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時を刻む呪い

深夜二時の新宿駅東口


ネオンの喧騒から切り離された路地裏。

いつものパイプ椅子。足元ではキジトラ猫のクロが退屈そうに欠伸をし、鋭い爪で榊のズボンの裾を小突いている。


「榊、今日のは少し……質が悪いぞ」


クロの指摘通り、霧のような闇を抜けて現れたのは、擦り切れた革靴を履いた初老の男だった。その顔色は土のように青白く、もはや生者の輪郭を保つのさえ危うい。

男が差し出したのは、精巧な細工が施された、ゼンマイ仕掛けの古びた腕時計だった。


「あと少しで、俺は死ぬ。……だが、これだけは動かしてくれ」


男の命の灯火は、風前の灯だ。それでも男は、自分の残り少ない鼓動のすべてを、時計のゼンマイと交換しようとしている。


「寿命とは、本来ただの時間の積み重ねです。それを物へ固着させる、と」


「……娘に渡したいんだ。俺がいた証として。……この時計さえあれば、きっとあの子は俺を……」


榊の瞳から、昼の光が静かに消える。

指先が伸び、文字盤に触れた瞬間、銀色の火花が散った。男の胸元で、鈍い鼓動が限界を超えて加速する。


「おい」


クロが再び爪を榊の上着の裾にひっかけ、その禁忌の取引を制しようとする。榊は裾にかかった爪をゆっくりとはずし、男を真っ直ぐに見つめた。


「私が触れた瞬間、あなたの寿命はゼロになります。……代償はあなたの命。娘さんの目に留まるまで、針を動かすための燃料として、あなたの存在そのものが消費される」


「ああ。……頼む」


男の影が急速に薄くなっていく。榊が男の頭の上の数字に触れると、あやかしの息吹がゼンマイを噛み、時計が再び時を刻み始めた。カチリ、カチリと、男の命を狂おしく吸い込みながら。


男の身体が静かに塵へと還る中、榊は主を失い時を刻み続ける腕時計を、そっと懐にしまった。

その瞬間、榊の胸の奥に鉛のような重い痛みが走る。

本来の規約を破り、男の命をそのまま時計へ固定した代償。娘の目に留まるまでの間、歪んだ契約の跳ね返りが、榊の脈を冷たく苛んでいた。


だからこそ榊は、男の娘がアルバイトをしているという駅前のアンティークショップへ、その時計をそっと流した。彼女に見つけてもらうために。


――だが、人間の運命は、いつだって男の計算通りにはいかない。


数日後。そのアンティークショップで奇妙な噂が囁かれていた。

壊れているはずの古い腕時計が、ショーケースの中で、まるで心臓のように力強く時を刻み続けている。その「解明不可能な奇跡」に目をつけた専門家たちが動き出し、時計の歴史的・骨董的価値は跳ね上がってしまったのだ。



翌昼の喫茶店。

窓際の席で、ゆいが楽しげにカップを揺らしながら、その噂を口にしていた。


「そういえば榊さん、駅前のアンティークショップで変な噂を聞きました。店主さんが仕入れた古い腕時計が、壊れてるはずなのに勝手に動いてるんですって。価値が凄すぎて、近々博物館に寄贈されちゃうらしいんですけど……不思議ですよね」


ゆいは無邪気に笑い、横に座る榊に視線を向ける。

男が命と引き換えに遺そうとした時計は、価値が上がりすぎたせいで、ただのアルバイトである娘の手には決して届かない、ガラスの向こうの高嶺の花になってしまったのだ。


「榊さんのケーキもおいしい!……でも、なんで私には珈琲を淹れてくれないんですか?」


榊はいつもの穏やかな手つきで、相馬そうまが淹れた珈琲にミルクを落とす。

「僕が淹れる珈琲は、ゆいさんにはまだ苦すぎるんですよ」


「この前、別のお客さんに淹れてたじゃないですか!あれ一回だけだけど。それに、私もう大人ですから」


「まあ……そのうちに」


無邪気な問いかけに、榊は言葉を濁すしかなかった。榊が淹れる珈琲――それは、夜の底で寿命の取引をする者が口にする、「命を削る抱擁」であることを、彼女はまだ知らない。


「もう!……でも、ケーキがおいしいからいいや!」



ショップの奥で厳重に保管されている時計には、かつて路地裏で消えた男の、最期の拍動が宿っている。それは娘に見つけてもらうためだけの、哀しい命の鼓動。しかしそれはもう、誰の手にも触れられない「歴史の遺物」へと変わっていた。


「それは良かった」


榊の優雅な微笑みが、店内に差し込む陽光に溶ける。

カウンターの隅で、クロは目をとじたまま大きなため息をついた。


(形に遺さなければ伝わらない愛など、その程度のものでしょう。人間は物という器に自分のエゴを詰め込み、それを『絆』と呼びたがる。……価値が上がりすぎて娘の手に渡ることもなく、博物館の冷たいガラスケースに閉じ込められるなど、最高の皮肉ですね)


「ん?」


ゆいは気づかない。自分がただの「不思議な話」として楽しんでいるその時計が、一人の男の生涯を食い荒らした「呪い」の成れの果てであることを。

男の身勝手な願いは博物館の静寂に消え、榊は何も言わず、ただ丁寧に次のカップを温め続けた。


お読みくださりありがとうございました。

日常のすぐ裏側で、誰かの命が静かに誰かを待ち続けている。そんな歪な時計の音が、街のどこかで今も響いているのかもしれません。

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