化けの皮と偽物の檻
深夜二時の新宿駅東口
今夜の街は、昼間の息苦しい熱気がコンクリートに残る、じっとりとした晴れの夜だった。
薄暗い自動販売機の隙間。
折りたたみ椅子に座る榊の衣服は大人のものであったが、その隙間からは、白、茶、黒の混ざり合った三毛の猫耳と尻尾が小さく覗いていた。
前夜、人間の重すぎるエゴの記憶を喰らった代償で、完璧な人の姿を保つための霊力が完全に底を突いているのだ。
「……おまえ、耳と尻尾が出っぱなしだぜ。そんな半人半猫の姿で、今夜は店じまいか?」
自動販売機の上から、クロが面白そうに琥珀色の目を光らせる。
「仕方がありませんよ。あやかしが完璧な人の姿を再構築するには、人間の新鮮な生命力――すなわち『寿命』を直接商って、その身に取り込む必要がありますから」
榊が耳をピクリと動かして溜息をついた、その時だった。
周囲をキョロキョロと見回しながら、一人の若い男が境界線を越えてやってきた。
男の抱く強烈な外見へのコンプレックスが、この露店を引き寄せたのだろう。
男は榊の半分猫の姿を見ても怪異と恐れず、むしろそのあまりにも美しい金髪の容姿に狂わされたように目を奪われていた。
「頼む……! 寿命なんて何年でもあげるから、僕をあなたみたいな完璧な顔に変えてくれ!」
榊は猫特有の冷徹な瞳を男に向け、さらりと揺れる金髪の隙間から、落ち着いた声音で答えた。
「人間は本当に愚かですねえ。顔さえ変われば、中身まで他人に愛されると本気で思い込んでいるのですか?」
「中身なんてどうでもいい! 自分がモテないのも、人生が上手くいかないのも、全部この最悪な顔のせいなんだ! 顔さえ変われば、世界中の全員が僕を愛してくれるはずだ!」
男は完全に、歪んだ思い込みに狂っていた。
榊は小さく溜息をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「いいですよ。売ってくれるというなら、僕は商います。あなたの寿命を『二十年分』いただきましょう。その代わり、僕の霊力で、あなたの顔を僕と全く同じ姿に変えてあげます。……ただし、あやかしの化けの皮には、それ相応の代償が伴いますけどねえ」
「二十年でも何年でも持っていけ!」
「そうですか……何年でも」
榊が男の頭上にそっと手をかざした。
指先がほんの一瞬だけあやかしの鋭い猫の爪へと変化し、虚空を優しく撫でるように引く。
その瞬間、男の頭上から、金色に輝く大量の『命の砂』が溢れ出した。
四十年間。男が人生を軽んじたツケとして、天秤は過剰にその生命力を引き抜いた。
その莫大な砂を榊が自身の身体へと取り込んだ瞬間、頭の猫耳と尻尾がすうっと消え去り、完璧な人間の姿へと完全復活を遂げた。
代わりに、榊の霊力の波が男の顔を包み込み、誰もが振り返るほどの『化けの皮(幻術)』を施す。
男の手にはパサリと、榊の手によって一万円札が握られた。
「あなたの思い込み、確かに商いました。そのお札、無くさないように持っておいてくださいねえ」
男はスマホのカメラに映る「榊と全く同じ完璧な顔」を見て、大喜びで夜の街へ走っていった。
暗闇の中から、低い声が響く。
「相変わらず、趣味の悪い商売をするなお前」
「僕はただ、あの人が強く望んだものを与えただけですよ」
榊はいつもの飄々とした笑顔を浮かべ、夜のネオンを見つめた。
――翌日。
空は青く、眩しいほどの太陽が照りつける晴れの日だった。
夜の取引を終えた男は、「これで人生大逆転だ!」と意気揚々と街へ繰り出した。
すれ違う女の子たちに、完璧な笑顔で声をかける。
「ねえ、君。僕と一緒にランチでも?」
しかし、女の子たちは男を見た瞬間、「うわっ、何この人……」と悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
何度声をかけても、全員から不審者や年配の変質者を見るような目で怯えられ、避けられる。
訳が分からずパニックになった男は、手近なビルの鏡を見て、愕然とした。
そこに映っていたのは、イケメンどころか――。
四十年の若さと生命力を一気に抜かれたことで、実年齢よりも遥かに老け込み、生気を完全に失ってガサガサに窶れ果てた、酷く哀れな老人の姿だった。
あやかしの化けの皮を維持するには、本人の膨大な生命力が必要になる。
それをすべて榊に売ってしまった男には、もう外の世界で幻術を維持する力など残っていなかったのだ。
「どういうことだ……!? あの金髪の野郎、騙したな!」
怒り狂った男は、あの金髪男を探して狂ったように街を彷徨い始めた。
どこにいるかも分からないはずなのに、なぜかポケットに入れた『あの一万円札』から、微かに香ばしい珈琲の匂いが漂ってくる。
男はその匂いに無意識に手繰り寄せられるように走り――気づけば、とあるお洒落な喫茶店の前に立ち、ドアを開けていた。
カラン、と晴れた日の喫茶店のドアを開けた瞬間。
「いらっしゃいませ……って、えええっ!? 榊さん!?」
テーブルを拭いていた早瀬ゆいが、腰を抜かすほど驚いて声を上げた。
男が店内の鏡を振り返ると、そこには、榊の顔が映っていた。
本物の榊が放つ強烈な霊力の磁場が満ちているこの喫茶店の中だけは、男の生命力が足りなくても、幻術が強制的に起動してしまうのだ。
カウンターの奥から、本物の金髪の榊が、いつもの優しい笑顔で男を出迎えていた。
その横では、マスターの相馬が何も言わずに、静かに珈琲を淹れている。
「いらっしゃいませ。……ああ、言っておくのを忘れていましたねえ」
榊は男を見つめ、どこまでも落ち着いた丁寧な口調で、残酷な事実を告げた。
「あやかしの化けの皮は、僕という本物の存在を知っている人間の前でしか維持できないんですよ。あなたが『顔さえ変われば全て解決する』と思い込んでいた、その浅はかな心を映す鏡のようなものです。そのお札の匂いに釣られてここまで来てしまうあたりも、実に人間らしくて可愛いですねえ」
男は、一歩でも外に出れば「生気を失って窶れた哀れな老人」に戻り、唯一自分が理想の顔でいられるのは、この喫茶店の中だけという現実に絶望した。
男は、理想の姿でいたいがために、「本物の榊」の引き引き立て役(完璧な偽物)として、残された僅かな寿命の一年間、これから毎日この喫茶店に通い詰めてお金を落とすしかなくなってしまったのだ。
「僕の偽物さん、言っておきますけど、喫茶店内での他のお客様のご迷惑になる行為はご遠慮くださいね? そうだ! 美味しい珈琲とナポリタンはいかがですか? 安心してください。それを食べたからといって霊力が宿るわけではありませんから。ごゆっくり〜」
榊の意地悪な微笑みに、窓際で丸くなっていたクロが「フン、おめでたい奴だな」と鼻で笑った。
眩しい太陽の光が、曇ったガラス窓を通して、本物と偽物の二人の金髪を皮肉に照らしていた。
およみくださりありがとうございました。
今回は、自分自身を偽ることに執着した男のお話でした。
「本物」を知っているからこそ、自分の「偽物」を許せない。そんな人間の業を、榊は淡々と調理しました。
新宿の夜、あやかしの喫茶店は今夜も営業中です。
次回もまた、一風変わった取引をお届けします。




