かりふわのあさ
日曜早朝。目が覚めてしまった黒川。ふいに散歩に出かけることにしたのだが…
短編です。シリーズを読んでいなくても、読めます。
夢の中のSFはうまく事が運ばなかった。宇宙で戦闘機に乗り、飛び回るも撃ち墜とさせる夢。冷や汗とともに目が覚めた。午前五時。まだ鳥も鳴かず、外は暗い。日曜日なんだ、二度寝しても誰も文句は付けないだろう、と言いたいところだが、布団の上で転がってみても、視界が蕩けていかない。
冴えた。本でも読もうか。こんな朝の読書は気持ちが良いのだ。ふいに、小学生の頃の朝読書を思い出す。まだ、読書に目覚めて間もない頃だったのが惜しかったが、今となってその有意義さに気づいている。
しかし。起こした上体、布団から立ち上がる動作。どれを取っても、いつになく体が軽く、ふいに運動したい欲求が芽生えていたのだ。もちろん、ランニングなんてするほどの体力は持ち合わせていないが、なんとなく散歩ぐらいの運動がしたい、そんなシグナルを体から受信しているように思われたのだ。軽く伸びをし、階段を降りて洗面所に向かう。顔を洗い、歯を磨く。その後、誰かに出くわしてもいい程度に身を整えて、念のため財布を持つ。朝の闇へ続く、玄関ドアを開いた。
夕方よりも早朝が好き、だと思う。日が昇るにつれて、闇の中に溶けていた見えないものが姿を現していく、そんな光景が、推理小説の解決編で披露される、伏線回収の流れに似ていて楽しい。加えて、早朝の空気も好きだ。冷たさが、空気がそこに存在することを肌で感じることができ、なんだか日常の機微も肌で感じ取れるような錯覚に陥らせてくれる。
ジャケットのポケットに手を突っ込み、不意に寂しさを感じる。手持ち無沙汰とはこの事だろう。いつもなら手に携えられている文庫本がないため、違和感を抱かざるをえない。紛らわすために空を見上げた。
夜が星を連れ去ろうとしていた。次第にグラデーションがかっていく空には雲はなく、澄み渡っている。もう、吐く息は濁らず、季節の流れを感じている。入学して二ヶ月、いや三ヶ月にさしかかろうとする中で、俺だけではなく世界も進んでいるんだな、と感じた。
散歩とは言いつつ、なんとなく回るルートは決めていた。大通り、商店街、母校の中学校を通ってぐるっと一周。なんだか、猫の縄張り巡回みたいだ。日曜の朝という事もあり、通行量が少なく、落ち着きのある大通りを抜けると、商店街の区画に入った。
定食屋の半開きのシャッターから白熱灯の光が漏れ、小型トラック後方のアルミに反射している。ダンボールを搬入していた。市場から仕入れてきたものなのだろう。二人の男性がせっせと店内にしまいこんでいく。日曜くらい休めば良いのに、とも思ったのだが、二人の作業はまさに水流のようで、自分が眠っている時間帯に昔から続いている、ルーティーンワークのひとつなんだなと理解する事ができた。横目に通りながら、挨拶を交わす。
しばらく歩くと、高校への通学路に出た。別方向からとはいえ、普段見覚えのある景色になるとこうも安心感を抱くのか、と内心驚きながら、一路歩んでいく。ちょうど、街灯が消え、空が赤らみを見せはじめていた。そんな中、一軒のお店が視界に捉えられる。
『カフェ・デルタ モーニング、やっています』。へぇ、このお店はカフェもやっているのか。普段、新聞部を終え、下校時に見かけるこのお店は『Bar トライアングル』として、いつも準備中の札がかけられている。ネオンの看板やチョークアートのメニュー、カジュアルな内装。石窯ピッツァ。おしゃれで敷居が高いが、まず美味しい店で間違いないだろうとは思っていた。普段、店先に出ているチョークアートもいつものワインから、湯気立つコーヒーに変わっており、『窯焼きのパンと美味しいコーヒーのセットで500円』という、カラフルな売り文句が描かれていた。ちょうど、お腹がすいてきたところだし、前から入ってみたいと考えていたところだ。みたところ、先客は少ない。これはいい。俺は少し緊張しつつ、扉を開けた。
「いらっしゃいませ。おはようございます」
三十代ぐらいだろうか、短髪のマスターらしき人物は快活な笑みで俺を迎えてくれた。なんだ、こんなにも敷居が低かったのか。安心したため、心の中でため息が漏れていた。
「おはようございます」
「お好きな席にどうぞ」
促されるままに席に座ると、冷水の入ったコップが置かれ、メニューが手渡された。
「石窯パンがオススメです。お決まりになりましたらお呼び下さい」
「ありがとうございます」
メニュー、一枚目。でかでかと書かれたモーニングの文字を見つつ、下段に書かれた組み合わせを見る。パンは石窯ピザパン、石窯アンパン、ベーシックなジャムやバターをトッピングできるトースト。コーヒーはホット、アイス、ジュースから選べるようだ。どんな石窯なのだろうとキッチンの方に目を向けると、そこそこ大きな窯があり、半月状の窯口がほのかに灯っていた。これは、期待できそうだ。そして、あたりの壁には夜の部のフードの写真が貼られており、ピザの写真を発見すると、自然にピザパン一択となっていた。
先に出てきたホットコーヒーに口をつけつつ、メニュー立てに置かれた夜の部、『Bar トライアングル』のメニュー表を眺めた。そこにはトライアングル、デルタ両方の店の由来や歴史が紹介されていた。兄がバーとしてトライアングルを作ったのち、パンの修行を終えた弟がデルタとして昼間営業しているらしい。また、トライアングルの由来は、よい食事・よい酒・よい空間の三つの視点から、良い店にしたいということからだそうだ。一方、デルタのほうは、ギリシャ数字4番目で差分を表すデルタにちなみ、店の雰囲気、看板の三角形マークは共通であるけれど、よい時間という四つ目の視点から良い店にし、変化を感じてもらえることをこめて付けたそうだ。いいネーミングだ。
メニューに夢中になっていると、聞き覚えのある声が俺を呼んだ。
「黒川くんじゃない、珍しい!」
視線を上げる。そこにいたのは、新聞部の先輩、紺野先輩だった。元気のいい女の先輩で、面倒見も良く、雨乃がお世話になっている様子を良く見かけている。あまり話すことが得意でない自分でも親しみやすく接してくれる、素敵な先輩だ。
「紺野先輩じゃないですか。おはようございます」
「おはよー! 相席、いいかな」
「はい」
「パンはこれで、ドリンクはこれで。お願いします!」
「かしこまりました」
先輩はメニューを受け取ると、慣れた手つきでそのまま注文をした。どうやら常連らしい。と、同時に自分の注文した石窯ピザパンが届いた。チーズとパンの香ばしい香りがデーブルを埋める。
「黒川くん、ピザパンにしたんだね」
「はい。前から気になっていたので」
「美味しいよ。ただ、熱いから気をつけてねー」
「忠告、ありがとうございます」
パンは長方形で、周囲が盛り上がっている。トッピングの輪切りの赤と黄色のパプリカと、ペパロニが色合いを添えている。ふっくらと仕上がった生地をゆっくりと裂いていくと、トマトペーストとチーズの香りが蒸気とともに広がり、もっちりとしたチーズとパンの生地が線状に広がっていく。ふわりと鼻をつくそれらの香ばしい香りに、口の中が潤っていくさまを感じた。一口頬張る。かり、ふわふわ。口の中の細胞全体が喜びを感じるように、その味を受け止めていく。まさに、おいしいを感じるとはこのことなのだろう。自然と口角が上がった。
「黒川くんって、いい表情するんだね」
紺野先輩は笑った。とたんに緩みすぎた表情筋が、その言葉で形状記憶合金のように戻っていく。恥ずかしさのあまり、口元を抑えた。
「そ、そんなに変でした?」
「ううん。そんなことないよ。とってもいい顔だった! 続けて!」
「続けてって。そう言われちゃ難しいですよ」
「大丈夫。普通においしさを噛み締めていれば、またいい顔になるよ!」
嬉しいんだか、恥ずかしいんだかよく分からない感情の中、俺はパンに再びかじりついていった。
数分後、先輩のドリンクとパンもテーブルに並んだ。先輩はアイスコーヒー、そして、
「私はいつも石窯アンパンなんだー!」
と嬉しそうに言った。
「お気に入りなんですね」
「うん。何でかといとね…」
先輩はそう言うと、アンパンを二つに裂いた。その瞬間、餡のふんわりとした優しい甘い香りと小麦本来の豊かな甘い香りが同時に広がった。
「どう? すごいでしょ」
「食べずに絶品だとわかりますね、この香りは」
「でしょでしょ。だから、一番のお気に入り! ただね」
先輩はパンにふーふーと息をかける。
「…猫舌なんですね」
「そうなんだ。そこが少し残念」
そう言い、ちぎってパクリと頬張った。
「でもやっぱり、おいしい」
優しいものを食べると、人はこんなにも優しい表情になるんだな、と俺は感心してしまった。
パンに夢中になりながらも、前々から気になっていたことを尋ねてみた。
「付かぬ事をお伺いしますが、どうして先輩は新聞部に入ったんですか? 学生の新聞部なんて、先輩と対極にあるような部活だと思っています」
そう、先輩のその元気良さ、明るさは一般的な新聞部のイメージと乖離しており、どうしてこのような人気者タイプである先輩が在籍しているのか、自分では疑問の種だったのだ。そう言うと、先輩は笑い、
「よく言われるよく言われる。確かに、普通はそう思うよね。でもね、黒川君。逆よ逆、私だからこそなの」
思いもよらぬ返答に、俺はひるむ。
「えっ」
「好奇心旺盛な私だからこそ、この部がいいのよね」
「よければ、教えて下さい」
「ほら。うちの新聞は学校や地域に焦点を合わせる性質上、日常の中に確かにある、小さな発見や、素敵なものに気づく事ができるじゃない。それに、そういう素敵なものを友達の女子だけじゃなく、男子、先生、新聞を取ってくれたみんなに平等に届けられるところがいいと思うんだ。隠れ家みたいなところを紹介するのは少し躊躇しちゃうけど、普段、運動部とかがクタクタで帰るだけの家路でも素敵があるってことを伝えられて、それをおすそ分けできるってすごいことだと思うの。誰かに元気を与えられることができるのが、私には合ってるなって思って。それがうちの新聞部に入ったきっかけかな。もちろん、そういう部分にも重要性を感じてもらえて、紙面を割り振ってくれる部長のおかげでもあるんだけどね。それで、少しでも明日が楽しくなれば、もっと嬉しいよね。そう言うところが新聞部がいいなって思ったところかな」
先輩が人気のある理由がよく分かったかもしれない。日常のなかにある素敵なものを共有し、読んだ人の明日が少しでも楽しくなればいい、か。こんな素敵な感性を持ってる人のところに人が集まらないわけがない。それに、中学の頃から続けている自分がこれまで淡々と記事と割り切りすぎて、本質を忘れてしまっていたなとも感じた。ぜひ、見習わなければならない。
「…なんか、立派すぎて背中を向けられません。素敵です」
こういう人を先輩に持てるということは、とても幸せなことなんだろうな、と思う。
「そんなことないよ! 普通だって! …なんだか私の方が照れるな」
先輩は顔をしばらく覆った。きっと、恥ずかしさと同時に、自分が言った言葉に対して内省しているのだろう。奢らずも、輝く人。そんな印象を改めて紺野先輩に対して抱いた。
「その気持ち、これからも持っていて欲しいです」
「ありがとう。ああ、アンパンが覚めちゃった…」
先輩は嬉し恥ずかしと言った表情で残りのコーヒーをあおった。
店を出る。陽は昇り始め、空気に柔らかさを感じるようになった。
「次はアンパンを食べてみます」
素直な感情が口に出た。
「言ったら分けてあげたのに」
「いいえ。それじゃあ、楽しみがなくなります」
「そうだね。それなら、また、ここで会えるかもしれないね」
「それも楽しみです」
「じゃあ、黒川君。また学校で。よい一日をね!」
「先輩も、よい一日を!」
なんだか、散歩に来たはずが遠足のように遠くまで来てしまったように感じられた。それほど、密度の濃い朝だったんだろう。
今日は、いつもより素敵な日曜になる、そんな気がしてならない。
黒川回なのに、なんか可愛らしいタイトルになってしまいましたが、いいかなと思います(なお、今朝書いてそのまま投稿しているので、誤字脱字が多いかもしれません…)。
早朝っていいですよね。そんな思いを小説にのせてみました。
みなさんの明日が、少しでも素敵になりますように。




