この世の春は
太陽が最後のかけらを地平線に吸い込ませてから、庭の灯りがぽつぽつと灯りはじめる。
牛の首にぶら下がったカンテラからも煌々と光が放たれている。
闇にぼんやりと浮かぶ白い車。
愛しい人を永遠に連れ去ってしまう箱が、柔らかい光を受けてこの上もなく荘厳な雰囲気を醸し出している。
幻想的とも言えるこの光景を、自分は死ぬまで忘れることはできないだろう、と東の国主は思った。
また、どこかで鈴が鳴った。
ああ、もう行くんだな。と、御青はぼんやりと灯りを眺めて、意を決したように最後の姿を目に焼きつけようと、車内に視線を戻した。
「……」
慌てて、傍らに不気味な笑いを貼り付けている店主に叫ぶ。
「おい!」
「なんでございますか」
「これは夢ではなかろうな?」
「蟲は総じて夜を好みます。中和されてからは自己治癒力を発揮いたしますが、力を温存させるために一旦眠りに入ったようでございます。毛一筋を残すまで溶かされたとしても、主から約束をもらった環姫は信じて待つものですよ。その想いが詰まった体でしたら、例え肉片ひとかけらからでさえ蟲は再生を繰り返すでしょう」
店主が話し終わったころには、主はとっくに涙で震える愛しい環姫を車から抱き降ろしていた。
「サン……」
「みさおさま」
もう二度と離れぬぞ、とつぶやいた主に、山茱萸は頬を紅玉よりももっと赤くさせて笑った。「はい、みさおさま」
東の国。青竜の国。
多くの王がその座を奪い、奪われ、歴史から姿を消した。賢王と称えられる中に、殊にその名が語られる国主がひとり。
不思議と、かの国主に関する膨大な記述に、その名が記されるのはある時期を境にした後のことで、多くの学者の紛争の種となっている。
彼が生涯をかけて愛した環姫の名は、悠久の時の流れの渦に巻き込まれいつしか忘れ去られるのだが……。
だから、ただ、人々は想像するだけだ。
美しい姫が、主を優しく呼ばう姿を。その声を。
「深山青さま」
と。
「金香さま」
青い牛の尻を軽く叩き、無人の車がゆるゆると動き出すのを見て、郁金香は辞去を告げた。主の腕に抱かれて、目線を同じくする愛しい環姫が寂しそうに彼女の名を呼ぶ。
ふたりはしばし見つめ合う。交わすべき多くのことばがある。しかしどちらもあえて口には出さない。ただ、穏やかな笑いを共有するのみ。
「幸せにおなり」
「はい」
最初にこの国にやって来たときも、延珠亭の女は同じことを言った。山茱萸は今度こそ明るく答える。
「いつでも戻ってきてよいのですからね」
「はい」
素直にうなずく環姫を見て、御青は慌てた。
おい、と叫ぶ国主に、山茱萸は怯えたように、しかし首にしっかりと腕を回して抱きつく。どんなに恐れても、環姫は愛する主から離れることなどできない。
御青が優しく山茱萸の髪に唇を落とすのを確認して、郁金香はもう一度深く頭を下げた。
「お買い上げ、ありがとうございます」
その後ろ、しゃんしゃんと鈴を鳴らせた牛車が遠ざかっていく。
晩春。もう春も終わり。
しかし延珠亭店主は知っていた。季節とは、ただ花が咲くころを知り、鳥が囀る時を学ぶものにすぎない。
この世の春はいつでも、それを求める者だけに訪れるということを。
了