雨上がりのあとで。
ある日の夕刻。喫茶店ブラウンに立ち寄った雨乃。ミステリではなく、日常回です。
アスファルトに染み込むほどだったしずくは勢いを増し、大きく反射音を立て始める。徐々に響きを増すホワイトノイズに心地よさを感じていていると、重要なことを思い出してしまう。…傘を持ち合わせていないのだ。カップを帰ろうにも帰れなくなってしまった夕刻の喫茶店ブラウン。店内にはマスターと私の二人しかおらず、窓から覗く空は灰色が濃さを増すばかりだった。次第にバケツをひっくり返したような雨音が室内に流れる優雅なジャズに打ち勝ち始め、これにはマスターも困惑した表情を浮かべている。
「…降って、来ましたね」
自然と声が漏れた。
「そうですね。困りましたね」
洗い終わったコーヒーカップをガラス棚に戻しつつ、マスターが答えてくれた。
「もう梅雨の時期なんですね。てっきり、まだ先のこととばかり思っていました」
季節は六月初旬。春の陽気な爽やかさをわずかに残しつつ、立ち込める雲が厚みを増していた。晴れた日にはアスファルトにはゆらぐ陽炎が散見するようにもなった。そのゆっくりと重さを持った光景はまるで怠惰を訴えかけられているようで、夏になるなら夏になってほしいと思ってしまう。
「季節というものは、いつの間にか忍び寄って盛りを迎えるものですからね」
「…私は、梅雨はあんまり好きじゃないです、かね」
春とも夏ともつかないこの中途半端さ。じめじめとした空気。もわっとした暗い雲。浮かべただけでも暗い気持ちになってしまう。
「私も嫌いな部分はありますね。客足も減りますから」
やっぱりそうなのか。ぱちぱち、ざあざあ。張り詰める雨音の中でも、低く伸びやかなマスターの声は聞き取りやすく、声に乗った感情からも本心がよく伝わってくる。
「でもですね、好きな部分もあります」
「好きな部分、ですか?」
「季節がブレンドされてるみたいじゃないですか。春と夏。お互いのいいところが見られますからね。なんだか、胸躍りませんか?」
そう言われるとマスターのいうこともわからないでもない。ものは考えようなのかもしれない。
「それに、梅雨の雨上がりはオマケがつきます」
「オマケ、ですか?」
なんだろう。オマケというとお菓子についたおもちゃなんてものが浮かんでしまうけれど。きょとんとしているとマスターは笑みを浮かべる。
「雨があがってのお楽しみです」
そう考えていると、マスターは私のところにやってきて、湯気の立ったコーヒーカップを置いた。
「あれ。私一杯しか頼んでないですが?」
「大雨の日のサービスです。皆さんには秘密ですよ」
「あ、ありがとうございます」
ご好意に甘え、感謝の意を伝えた。ちょうどカップを空にしており、口を持て余していたところだったので嬉しかった。ひと口流し込むと、やさしい暖かさが体を流れていった。先ほど飲んでいたマンデリンとは異なり、ほのかにあまい香りが鼻先を刺激した。
二度目の口づけ。一度目は香りと暖かさに気を取られていたが、もう一度意識して口に含んでみた。舌に溶け広がる、柔らかな豆本来の甘み。それを追いかけるように苦味が味を引き立てたのち、最後に爽やかな酸味が味を締めくくらせた。角が取れ、バランスの良い味に私は気付く。
「ブレンド、ですか?」
「はい、そうです。お口に合いましたか?」
「はい。素晴らしいバランスです。美味しいです」
「それは良かった。時間はありますから、ゆっくりしていってください。雨が上がるまで」
いただいたコーヒーに舌鼓を打ちつつも自分の作業に取り掛かる。新聞部の資料。英語の課題。合間に、読書。一巡する頃にはジャズがまた空間を満たしており、雨音は消えていた。窓から外を見渡すと雲に切れ間に鮮やかなオレンジが見え始めていた。
「あがったようですね」
マスターは嬉しそうに言う。
「そうですね。これで帰れます」
「お気をつけて」
「長い時間、ありがとうございました」
私は席を立って入り口を開き、ブラウンを出た。
ふと、店先の花壇から視覚に訴えかける色があった。淡くきらめきを放つ紫が雨粒をなじませて潤い、鮮やかに咲き誇っていた。紫陽花だ。その葉には、ちょこんとアマガエルが喉を動かしながら休憩している。
今度は空から光が瞬いてきた。雲間から照らされる夕焼け。さらに地表に向かって巨大なアーチをかけていた。虹だ。私はおもわずカバンからカメラを取り出して構えた。
ああ、なるほどと私はうなづく。マスターが言いたかったのはこれだったのだろう。季節がブレンドされたことによる美しい姿。雨上がりのオマケ。雨の後にやってくる世界の美しい夏模様は梅雨にしか味わえないのだと。
私は鮮やかな空をバックに紫陽花に向かってシャッターを押す。切り取られた季節の一枚は梅雨への鬱々しさを払拭するには十分すぎる一枚となった。
即興小説「うつろうなかの美しさ」改稿。




