命の隠し味
深夜二時の新宿駅東口。
今夜は、熱の失われたコンクリートに紫と青のネオンが滲んで、まるで冷えた毒薬のように鈍く光る夜だった。
折りたたみ椅子に腰掛ける榊の前に、一人の男が立っている。
どこにでもいる、完全に擦り切れた中年サラリーマンだ。男の手は小刻みに震えており、差し出されたスマートフォンには、とある銀行の口座番号が表示されていた。
「俺の残りの寿命、全部売る。一刻も早く、全額をこの口座へ振り込んでくれ」
男の声は掠れていた。その必死な眼差しは、一見すれば、離れた場所にいる愛する誰かのために命を投げ出す、悲壮な父親の姿そのものだった。
しかし、榊の瞳からふっと昼の光が消える。
現れたのは、一切の情動を排した冷徹な「商人の瞳」だ。
「娘のため、ですか。――違いますね」
榊の唇から、冷たい吐息のような言葉が零れる。
「あなたは、自分の手で壊した家庭からも、山積みの借金からも、ただ逃げ出したいだけ。地味に生き直す度量もないから、死という劇的な幕引きで、自分を『悲劇の父親』に仕立て上げようとしている」
男の肩が、びくりと跳ねた。
「残された娘さんが、その金の重みに一生縛られ、自分を捨てた父親を美化して泣き続けることを望んでいる。……あなたのそれは愛ではなく、死際に見る最悪の独りよがり、ただの呪いです」
図星を突かれた男の顔から、血の気が引いていく。それでも男は、引き返すことのない絶望の淵で、狂ったように首を振った。
「うるさいうるさい……いいから、買い取れよ!」
「ええ、もちろん。僕は商人ですから。どんなに醜悪な命であっても、提示された対価通りに買い取るだけです」
榊の指先から、鋭いあやかしの爪が静かに伸びる。
それが男の頭上をかすめた瞬間、真夜中の新宿に、息をのむような光景が広がった。
男の頭上の数字から、サラサラと金色の微細な砂が溢れ出していく。
それは深夜二時の歌舞伎町を彩るネオンの光を乱反射させながら、まるで狂ったような光の吹雪となって宙に舞った。男の生きた時間の結晶が、榊の掌の中へと吸い込まれていく。
美しさと引き換えに、等価交換の代償は残酷だった。
大量の光を失っていく男の黒髪は、またたく間に白いものが混ざり、肌は砂漠のように乾燥していく。
つい数秒前まで人間だった肉体は、みるみるうちにすべての生命力を吸い尽くされ、最後はカサリと乾いた音を立てて金色の砂の塵となり、夜風の中へ消えていった。
東京の片隅で。
少女のスマートフォンが、無機質な電子音を立てて通知を知らせた。
画面に表示されたのは、出所不明の口座からの、莫大な金額の入金記録。
少女は指先で画面をスクロールし、何度もその数字を見つめる。父親が自分の命のすべてを切り詰めて作った金だとは、知る由もない。怪しい迷惑通知か、タチの悪い悪戯、そう判断するしか記憶になかった。
「……なにこれ。キモ」
少女は小さく呟くと、特に気にかける様子もなく画面を閉じ、スマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。
男が命と引き換えに遺そうとした重すぎる「呪い」は、誰の胸も締め付けず、ただの一度も波紋を広げることなく、新宿の雑ロップの中に消えていった。
自動販売機の影から、キジトラ猫のクロが静かに姿を現す。
「あいつの命は、ただの不審な数字に化けたな」
「当然です。命の価値は一律。そこに親の愛だの、過去の贖罪だのという特別な色はつきません。人間はいつだって、自分の命に大層なドラマを求めたがりますがね」
榊はいつの間にか人間の爪に戻った手で、上着の襟を直した。
「さあ、店に戻りましょう。じつは明日の新メニューの仕込みが残ってるんです」
翌昼の喫茶店。
窓から差し込む柔らかな光の中、ゆいがカウンターでケーキを食べていた。
「榊さん、このケーキおいしいです!色もピンクでかわいいし、チーズがなんだかコク?がありますね!」
「そうですか? 隠し味ですよ」
ふふ、とゆいは嬉しそうに目を細め、フォークを進める。その無邪気な笑顔を見つめながら、榊はいつもの穏やかな手つきで、静かに次のカップを温めた。
――隠し味。
それが、昨日新宿の夜の底で手に入れた「一万日分の命の輝き」であることを、彼女は決して知らない。
男の独りよがりな願いは誰にも届かなかったが、その命の砂は今、この温かな光が差し込む喫茶店で、一人の少女を心から笑顔にするためだけの、贅沢なスパイスになったのかもしれない。
「……うん、やっぱり今日の珈琲にも、すごく合います。今度は珈琲も榊さんが淹れたのが飲みたいなぁ」
ゆいの弾んだ声が、静かな店内に心地よく響いた。
ご覧いただきありがとうございます。
今回はちょっとビターというか、人間の「自己満足」に焦点を当てたお話にしてみました。命を賭けて何かを遺したつもりでも、受け取る側にとっては全く違う意味になってしまう……という、新宿の夜らしい冷たさを出せていたら嬉しいです。




