二十四時間の執行猶予
深夜二時の新宿駅東口。
ネオンの眩い光が雨上がりのアスファルトに反射し、まるで毒々しい油絵のように街を染めている。
喧騒から外れた路地裏の、誰の目にも留まらない暗がりに、その露店は静かに佇んでいた。
金色の髪を月光に溶かした麗しき青年、榊が、見慣れた手つきでガラスの小瓶を弄している。
そこへ、車椅子を押した一人の老人が、付き添いの男と共に現れた。
老人は高級な毛皮を羽織っているが、その瞳はどす黒い欲望と焦燥で濁りきっている。
「おい……ここで『命』が買えるというのは、本当かね」
榊はゆっくりと視線を上げ、冷ややかな、しかし極上の笑みを浮かべた。
「ええ。対価さえ支払っていただければ、何なりと」
老人は車椅子の手すりを激しく叩き、身を乗り出した。
「私は病でもう長くない。だが、死にたくないのだ! 金ならいくらでもある。この街の浮浪者でも誰でもいい、健康な若者の命を買い取って、私に移植してくれ!」
「なるほど。他人の命を奪ってでも、生き永らえたいと」
榊の金色の瞳が、暗闇の中で怪しく光る。
膝の上で丸くなっていたキジトラ猫のクロが、呆れたように低く唸った。
「条件は簡単です。この店での『命の取引』には、等価の代償をいただきます。他人の運命を歪めるほどの願い……相応の『あなたご自身の対価』が必要ですが、よろしいですね?」
「金だろ? 全財産だってくれてやる!」
老人が醜く叫んだ瞬間、榊は静かに片手をかざした。
――その刹那、老人の頭上に、ぼんやりと光る無機質な数字の羅列が浮かび上がる。
それが彼の残された『寿命』の灯火だった。
しかし、榊はその数字を見た瞬間、美しい眉をわずかにひそめた。
「おや……妙ですね。あなたの命の灯火、病による衰弱ではありません。微量な『毒』によって、内側から急速に蝕まれている」
「な、なんだと……!?」
驚く老人を余所に、榊の視線は、老人の車椅子を静かに押している『付き添いの男』へと向けられた。
男は俯き、小さく震えている。その手は、憎悪に満ちていた。
「付き添いの彼……いえ、あなたの実の息子さんですか。彼が毎日、あなたの食事に少しずつ毒を混ぜている。あなたはそれを知っていて、なお、この露店に来たのですね?」
路地裏に冷たい沈黙が流れる。
老人はやがて、狂ったような引きつった笑い声をあげた。
「そうだ! 気づいていたさ! この出来損ないの息子が、私の財産目当てに毒を盛っていることくらいな! だからこそ、こいつの健康な『命』を奪って、私に寄こせと言っているんだ! 親を殺そうとした大罪人だ、命を奪われて当然だろう!」
息子はガタガタと震え、地面に膝をついた。
「父さん……あなたは母さんを捨て、僕の人生も踏みにじった……! もう、あんたにこれ以上生きていてほしくなかったんだ……!」
醜い親子の愛憎劇を、榊はただ淡々と、冷徹な目で見つめていた。
「なるほど。では――取引を始めましょう」
榊が指先をわずかに動かすと、その白く美しい手は、見る間に黒く鋭い『猫の爪』を宿したあやかしの手へと変貌する。
「う、動けん……!?」
老人が悲鳴を上げる間もなく、榊の爪が空を裂く。
すると、老人の頭上に浮かんでいた光の数字が崩れ、煌めく金色の砂となって、身体からサラサラと溶け出し始めた。
「ひっ、やめろ! 奪うのは私の命じゃない、息子の命だろ!?」
「言ったでしょう、等価の代償だと」
榊は冷酷な眼差しで、絶望に身を捩る老人を見下ろした。
「あなたが差し出した全財産という対価で、私は『あなたの願い』を叶えました。すなわち、あなたを蝕む『毒の寿命』を買い取り、病(毒)からあなたを完全に救ったのです」
「な……に……?」
「おめでとうございます。あなたの身体は今、二十代の若者のように健康そのものだ。ですが、他人の命を貪ろうとしたその強欲の代償として……あなたの『残りの寿命』は、すべて綺麗に回収させていただきました」
次の瞬間、老人の顔から猛烈な勢いで血色が引いていった。
皮膚はみるみるうちに乾燥して深い皺が刻まれ、元々白かった髪は、さらに命の輝きを失ってパサついた灰へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……健康になったのに、なぜ……」
「あなたの残された時間は、あと一日分しかありません。ああ、ご安心を。あなたが生き永らえさせてやったその息子さんは、明日、あなたがこれまで行ってきたすべての脱税と悪事を警察に告発します。あなたはこれからの二十四時間、その若々しく健康な肉体のまま、すべてを失っていく絶望をじっくりと味わい……そして明日、ちょうどこの時間に、心臓が止まって死ぬのです」
老人は喉からヒューヒューと惨めな音を漏らし、車椅子からどっと崩れ落ちた。
かつては他者を踏みにじってきた傲慢な肉体が、今はただ恐怖と絶望にガタガタと震えている。自分の思い通りの「健康」を手に入れたはずなのに、その顔は死人よりも絶望に染まっていた。
「ひ、一日の命など……そんなもの、何の意味が……!」
「言ったでしょう。美しく生きることを忘れた命は、ただの『息をする屍』だと。あなたには、ご自分の罪の重さを噛み締めるための時間を、一日の猶予(執行猶予)として差し上げたのですよ」
榊が冷たく微笑むと、老人は這いつくばるようにして、付き添いの息子と共に夜の闇へと去っていった。
明日、彼を待つのは、健康な身体で迎える破滅の朝だ。
残されたのは、路地裏に静かに漂う、甘く不気味な光の粒だけ。
付き添いの息子は、呆然とその灰を見つめた後、榊に深く頭を下げて、夜の街へと消えていった。
「……相変わらず、容赦ないな。結局、あいつの本当の寿命を全部巻き上げちまうんだから」
クロが身を起こし、呆れたように吐き捨てた。榊は手元に残った、仕入れたばかりのガラス瓶を愛おしそうに眺める。
「僕の商売はあくまで寿命の買取です。でも、自ら悪意を差し出してきたお客様の要望には、最高に皮肉な形でお応えしますよ」
榊は遠くなる息子の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「命を長らえたいと願うのは人間の本能ですが、美しく生きることを忘れた命は、ただの『息をする屍』です。あの方が欲しかったのは『時間』ではなく、自分の罪から目を背けるための『言い訳』だったのでしょうね」
「人間ってのは、命の長さばかり気にして、中身が空っぽなことに気づかないのかねぇ」
クロが鼻を鳴らす。
榊は目を細めると、金色の砂が満ちたガラス瓶を優しくポケットに仕舞い込んだ。
新宿のネオンが揺れる。あやかしの露店は、今夜も静かに闇へと溶けていった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
他人の命を不当に奪おうとした男への、榊流の冷徹な「お返し」のエピソードでした。
もし「スカッとした!」「この雰囲気が好き」と思っていただけましたら、ととてもうれしいです。




