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小さなあやかしのプロポーズ

深夜二時の新宿駅東口

人通りの途切れない喧騒から少し外れた雑居ビルの裏手。

自動販売機の隙間に置かれた古ぼけたパイプ椅子と、薄暗い闇の中でぼんやりと燐光を放つ『寿命買い取り、いたします。対価要相談』と書かれた小さな看板。


金色の髪を月光に溶かした麗しき男、榊は、キジトラ猫のクロを膝に乗せ、ただ静かにそこに佇んでいた。


そこへ、冷たい夜霧を割って、一匹の小さな影が迷い込んできた。

それは、すすにまみれて全身を汚した、一匹の幼い子狐のあやかしだった。

子狐の頭上には、白く掠れた無機質な数字が浮かび上がっている。その灯火は弱々しく明滅し、あと数日で完全に消え去ることを告げていた。


「……寿命、買い取ってもらえますか」


子狐は小さな身体を震わせ、涙を溜めた目で必死に乞うた。


街の片隅で凍えていた自分を拾い、自分が食べる分の食べ物を与え、これまで優しく守り続けてくれた、いまは病院のベッドで息も絶え絶えになっている老いたホームレスの男性を救いたいのだという。


「あやかしか」


膝の上のクロが、鼻をスンと鳴らして鋭い目で子狐を見つめた。

榊は表情一つ変えず、その小さな狐のあやかしを冷徹に見下ろした。


「僕の露店は慈善事業じゃないんですけどね。……あなたに、僕に差し出せるほどの価値ある命が?」


「でも……これしか、ないから。おじちゃんを助けられるなら、なんでもするから!」


子狐が差し出したのは、悲しみと飢えで心ごとすり減らした、あと数日しか残されていない自分自身の最期の時間、そのすべてだった。


榊はふっと、金色の瞳の奥に宿る昼の温和な光を消し去り、指先を黒く鋭いあやかしの爪へと変貌させた。


「いいでしょう。その『数日』、僕が確かに買い取ります」


あやかしの世界における絶対の禁忌を犯し、榊は子狐の残り僅かな数日を引き抜くと同時に、ある極めていびつな「契約」をその魂に上書きした。

それは、ホームレスの寿命を子狐の数日で繋ぎ止めるだけでなく、もし子狐がその最期の時までに「救われた喜び」を心から納得し、死の恐怖と悲しみを乗り越えられたなら、その命の輝きを本来の寿命へと還元させるという、奇跡の術だった。


この瞬間、本来なら老いたホームレスが息を引き取るはずだった病室と、路地裏で子狐が孤独に力尽きるはずだった運命の糸が交差した。榊は、その「死」の結び目を無理やり素手で引き千切り、二人の運命を強引にねじ曲げたのだ。

当然、世界の理を歪めた反動は、鉛のような重い痛みとなって、コートの下の榊の身体を冷たく苛み、変異を促していく。


「……お前、またそんな無茶な真似を。何がしたいんだ、一体」


クロが呆れ果てて吐き捨てる。

榊は自身に生じるあやかしの痛みをコートの下に隠し、何事もなかったかのように淡々とパイプ椅子に背を預けた。


「商売ですよ。僕は彼女に『悲しみを超える機会』という名の、いばらの道を与えただけです」


契約が完了し、ホームレスの男性に命の灯火が分け与えられた瞬間、子狐の身体から煤が綺麗に消え去り、ふんわりとした真っ白な毛並みが現れた。

去り際、子狐は嬉しそうにふさふさの尻尾を振って、振り返った。


「あのね、お兄ちゃん! 助けてくれてありがとう! お礼に、私が大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになってあげる!」


子狐は自分に課せられた過酷な試練など知る由もないまま、満面の無邪気な笑顔を向けた。

榊は眉一つ動かさず、至極淡々と冷ややかに返す。


「遠慮しておきます。……代わりに」


榊がすっと指先で、自分の膝の上で丸くなっているキジトラ猫を指差した。


その瞬間、クロの毛が逆立った。


「ふざけるなッ 榊!お前あとで絶対に爪研ぎの刑だからな!」


クロが「シャア!」と鋭い爪を榊の膝に立て、路地裏の闇に小さな争いと、榊の微かなクスリという笑み、そして子狐の元気な笑い声が溶けていく。

子狐は「じゃあね!」と跳ねるように、おじちゃんの待つ病院へと駆けていった。


榊は看板の淡い灯りを見つめながら、再び通り過ぎる者たちの寿命を視認し続ける。

榊というあやかしが吐き出す優しい嘘だけが、静かに、誰にも気づかれることなく、この街の毒と混ざり合っていた。



翌昼。

喫茶店の中には、いつものように穏やかな木漏れ日と、香ばしい珈琲の香りが満ちていた。


「あれ? 榊さん、左の脚、どうかしたんですか? さっきからちょっと歩きづらそう……」


カウンターの向こうでカップを磨いていたゆいが、榊の足元を心配そうに覗き込んだ。

昨夜の禁忌の契約の跳ね返りでほとんど機能していなかった。


「いいえ、なんでもありませんよ、ゆいさん。昨夜、少し元気な『野良猫』に懐かれましてね。少しじゃれつかれすぎただけです」


榊はいつもの「感じのいいお兄さん」の完璧な笑顔を浮かべ、トレイを片手に滑らかに歩いてみせた。


「もう、新宿の野良猫って狂暴なんですねぇ。気をつけてくださいよ? あ、相馬さん! さっきのお客さんのオムライス、すっごく美味しそうでした!」


ゆいはすぐに別の話題へと移り、楽しそうに厨房の相馬の元へと駆けていった。その眩しい後ろ姿を見つめながら、榊はそっとポケットの奥にあるガラス瓶に触れる。


カウンターの隅、一番陽当たりの良い特等席で、クロがバツが悪そうにそっぽを向いて丸くなっていた。


「……身を削ってまで嘘を通すとは、本当に、難儀な男だねえ」


クロの小さな呟きは、相馬が淹れる珈琲のコトコトという音にかき消され、昼の下がりの穏やかな隠れ家の中に、静かに溶けていった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

この街の淀みに迷い込んだ子狐の願いが、ほんの少しの温かさと、それ以上に冷たい現実を運んできたようです。

榊という男は、誰かを救うためなら平気で自分を切り売りするような不器用な生き物です。その毒気に当てられながらも、彼が誰の命を拾い、何を隠しているのか。これからも路地裏の商売は続いていきます。


このエピソードは「キジトラ探偵クロと空気が読めない助手 」の約束の来訪者とリンクしてます。

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