3.櫻井花音
花音は私にとって、もう一人の……否、唯一“本当の姉”のような存在だった。
彼女は理不尽を言う両親やお姉様、先輩の使用人たちに毎日厳しく当たられて、たびたび物陰に隠れて泣いていた。見ていられなくてこっそりハンカチを貸したのが、花音との交流の始まりである。そのハンカチもお姉様が使い古したおさがりだけれど、差し出せる私物がそれしかなかった。けれど花音は大袈裟に感激して、お姉様たちの目を盗んで私を気遣ってくれるようになった。
「さん付けなんていりませんよぉ~。良音さまだって大上家のお嬢様なんですから、せめて私が相手の時だけでも、ね?」
使用人相手にも敬語で接していた私に、花音は朗らかに提案してくれた。
「私も名前に『音』の字が入るんです、お揃いですね!うふふ~」
両親が投げやりに付けた何の意味も願いも無い名前に、花音は初めての感想をくれた。花音はいつも、私に生まれて初めての言葉をくれた。
そんな彼女が私の酷い手荒れを見かねて、ハンドクリームを渡してくれた時。とうとうお姉様に見つかり、花音は大上邸を追い出されてしまったのである。
「こんな子に施しを与えるなんて!お父様、この穀潰しをクビにして!!」
「そうだな、せっかく払った給料をそんなことに使われてはな。」
理不尽な理由で解雇された花音を、私は庇うことも引き止めることもできなかった。それからずっと、彼女の身を案じていた。路頭に迷っていないか、次の就職先は見つけられただろうか。ずっと、心配していた。
それがまさか、裏戸家の女中になっていたなんて。
「あの後、実家に帰ったのですが……母の知人の伝手で、ここで働かせて貰えるようになったんです。」
「そうだったの…………路頭に迷ってはいないかと、心配していたのよ。」
「私もですぅ……!良音さまがあれからも大上家で酷い扱いを受け続けていたと思うと、何もできなかったのが悔しくて悔しくて…………!!」
ポロポロと泣き出してしまった花音に、私の目頭も熱くなる。そんな私たちの感動の再会を見守っていた青年が、そっと花音にハンカチを差し出した。
「ほら、まだまだお嬢様とは話さなきゃいけないことがあるんだから。」
「うぅっ、グスッ、ありがとうございますぅ。」
「本当にこの子ったら、「大上家のお嬢様が嫁いでくる」と聞いてからずっと落ち着かなくて。奈緒美さまだったらどうしよう~とか、良音さまだったら~とか、もうずーーーっと!!」
「ご、ごめんなさいぃっ!」
奈緒美、というのがお姉様の名前である。私を案内してくれた女中さんが、花音の上司らしい。ため息交じりに愚痴をこぼしてはいるが、そこに『トゲ』は感じられない。どうやらこのお屋敷では、大上家のようにいじめられてはいないらしい。
────パンパンッ!
手を叩いて場を仕切り直したのは、裏戸家の御当主様────裏戸譲治様。名前だけは先に聞いていたが、顔を合わせるのは初めて。両親は私に、婚約する相手の写真すら見せてくれなかった。
「再会を喜んでいたところで申し訳ないが、良音殿には話さねばならぬことがある。」
「……はい。」
花音との再会は嬉しかったが、考えるまでもなく私は裏戸家の嫁に相応しくは無い。私の事情を花音から聞いている、つまり私に妖力が無いことも。きっと婚約は認めてもらえないだろうけど、この様子なら就職までの援助はしてもらえるかもしれない。姿勢を正し、真正面から譲治様に向き直る。
「良音殿はこの婚約が成立しないと考えているだろうが、むしろ俺は貴殿にこそ妻になって貰いたいと考えている。」
「………………、…………え?」
予想と真逆の言葉に、開いた口が塞がらなかった。




