作中作 西方旅行記
Who is the 6th writer(s)?内に登場する「西方旅行記」という短編です。
失われた大海の真相を追い求めるため、深淵を目指して冒険するお話です。
作中描写に合わせ、意図的に用語を多めに増やしたり、表現を崩したり、詳細を省いたりしている部分があります。
この話をここに記すことができたのは、僕が冒険家だからであるからだけではない。様々な人、生活、文化。それらの入り混じるこの世界を僕が見て、聞いて、歩いて、学ぶことができたからだ。
これから誘うのは、この地球から海が失われた五年間を辿る旅行記だ。よく、耳を目を、五感を尖らせて聞いてくれ。
嘘だと思う人間はそれで結構だ。でも、これは僕が実際に経験してきた本当の出来事なんだ。だからこそ、この世界の美しさや素晴らしさに偽りがないことを僕は伝えたい。
これは、神と未来と冒険者、ロジャー・ウィークスによる、旅行記だー。
世界が割れて、五年が経つ。丘の上から眼下に広がっていた美しいアルグ海とどこまでも続く水平線。それらは未だに姿を消したままで、漂っていた潮風の爽やかな香りは今では思い出せなくなってしまった。水滴のひと粒すら残さず、漆黒の深淵となったそれらはあの世界が割れた日から沈黙を続けたままでいる。
王国会地学調査委員会が深淵探索部隊の第一陣を送り込んで早くも三年が経とうとしている。
その異質の深淵領域へと自分も踏み込むべきだろうか。若手冒険家として名を上げ始めたロジャー・ウィークスは考えあぐねていた。探検隊の姿を見送ったあの日は、自身が探検隊に選抜されなかった悲しみや選ばれた彼らへの嫉妬の感情を抱いていたはずが、三年が経過した今では、帰ってこない彼らのことが心配であると同時に、助けを待っている、そんな気がしてならないのだ。
気づくと、マピアの門戸を叩いていた。あれほど隆盛を極めたマピアも、深淵調査の停滞、アビスディガーズの行方が分からなくなってからは、衰退する一方だった。こうしてやってきた委員会集会場は、町の中央通りから、裏通りのいかにもカビくさそうな陰気な小さな小屋へと立地を変えており、今でもここにやって来るのは、必死に地位にしがみ付く学者、変わり者の探検家、もしくは、狂信者のように深淵に期待を浮かべ続けている一部の学者だけだった。
木製のドアを開けると、いつも通りのジジイ達が辛気臭そうに、テーブルの上の地図の稜線をなぞったり、分厚い年代物の地学書を漁っていた。部屋は暗く、分厚い書物やこれまで発見した財宝、食料を入れたガラスの瓶がところ狭しと並べられている。
「珍しいな、お前がここに来るなんて」
でか鼻、モジャモジャの白髪。統括委員長フェルデンテールが新聞から顔を上げ、目を細めてロジャーを見た。あれほど忙しかった三年前とは大違いで、退屈そうな表情から相当暇を持て余している、そうな様子が伺えた。
「ちょっと話しにきた。いいか、爺さんたち」
きっと、ここに残った学者たちにすら、ロジャーは変わり者に見えるのだろう。内地の探検家として名を上げ始めている探検家たちの間では、深淵に関わることは既に一種のタブーと化しており、出世街道から大きくそれることを意味しているのだ。
テーブルの埃を払い落とし、ロジャーは帽子を置き着席する。好奇の目が四方からゆっくりとテーブルめがけて集まってきた。よほど、馬鹿者か、地位を投げ打つ変人に見えるのだろう。腰の曲がった老齢の学者たちは詰め寄るようにロジャーを囲い、今か今かとロジャーの言葉を待った。
「単刀直入に言うと、俺も深淵に行こうと思っている」
ロジャーの言葉に辺りがざわめいた。その大半が嘲笑と呆れ、そして怒り。何度も同じ言葉を行方の分からなくなった冒険家から聞いたからだろう、フェルデンテールも苦笑いを浮かべ、ロジャーの言を聞く。
「やはり、冒険家である以上、この黒の稜線の謎を解明することが俺の使命だと思っている。それに、アビスディガーズが待ってる気がするんだ」
その言葉に、一部のオーディエンスが声を上げる。
「そうだろう! 深淵は君を呼んでいるんだ!」
「そうだ! お前は行くのだ!」
仲間を失い、おかしくなってしまったのだろう。狂信的になってしまった一部の学者たちは、周囲の人間にすぐに押さえつけられた。
「しかしだなぁ、これ以上行方不明者を出すわけには……」
「確かに、魚介類が取れなくなったことで仕事を失った人々が出た。しかし、以上に実害がないんだ。我々の委員会と予算は、これ以上死者を出せばなくなってしまう」
マピア存続のための保身派たちは、なだめるようにロジャーに告げる。
「そんなことをするくらいなら、もっと稼ぎのいい内地の探検をしなさい。君は深淵には向いていない!」
深淵から遠ざけようとする者と、様々な意見が矢継ぎ早に飛んできた。
「しかし、我々は深淵に関する答えを何も得ていないのは明らかじゃないですか」
「何を言っているのだね。君は。結論は去年出たじゃないか。深淵の大半がプレート変動によってできた、果てしなく巨大な裂け目だと。これ以上、何を期待しているのだ、君は!」
どかどかと人波をかき分けながら怒鳴り散らしてきたのは初代統括委員長ファイスマンだった。
「プレート変動? ならば地震が起こるはずです。その痕跡はありましたか? それに、海は、あれほど莫大な水はどこへ消えたというんですか。どうしてあなた方はこの問題に真っ向から向き合おうとしない!」
ロジャーは強く意義を唱えた。のっそりと椅子に鎮座する地学の重鎮達はお互いに目を合わせながら、そのおかしな学説を変えようとしなかった。しかし、ロジャーは見抜く。その目をそらすそぶりの奥に、深淵への畏怖があることを。それもそのはず、数年前、深淵の先へと調査に向かった第一次調査隊の冒険家、学者達の乗った飛行船の許可と指示を出したのは何を隠そう、ロジャーを取り囲むこの一団だったからだ。
悶着の中、フェルデンテールが場を制し、こう告げた。
「私たちは君のその飽くなき挑戦心と、果敢な行動力に敬意を持っている。しかし、相手が、深淵が。わからなさすぎるんだ。どれだけ調べようとしても相手の底が深すぎるんだ。そんなものに挑戦しようとする君に対して、責任を取ることが怖いんだ」
その言葉に辺りの学者たちは皆首を縦に振る。辺りを見渡したのち、フェルデンテールは続けた。
「もうこれ以上、有望な人材を失うことはこの国にとって莫大な損なのだよ。若者を失った国は、凝り固まった人間のひと舵で一気に転覆してしまう。だからこそ、君のような若者には、この国に残り、舵をきって欲しいんだ」
諭すような、諦めて欲しいような視線をロジャーに向けるが、ロジャーはその言葉に怒りすら覚えていた。
「では、あなた方が代わりに調査してくれますか?」
ロジャーは冷淡に言葉を返す。しかし、誰も返事はできなかった。
「所詮は学者なんですよ、あなたたちは。探検家あがりであっても、既に探検家ではないんです。未知のものに立ち向かうことを恐れた時点で、あなた方は探検家ではない。
……わかりました。いいでしょう。私一人が勝手に行ったと言うことにしておいてください。責任は私自身が取りましょう。その代わり。私が帰ってきたとき、あなたたちは深淵学者を、探検家を名乗ることをやめてください。いいですね」
ロジャーは立ち上がって、帽子を被ると振り返ることもなく集会場を去った。
ナイフを脇に刺し、瓶に飴型補給食を詰めた。ザックを背負うと、ロジャーは海岸に向かって歩き出し、その果てしない深淵の入り口を目指す。対岸の大陸への直線上の中点が一番深い海溝であることが昔から知られており、ロジャーはコンパスを手に、西に向かって海抜高度を少しずつ下げていった。
砂浜は徐々に岩場に代わり、かつてサンゴ礁だった浅瀬の迷宮を、コンパスに従ってゆっくりと底へと下る。浅瀬では、既に海洋生物のいた証はそこにはなかった。枯れ果てたサンゴの平野には、家を持たない流浪人たちが、効果で売れる海洋鉱物を採掘しており、何人ものやせ細った鉱物広い(ピッカー)たちとすれ違った。
「あんたもピッカーか。もう、この辺の縄張りには掘り出し物はないよ」
「いいや、底を目指しているんだ」
「アビスディガーズの方かい。あんたらも物好きだねぇ。もう、私らの方が稼げてるんじゃないか」
皮肉めいた言葉をかけられながらも、ロジャーは言葉を返す。
「いいや。俺は自分の意思で来ている。冒険家の責務ってやつでね」
「まぁ、頑張りなよ。死なない程度にね」
海の先にあるはずの大陸方向を指すコンパスに従って歩き進める。力強い水流に削られた岩場何度も見かけるものの、一向に島一つ目につかなかった。それどころか、ひたすら、深淵のそこに向かうように、目の前の道は沈み込んでいくだけだった。
降下をはじめて、十五日目の夜。思いもよらぬ光景が広がっていた。どこからともなく種が飛んできたのだろうか、雑草が鬱蒼と茂っており、その群生地には、ヤギの群れが生息していたのだ。どこからともなくやってきたヤギたちは、高山地帯に住むそれらのように、崖から崖を蹴り上がっては、草花をバリバリと食べ漁っている。その光景に驚いていると、後ろから声がかかった。
「珍しいね。陸地の人か」
灯したランプを翻す。麻布のマントに身を纏う人物にロジャーは背中のナイフに手をかける。しかし、その姿はまるで遊牧民のようで、動物皮の服装に、もこもことした帽子を纏っていた。
「あなたは?」
「断崖案内人、とでも言おうか。この果てなき淵を行き来しながら生活している者さ。争う気は無い。その構えを解いてくれ」
テルミドと名乗る彼は海水が消えた一年後からこの地に住んでいると話してくれた。日は暮れ、冷え切った谷底の夜をロジャーは彼と話しながら明かすことにした。死んだサンゴの残滓や乾燥しきった藻。磯の香りは薄れつつあるが、かつて海だったという事実がそこに横たわっていた。
「この辺は、まだ海らしさが残ってるから臭いだろう」
五年前まであった、この海の残滓。穏やかな風が凪いでいたあの頃をロジャーは思い出す。
テルミドは話ながら、小さな真鍮製のランプに火を灯した。辺りを見通すには不十分だが、お互いの顔を照らすはできる。一方、亀裂のそこから見上げる夜空はわずかに明るいが、谷底に降り注ぐ星の光などあるわけもなく、亀裂に沿って見える星の隊列はひたすらに遠かった。
「で、ロジャーさんはどうするんだい。深淵を調べるったって、あてなく歩くだけでは、飢えて死んでしまうだけだ」
「とにかく、底を目指すべきだと考えています。少なくとも、海水が消えたのなら、蒸発ではなく、底に大きな穴に吸い込まれた、ということのほうが信用できる仮説だと考えますからね。幸いにも、食料事情が急速に発達したおかげで、少なくとも三ヶ月は飯に困りませんからね」
「それはすごい話だな。見た所、それほどの食料を持ち合わせていないようだが、どうやって食料事情を解決しているんだい?」
「これです」
ロジャーは懐から瓶を取り出す。瓶には、七色に輝く飴玉が詰め込まれていた。
「ただの飴のようにも、不思議なガラス玉にも見える。これは?」
「エネルギーの塊、とでも言いましょうか。物質には一定数のエネルギーしか、閉じ込められていないのはあなたもご存知でしょう。クッキーを例にしましょうか。高カロリーではありますが、もともとの材料以上のカロリーが含まれているわけではありません。しかし、この飴は、物質から取り出したエネルギーを追加で練りこんであるのです。つまり、クッキーの例で言うと、クッキーの中にクッキー十枚分のエネルギーが追加で練りこまれている、という感じです。数年前にできたものですが、これを祝福の球と呼んでいます」
「それはすごい。私らは草や、このヤギからでる乳だけだからね。そのブレス・キューブひとつで何日持つんだい?」
そう言いながらも、何かを見極めるように
「五日は持ちます。あと、水に関しては、ろ過装置があるので、一応なんとか」
ロジャーが告げると、テルミドは何やら腕組みをし、ロジャーに話を始めた。
「私はクリフ・ガイドだと言ったね?」
「はい」
「実は、とある旅人からあるものを託されたんだ」
「とあるもの、ですか」
「ああ。地図なんだ。私は底まで案内できるが、食料が足りなくてね。そこで、取引がしたい。私が君をそこまで案内する代わりに、私に食料を分けてくれないだろうか。どうしても、このヤギたちを連れて行くだけでは心もとなくてね」
試すような視線だった。ロジャーはテルミドにこう尋ねる。
「私も、このまま海を失い続けるのは嫌だからね。失うにしても、ちゃんと理由が知りたい。私はこの海が好きだったんだ」
テルミドから受け取った地図を、ロジャーは広げた。その地図は二次元状に広がるだけでなく、高さを踏まえた三次元の地図が描かれていた。書かれている文字には見覚えがなく、ロジャーの知っている限りでは、周辺国のものではないことが理解できた。ところどころに朱色で書き足された見覚えのある文字は、テルミドが付け足したらしく、アルグ海とロジャーのやってきた祖国の形が描かれていた。
蜘蛛の巣や木の根のように広がる地割れの線と、描かれた等高線から、自分たちの位置が何と無くわかったものの、縦軸方向の高さの表記にロジャーは恐怖を覚えた。なぜなら、面積を示す、縦横の長さの単位と、深さを示す縦の高さの単位の桁が一桁違っていたためだ。それだけの深さの水が一瞬で消え去ったことを考えると、得体の知れぬ恐ろしさに、体が武者震いを起こした。
「深淵の覇者、と自身を呼んでいた。冒険家のなれの果てのようでもあったし、その姿、言動から、この時代の人物でもないようにも見えた。その男とは、ここ、深海抜千五百メートル地点で出会った。ヤギを連れて歩いていた私に出会うと、君ではないようだなと一言言って、この地図を渡してきたんだ。冒険家たる資質のあるものがいたら渡せ、と。詳しい話は聞けなかったが、深海を訪れる人間を見定めて、目的の人間以外には無作為に地図を配っているらしい」
「で、その目的の人物が俺、と言うことですか」
「深海の覇者はこう言っていたんだ。冒険に取り憑かれた亡霊のような人物に会ったら渡しなさい、と。きっと、どんな暗闇の中でもその人間は暗がりに溶け込めないはずだ、と」
それからの日々は、洞窟を潜り続けるようだった。時折、ブレス・キューブを口にし、ロジャーとテルミドは陽光の届かなくなった亀裂の闇底に向かって、ランプのわずかな光を灯していく。
何日経っただろうか。地磁気の狂い始めたらしく、ロジャーはコンパスの修理をしながら、仮眠を取る準備に入っていた。テルミドが連れていたヤギたちは力つき、手元に残るのは、ロジャーの持つブレス・キューブのみとなっていた。
「ひとつ、もらうよ」
「ああ」
テルミドが瓶から飴を取り出したときだった。テルミドが手を滑らせ、キューブは、コンパスの芯にコロンと落下する。瞬間、二人は声をあげた。
「なんだ!?」
飴玉が弾け、光はコンパスの赤い芯に吸収され、芯がほのかに輝き始めたのだ。
「何が起こったんだ?」
回転していたコンパスの芯は即座に北から西方向を指すと、小刻みに揺れ始めた。
「キューブのエネルギーが、芯に影響したのか」
「……いよいよ深淵が近い、と言うことかもしれないな」
重力だけが、闇の中でロジャーたちに自分の座標を伝えてくれている。かつて、深海の底であっただろう、深淵の果て。ただひたすらに、小さく輝くコンパスに従い、歩き続けていると、仄かに青く灯る、一筋の光が見えてきた。
青白い炎は近づくにつれて、二つの火柱であることがわかった。その扉の袂にたどり着くと、そこには焦げ茶色のローブに身を纏った男がこちらを見た。
「お待ちしておりましたよ。最後の希望」
「最後の希望? 君は誰だ?」
「私は深淵の覇者。この世界で最も底であり、最前線で神に刃向かう者。そして、この世界の希望を導く者。さぁ、来なさい」
扉が開かれると、視界が真っ白に染め上げられた。
「最後の希望よ。お前は、全てを知る権利がある。前に進む勇気は残っているか?」
「ああ。俺は、深淵を、このアルグ海に何が起こっているのか。それを知るためにここまでやってきた」
覇者は、ロジャーの意志を確認すると、言葉を切り出した。
「神に刃向かうと言ったね。なぜ、我々が神に刃向かう必要があるか教えよう。神は、我々未来人と、現在人を滅ぼそうとしている」
「まてまてまて、話が飛躍しすぎだ。神や未来人がこの深淵となんの関係がある?」
「神は、未来の世界の大陸と、現在の世界を衝突させることで、人類文明、さらには地球という惑星のリセット試みようとしているのだよ。
二つの世界が衝突しようとする、まさにその時、高度に進化した未来の我々の世界で、その異変に察知した調停者と呼ばれる科学者が現れた。彼は、ある莫大なエネルギー源を用い、この地球と未来の地球の衝突を止めることに成功した。
さて、大陸同士の接近を止めるために必要な莫大なエネルギー源はどこから供給したか。ここまで言えば分かるだろう?」
「まさか、海水」
「そうだ。エネルギー変換の候補として上げられたのが、まさに消えてしまった海水だったんだ。調停者は、海水をエネルギーに変換する技術を持ち得ており、未来と現在、私から見れば、未来と過去に当たるな。それぞれの大海から莫大なエネルギーを抽出し、調停者は二つの地球の衝突を止めるエネルギーとした」
海水のなくなった地球。学者の唱えていた、世界の海が崩れ落ち、地殻変動によって、大陸間が決裂したため、失われたという説ではなく、大陸間衝突を受け止めるために、海はエネルギーとして蒸発し、失われた結果、この深淵が生まれた。信じられないことを続ける深海の覇者は、最後にこう告げた。
「神と調停者の力は均衡していて、この深淵が保たれている。しかし、いつ世界が衝突するかわからない。これが現在の状況だ」
「そんなこと、どうやって信じらればいいんだ。私たちには、神も、未来人も、地球衝突も、根拠のない話にしか聞こえない」
取り乱したテルミドは、少し息を荒げて投げかけた。
「根拠を見せれば良いのだね。では、」
そう言うと、ロジャーの脇に取り付けられていたブレス・キューブの瓶が宙に浮かび上がった。蓋が取り除かれ、キューブが周囲に散開すると、星のようにキラキラと輝きだした。
「これも、我々のエネルギー変換技術を使って、深淵から君たちの国へ持ち帰らせたものです。これを共鳴させると莫大なエネルギーとして利用することができます。では、この偽りの天球をお見せしましょう」
瞬間、キューブはバチンと粉々に弾け、霧が晴れ渡っていくように、辺り一帯の深淵が一面の星空へと置き換わっていった。瞬く間にあたり一面には、どこまでも広がる黒い地平と、夜空が映し出された。
「さて、これが君たちの見ていた夜空、でしたが……」
覇者の言葉に合わせ、キラキラと宙を舞うキューブの粉が一枚の大きなレンズのような姿となる。
「本当の姿はこのようになっています」
そこには、もう一つの地球がぶつかる寸前のところで静止していた。まるで、空いっぱいに鏡があるかのようだった。青いはずの球体の表面は、同じように黒ずんでおり、そこが深淵であることが即座に理解できた。しかし、よくよく見つめてみると、空に映る大陸は、自分の大陸とは違っている。つまり。
「同じ、地球がもう一つ…」
言葉をなくしたテルミドは、空を見上げながら、その場に膝をついた。
「……止められないのですか」
焦りながら、ロジャーは覇者に声をかける。
「たったひとつ。最後の方法があります。それこそ、君を最後の希望と待望していた方法なのです。こちらへ来てください」
ロジャーは深淵の覇者に案内され、わずかに灯る、光の元へと誘われた。光の先には、古びた扉が取り付けられており、隙間からはオーロラのような時間にそって構成する色を変えるような明かりが漏れていた。扉を抜けると、そこには、飛行船に乗っていた冒険家たちが神前で捕縛されていた。
「君がちいさな飴を舐めながら争っていたように、我々は海水を使い、神に抗って来た。さぁ、ここが神の世界です」
目の前に現れた。巨大な王座。そこに腰掛ける、巨大で気品にあふれた老人。彼こそが神だった。
「よく来た、最後の冒険者よ」
立ち上がり、神はロジャーたちの元に歩み寄ってくる。その歩行音はハーブを鳴らすように優雅で心地よく、油断すると、浄化されてしまうのではないか、そう思えるほどの安らぎの波動をロジャーたちに伝えてくる。
「さて。ここは、君たちの世界とは隔てられた、独立した世界だ。君たちの、その無限に分岐し、幾重の軸に平行分岐した世界のうち、二つの世界をサンプルしたのが、君たち二つの世界だ。
何かが壊れる、と言うのは観察のしがいがあるものだ。我は一度栄えた文明を破壊し、その後の世界の変遷を眺める、という実験をおこなうことにしたのだ。今すぐおこなってもいいのだが、我は説得の時間を設けることにした。争う生物の姿は美しい。加えて、君たちにも生存する権利がある、と考えているからだ。しかし、時間はたっぷりあるが、いい加減に実験を始めたいと考えている。そこでだ、我々は十人の冒険家、と呼ばれる人物たちに、この世界の存在価値を問うことにした。全知の我々に、未知の広がる君たちからみた、この世界の価値だ。
残念ながら、そこで横たわっている九人の冒険家はみな、我の期待を超えることはできなかった。そして、ロジャー。君が最後だ。それを、お前が説くことができれば、世界の衝突を止めてやろう」
そう。神が調停者により、提示されたかけは、すなわち、神の世界にやってきた冒険者が神を説得できれば、世界が復元される、というものだった。囚われた冒険者は皆、その賭けに失敗していたのだった。神と調停者の取り決めにより、この世界の住人で、次に来る、最後の冒険者が行うかけが、最後のかけとなっており、仲間たちが、しきりにロジャーがいると言ったこともあり、ロジャーが最後の賭けを行う人間になっていた、と神は言った。
「さて、深淵までたどり着きし、最後の旅人よ。君はこの世界の価値をどう解く?」
この場にいる、すべての視線がロジャーの口元に集まった。
「……では、神様。あなたにとって、冒険とはどう言う意味を持つと思いますか」
「危険を冒し、未知のものを明らかにすること、だろう」
ロジャーはその言葉に微笑む。
「あなたは冒険をしたことがありますか」
「そんなこと、する必要がない。我はすべてを知っているのだ」
「する必要がない? いいや。あなたにはできないことなんです。既に、全てを知っているあなたにとってはできないこと。全知・全能であるがゆえにあなたには永遠にできない、私たちにしかできないことなんです。
……加えて。危険を冒し、未知の世界を明らかにすることだけが、冒険者の務めではないんです。そこから学び、何かを感じ取り、自らの糧とすることが冒険者だと私は思っています。冒険は旅だ。歩いて、見て、聞いて。すべてを知っているが故に、あなたは私たちのように外から得ることができない。外から得られないと言うことは、その地に思いを馳せたり、その世界のよさや素晴らしさについて考えることが出来ない。そうできる人間の本質は、今も昔も、そして未来も変わらない」
「……」
「あなたは、すべてを知っているからこそ、独りよがりで無知だ。だからこそ、神様にできないことをやっている我々には、この世界には、価値がある。そう私は考えます」
ロジャーはまっすぐに神を見る。とんでもない宝物を見つけたかのように、ロジャーはとても目を輝かせ、楽しそうな表情をしていた。
「……我が全能であるが故に、持ち得ないものがある、と」
「ええ。それが、俺たち人間です」
「泉のように、各地に湧く場所を作るのはどうだろうか」
「いいや、雨を降らせるべきだ」
「魚はどうする? 他の大陸から放流するか?」
「石碑は立てるか?」
マピアはいつになく賑やかだった。帰ってきたアビスディガーズ。海水が再び満たされることが約束されたアルグ海。ロジャーの凱旋。街一団となって催された歓喜の祭典をロジャーは抜け出し、丘の上の自宅へと戻った。
解放されたテラスからは、少しずつ海水が戻っているこの深淵への探訪を回顧する。
底知れぬ闇への挑戦。
マピアでの意思表明。
ピッカーたちの彷徨う死んだサンゴのまっさらな平原。
テルミドと出会い、真相に迫り始めたあの夜。
仄かなランプを頼りに目指した果てない暗闇。
深層の門と覇者。
神との邂逅。そして、説得。
深淵の旅は、本当に楽しかったなぁ。
街へと帰った来た時、本当に達成感でいっぱいだった。同時に、旅する前に決別したマピアの老人たちへの呆れや、追い出そうと思っていた切り捨ての気持ちはもはや微塵も持ち得ていなかった。気づいたのだ。神を諭すために出て来た言葉は、自分をも言い聞かせていたことに。
『あなたは、すべてを知っているからこそ、独りよがりで無知だ』
言葉が蘇ってくる。はっと息を飲んだ神様の表情を今でも覚えている。たとえ、すべてを知らなくても、独りよがりで無知だったのだ。冒険は。いや、旅は。自分だけのものでなく、人類皆のものであることに。
街の方へ視線を向けてみる。どうやら、祭典は佳境に入っているようで、賑やかな太鼓や楽器音がこちらまで流れて来た。
風が凪ぐ。
再びほのかに香る潮風は、火照ったロジャーの頬を静かに撫でていった。
本編も八月中には更新していければと考えています。




