優しい代償
深夜二時の新宿駅東口。
今夜の街は、星も月も見えない、どんよりとした重い曇り空に覆われていた。
昼間に喫茶店でゆいのお気楽な行動に呆れ、相馬が淹れてくれた珈琲を囲みながら、みんなで他愛のない話をして過ごした温かい時間が、まだ頭の片隅に残っている。
だからこそ、夜の新宿の冷たい静けさが、いつもより少しだけ寂しく感じられた。
薄暗い自動販売機の隙間。
折りたたみ椅子に座る榊の金髪が、曇り空の街灯にぼんやりと霞んでいる。
そこへ、足音もなく境界線を越えて、一人の老紳士が歩み寄ってきた。
仕立ての良い上着を着ているが、病院のベッドを抜け出してきたのだろう、その輪郭は今にも消えてしまいそうなほど薄い。
榊は猫特有の爛々とした瞳をゆっくりと向けた。
「こんばんは。こんな時間に、僕に何か御用ですか?」
「……噂を聞いてね。ここは、命を買い取ってくれる場所だろう?」
老紳士は穏やかに微笑んだ。大病を患っているのか、呼吸は浅い。
榊の目には、老紳士の頭上に浮かぶ半透明の『数字』がくっきりと視えている。
【残り寿命:3日と4時間】
「ええ、商いますよ」
榊は横に置いた看板を指差す『寿命買い取り、いたします』
「……ですが、あなたからは絶望も、狂気的な欲望も感じられない。あと数日の寿命を売って、一体何が欲しいのです?」
「私はもう長くなくてね。毎日、病室で私の手を握って泣き崩れる最愛の妻が、どうしても見ていられないんだ。私が死んだら、彼女は生きる気力を失ってしまう。……だから、私が死ぬ前に、私の『記憶』もすべて買い取って、この世から消してはくれないか。最初からいなかったことになれば、彼女は泣かずに済む」
妻を想う、一見すればどこまでも優しい願い。
だが、その言葉を聞いた瞬間、榊の美しい金髪の奥にある瞳が、冷たく凍りついた。
「……なるほど。本当に、人間というのはどこまでも身勝手で、愚かなんですね」
「なんだって……?」
老紳士が戸惑う中、榊は立ち上がり、容赦のない冷徹な言葉を突きつけた。
「あなたの記憶を消すということは、二人が笑い合った愛おしい瞬間も、共に乗り越えた大切な思い出も、すべてを『最初からなかったこと』にするという意味なんですよ? あなたが遺す寂しさから逃げるために、彼女の人生の半分を白紙にする。それがあなたの言う、愛ですか」
老紳士は息を呑み、ガタガタと震え出した。
美しく包んでいた自分の願いが、ただの「エゴという名の狂気」だったことを突きつけられたのだ。
「それでも……それでも私は、彼女が涙を流す姿を見たくないんだ! お願いだ、消してくれ!」
「いいですよ。売ってくれるというなら、僕は商います。ただし、あやかしの取引は甘くないですよ。あなたの命を三日分買い取りましょう。同時に、記憶を食べてあげます。ただ僕が食べるのは、あくまで『世界』――奥さんの頭の中にあるあなたの記憶です。……あなたは、奥さんを愛した記憶を持ったまま、彼女に赤の他人として拒絶されて死ぬ。それが、あなたの優しいエゴの代償ですよ」
老紳士は絶望に顔を歪めたが、それでも、もう後戻りはできなかった。
「……構わない。やってくれ」
榊は老紳士の頭上にそっと手をかざした。
指先がほんの一瞬だけあやかしの鋭い爪へと変化し、虚空を優しく撫でるように引くと、老紳士の頭上から、金色に輝く最後の『命の砂』が溢れ出した。
その砂には、老紳士が妻と過ごした、眩しいほどに愛おしい記憶の輝きが混ざり合っている。
榊はその光の砂を、人間の底知れない愚かさを憐れむような目で見つめ、手のひらへと収めた。
同時に、老紳士の手にはパサリと最後の一万円札が握られた。
「あなたの残酷な愛、確かに商いました」
老紳士はフラフラと、元の病室へと戻るために闇の中へ消えていった。
彼はこの後、自分を忘れてしまった最愛の妻に冷たく拒絶されながら、天涯孤独の絶望の中で息を引き取ることになる。
――客が去った、その瞬間だった。
榊を凄まじい激痛が襲った。
昨日引き受けた二十八年分の寿命の重みに加え、今しがた貪った半世紀分の「愛おしくも歪んだ記憶」が猛毒となり、榊の身体を内側から破壊し始める。
「……っ!」
肺から空気が弾け飛び、榊はその場に崩れ落ちた。
視界がぐにゃりと歪み、衣服が急に重くなる。
金髪の美しい人間の姿を保つための霊力が、人間のエゴの毒に侵食されて完全に底を突いたのだ。
バサリ、と服が地面に崩れ落ちる。
その衣服の隙間から、這い出てきたのは――。
白、茶、黒の毛並みが美しく混ざり合った、一匹の小さな三毛猫だった。
「ニャー……(マズい、姿が……)」
声すらまともに出ない。
人間の言葉を失った榊は、冷たいアスファルトの上で、苦しげに身体を丸めて震えることしかできなかった。
カサリ、と闇が動く。
「……おまえ、案の定かよ。おい、しっかりしろ!」
自動販売機の影から、キジトラ猫のクロが血相を変えて飛び出してきた。
クロは人間の服の山から転がり出た三毛猫の首根っこを優しく咥え上げると、新宿の闇の中を脱兎のごとく駆け出した。
「馬鹿野郎、あんな重い記憶を一気に食うからだ……!」
「ニャーウ……(いけるとおもったんですけどね……)」
――翌日。
空はまだ、どんよりとした曇り空のままだった。
喫茶店の中は、まったりとした静かな空気が流れている。
だが、いつもいるはずの榊の姿はどこにもない。
「そういえば……」
テーブルを拭いていた早瀬ゆいが、ふと手を止めて首をかしげた。
「いつもこの時間に、お店の前を決まった時間に通るおばあちゃんがいた気がするんですけど……」
カウンターの奥で、マスターの相馬が何も言わずに、湯気を立てる特製の漆黒の珈琲を淹れていた。
「ゆいさん、ちょっと裏の倉庫から、新しい豆を取ってきてくれませんか?」
「はーい! わかりました!」
ゆいがパタパタと店の裏手へ消えていく。
彼女の気配が完全に消えたのを見計らい、相馬はカウンターの下のバスケットに視線を落とした。
そこには、タオルに包まれてぐったりと横たわる、三毛猫の榊がいた。
その横で、キジトラ猫のクロが心配そうに付き添っている。
相馬は淹れたての温かい珈琲を小さな皿に注ぎ、三毛猫の口元へとそっと差し出した。
相馬の淹れる珈琲には、あやかしの毒を濾過する特別な力が宿っている。
珈琲の清らかな湯気を吸い込み、漆黒の液体を喉にひと滴垂らすたび、三毛猫の小さな身体の中で暴れていたドロドロとした人間の毒が、静かに融かされていく。
やがて三毛猫の瞳が、少しだけ生き生きとした光を取り戻した。
「……フウ、死ぬかと思いましたよ……」
三毛猫の口から、聞き馴染みのある榊の声が、微かに、けれどいつもの飄々とした調子で漏れ出た。
「お前無茶しすぎ」
昨日から一睡もしていないクロが、呆れたように、けれどホッとしたように小さく鼻を鳴らす。
「今日一日はその姿で休んでくださいね。ゆいさんには僕から上手く言っておきますから」
同じあやかしの理を識る相馬は、すべてを分かった上で、ふっと安堵の息を漏らす。
「助かります……。人間の未練って、本当に、毒が強いんですよね」
三毛猫の榊は、老夫婦がどれほど深く愛し合っていたかを自分一人の胸に閉じ込め、マスターの珈琲の温かさに身を委ねて、静かに目を閉じた。
お読みくださりありがとうございました。
今回は、人間の歪んだ優しさの毒に耐えきれず、榊が人間の姿を保てなくなり、元の三毛猫の姿に戻ってしまうという大ピンチの回でした。小さな身体で、人間の重すぎる業を一人で背負う榊の切なさが描かれました。 そして、ゆいにバレないように無言で彼を守り、珈琲で浄化するマスター・相馬とクロのあやかしの絆のお話でした。




