声なき歌手と、静かな手指
深夜二時の新宿駅東口。
ネオンの明かりが薄らぎ、街が深い吐息をつく時刻。ビル街の路地裏自販機の間にあるスペースに、今夜もまた、命の取引を望む客がやってくる。
「一度でいい。あいつに、俺の歌を届けたい」
病で声を失った青年は、スケッチブックにそう切痛な文字を走らせた。
かつて路上で歌っていた頃、いつも最前列で笑顔で聴いてくれていた一人の少女。彼女は生まれつき耳が聞こえず、声も出せなかった。音が聴こえないはずの彼女が、なぜか青年の奏でるギターの振動と歌う表情を誰よりも愛し、毎夜楽しみに通ってくれていたのだ。
「ええ。ですが対価が必要です」
榊は静かに目を細めた。
「貴方の『残りの寿命』を……と言いたいところですが…」
榊はふっと視線を落とし、手元にあった命の砂の入った小瓶を弄んだ。
「貴方が今後取り戻すはずだった『声の回復の可能性』それが代償です。今夜限りの奇跡のあと、貴方の喉が音を奏でる可能性はゼロになります。……それでも、よろしいのですか」
青年は力強くうなずき、スケッチブックに固い文字で書いた。
『あいつが明日、遠くへ行ってしまう。耳が聴こえなくても、胸の奥に直接響くような、俺の本当の歌声を、一度だけでいいから届けたい』
病で沈黙していた喉の奥へ、榊の指先がそっと触れる。かすかな光とともに、青年の中に残っていた未練と沈黙の呪縛が抽出され、鈴の中へと封じ込められた。
「わかりました。取引成立です」
青年は大きく息を吸い込んだ。喉の奥に、久しく忘れていた温かい熱が宿る。彼は深々と頭を下げると、ギターケースを握りしめ、夜の新宿へ走り出していった。
――途端。
榊は激しい目まいに襲われ、パイプイスに手をついた。胸の奥に鉛のような重い痛みが走り、自らの喉からすっと感覚が奪われていく。
正当な対価(寿命)を奪わず、歪んだ条件で奇跡を起こした代償。その反動が、榊の身体を容赦なく苛んでいた。
「あいつの声が戻る可能性は、取引がなくともなかったはずだぞ」
足元で、三毛猫のクロが呆れたように尾を振る。
「お前、またやっただろう…」
「さあ?でも、言葉や音を超えた想いというものを聴きたくありませんか?」
かすれきった声でそう呟き、榊は優しく胸元を押さえた。
その夜、街角の小さな広場で、たった一人と一人の特別なライブが行われた。
青年の奏でるギターの音色と、奇跡のように響き渡る透き通った歌声。
空気を揺らすその歌声は、榊がかけた密やかな奇跡によって強烈な情熱の波となり、少女の耳へと直接届いていた。
少女は胸を押さえ、ボロボロと涙をこぼした。「ああ、この人はこんなにも温かい声で歌っていたんだ」と、全身で彼の心を感じ取りながら。
最後のコードが掻き鳴らされ、静寂が訪れる。
歌い終えた瞬間、青年の喉からふっと熱が引き、二度と声が出ない完全な沈黙が訪れた。けれど青年の表情には、晴れやかな笑顔があった。
青年は少女の目をまっすぐ見つめると、ゆっくりと手指を動かした。
『一緒に行こう』
――そう語りかけるような、不器用で温かい手振り。
少女はぽろぽろと涙を流しながら、何度も強くうなずいた。そして差し出された青年の手を、両手でギュッと握り返す。声は二度と出ない。けれど、二人は互いの手を引き合い、朝焼けの街へと静かに歩み出していった。
数日後。昼下がりの陽光が差し込む喫茶店で、ゆいが楽しそうに言った。
「榊さん聞いてくださいよ!夜の新宿の広場で凄い綺麗な歌声が聞こえたって噂になってたんです。でも、その路上ミュージシャンの人、翌朝にはいなくなっちゃったみたいで」
「……そうですか」
「あれ? 榊さん、喉の調子悪いですか? 声がかれてますけど……風邪ですか?」
ゆいが心配そうに顔を覗き込む。榊は手元のカップをそっと傾け、一口口に含んでから、優しく目を細めた。
「いいえ……少し、素敵な歌を聴きすぎてしまいまして」
「えっ、音楽鑑賞ですか? 榊さんが?なんて珍しい」
無邪気に笑うゆいの姿を、カウンターの足元からクロが何か言いたげに見上げている。
「音にならずとも、心に直接届く歌というものはあるのですね」
声にならない声で榊がつぶやいた。
「え? 何か言いました?」ゆいがクロと榊を交互に見ながら首をかしげていた。
相馬がカウンターの奥から出てくる。
「いいえ。……日常というものは、往々にして誰かの犠牲の上に成り立つものですから」
静かに時を刻む街の片隅で、榊は胸の奥に残る微かな痛みを抱えたまま、そっと温かい微笑みをたたえていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
音にならなくても、言葉にできなくても、心に直接届く想いというものは確かにあるのだと思います。
声を失った青年と少女が、これから歩む未来にたくさんの温かい言葉が溢れていますように。




