の字を「言へん」まで書き終え、「正」の字を書こうとしたところで、おっと間違えた、と言いながら、手で文字をかき消した。どうやら漢字を間違えたらしい。
原尾先生には、もう一つ癖がある。片手にチョーク、反対の手に黒板消しを携えるのが先生のスタイルなのだが、ちょっとした書き間違えをした時には、黒板消しではなく、チョークを持った手のひらの付け根で、ゴシゴシと文字をかき消す。こちらの癖のほうは健在のようで、このことから、手の汚れに関しては気にしていないらしいことがわかった。
「こんな感じか」
そう言って原尾先生は向き直る。
「この問題は最初は難しいかも知れんが、証明の書き方のコツさえつかめれば書けるようになる。分からんかったら聞きに来なさい」
赤で書かれた別解は、筆記体で書き殴られているせいか、ところどころ周辺文脈から文字を読み解かなければならなかった。例えば、係数の「係」の字の「人べん」なんて、上が突き出して「手へん」っぽくなっている。しかし、そんなことのために不審な顔を浮かべていれば、また「的」になる可能性があるため、俺はとりあえず、別解を必死にノートに書き取った。
その後も、叩きそうになる腕をほどほどに抑えつつ、粉が舞うたびに先生はさりげなく袖を払っていた。他のクラスメイトはその不可解な行動を気にするどころではなかったようだが、その不自然さを目で追ううちに授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「はい。じゃあ、今日はここまで。先週のテストは来週返します。今週は夕方はいないので、質問は来週以降来るように。以上! 号令」
「起立、礼」
先生は一目散に教室を去っていった。皆、気が抜けたようで、それぞれがため息や伸びをし、安堵している様子が見受けられた。
一方で俺は、皆が授業の濃密さによって忘れていたであろう、汚さぬ袖のことで頭がいっぱいだった。なぜ、あれほど気にしていたのだろうか。
これが、黒板を叩くクセを止めるためであれば、もう少し理由が推測しやすい。例えば、叩きすぎでいつもチョークがすぐ折れてしまっているので、折すぎないように気にしている、だとか、チョークを黒板に叩きつけるときに使うであろう、上腕三頭筋のあたりを筋肉痛か何かで痛めていた、であったり。あとは、あり得ないが、卓球部の顧問だから、バックハンドで腕を痛めたから、叩けなくなった、など。ただ、そうではなく、彼は、チョークのついた袖を仕切りに気にし、払っただけなのだ。
これだけでは、理由にたどり着くことはできない。試しに、クラスの卓球部に聞いてみることにした。
「なぁ、山田」
「お、黒川か。どした?」
先ほどまでとは打って変わり、山田は開放感に満ちた表情を浮かべている。
「原尾先生って、最近なんか変わったことあったか?」
俺の発言に少し眉根が上がる。
「いきなりどうしたんだ。原尾先生のことを聞くなんて珍しい」
「ほら、原尾先生って卓球部顧問だろ。何か、知ってるかと思って」
「いや、そうじゃなくて。なんで原尾先生のことを聞くんだ?」
「ちょっと気になることがあって。ほら、今日の授業で」
そういうと、山田は首をかしげる。
「何か変わったことなんてあったか?」
どうやら山田は、原尾先生の行動に気づかなかった側の人間らしい。
「黒板、チョークでほとんど叩いていなかっただろう。それに、袖を払った。だから不思議に思ってな」
説明すると、あぁ、と納得がいったようで、
「あぁ、確かに。そうだったかもな。ちょっと怖くてそこに気が向かなかったけど。変わったところか、うーん…」
山田は腕を組んで目をつぶる。
「例えば、部活とか」
「部活ねぇ…。変わってる話かわからないけど、一個あった。この前の日曜に練習試合で他校に行ったんだよ。他校に行く前に、いったん学校に集合して、先生の車に必要な荷物を積むんだ。運んでもらうためにな。この前はたまたま自分がその担当だったから、先生の車に器具を積んだんだよ。
卓球部だから、そんな大きい荷物ないんだ。せいぜいスーパーの買い物カゴ二つか、三つ分ぐらい。下手したら、助手席に全部乗っちゃうぐらいなんだ。なのに、その時に限って、先生以外誰も乗らないのに、なぜかめちゃくちゃ後ろの座席の間隔を広げてたな。他校についてから荷物をおろしたんだが、後ろの座席に誰も乗ってなくて、あれはなんだったんだろう、ってのはあったな。
あ、あともう一個あった。先生、どんなに忙しくても、一瞬は部活に顔を出しに来るんだけど、先週、顔を出しに来た時に、たまに謎のポーズをとってたんだよな。あれ、なんていうんだっけ。ボディービルダーが胸筋を強調する時にするやつ」
「ああ、腕組みを左右に外していく感じポーズか?」
俺は、腕を前につきだしながら両肘を六十度ほどに曲げ、両こぶしを握る。
「そう、それそれ。何かを囲うようなポーズの練習を取ってる感じ。結局それも理由聞かずにいるな」
「そうか。先生は今日卓球部に顔出すか?」
「おそらく。だいたいいつも五時ぐらい」
「じゃあ、その時に聞きにいく」
「お、新聞部の血がさわぐ感じか?」
「どちらかというと純粋な疑問と好奇心、だろうな。ただ、お前は何を詮索してるんだ、って言われそうな気もするがな」
「いや、意外と先生なら答えてくれるんじゃね。変なこと聞いてるわけじゃないし」
そんなことを聞いているうちに、次の授業を知らせるベルが鳴った。
「やあ、黒川君」
昼食後。渋い顔を浮かべながら、全体集会が行われる講堂へ向かっていると、たまたま廊下で文芸部の相川隼也と行きずりとなった。
「相川君か」
彼とは、文芸部のイベントで協力したことがきっかけで、面会するたびに、ひとことふたこと話すようになっている。
「相変わらず、硬い表情だね。例の、読書スランプかな?」
読書スランプ、とは、以前まで活字中毒だったが、急に長時間集中して文章が読めなくなってしまったことを表すために自分で名付けた造語だ。今もその症状に苦しんでいる。
「いいや、今日はそっちじゃないんだ」
ちょうどいい。相川君に話してみるか。俺は今日起こった出来事、聞いた話を簡潔に話すことにした。原尾先生の今日の授業。袖を払う様子や、印象的だった出来事。山田から聞いた話。一連の奇行を話したところ、相川君はくすりと笑った。
「…なんだ。君がともあろう者が、そんなこともわかってないのか。」
少し嘲笑うように言った。
「わかるのか?」
「もちろんさ。君は鋭いのに、必要以上に頭を使わないんだな。君らしい」
バカにしている、というよりはしっかりしてくれよ、というニュアンスだった。
「現物を見たからこそのバイアスがあるのかもしれない」
「それは否定できないね。客観的な情報提示だけのほうがパズルが並べやすいこともある。それでも、今の話を聞けば情報は必要十分だ。自ずと答えが出る」
「どんな?」
正直、今回の件は自分になんらかの影響がある事象ではない。だからこそ、少し考えて解決しないのならば、いっそ聞いてしまってもいいだろうという気でいた。だが、相川はそれを許さなかった。
「それを言ってしまうのは面白くないだろう? そこまで情報を得たのなら、サボるのはよくない。…よく、思い出すんだ。原尾先生は袖をできる限り汚さない行動をとることで、どういう状態になり、何をしようとしているのか?」
「理由の先にあるもの、か」
ここまで言われては、自力で解き明かしていくしかないだろう。
「一つ、ヒントを出そう、黒川君。先生は、おとといの、自分が受けた授業のときも袖を払っていた」
相川君は思いもよらぬことを口にした。今日だけではなかったのか。
「それは、本当?」
「ああ。確かにそうだったよ。つまり、少なくとも今週は袖を払っている、そういうこと?」
「そうだ。答えを知っている側であれば、そうしている原因が先週末から今週末にかけて起こった、ということが容易に想像できる。それに、現物を見たからこそのヒントもあるだろう。もう少し考えてみるといいさ。健闘を祈るよ」
そう言うと、彼はそそくさと講堂の中へと消えていった。
原尾先生は袖をできる限り汚さない行動をとることで、どういう状態になり、何をしようとしているのか、か。確かに、自分の注意が事象ばかりに目が向いていることを改めて実感する。
袖を汚さない、ということで、先生は何をしたかったのだろうか。未だ、答えは出ずにいた。
汚さぬ袖(解答編)に続く。




