狂った天秤の波紋
深「そういえば榊さん、さっきからお店の前に、なんだかすごく不気味な人が立ってるんです。ずっとこっちを睨んでるみたいで……」
探偵助手兼、喫茶店手伝いの早瀬ゆいが、窓の外を気にするように首をかしげた。
カウンターの端で珈琲を淹れていた榊は、手元を止めずにふっと微笑んだ。
「おや、道に迷われたお客様でしょうか。僕が見てきますね」
「あ、はい……お気をつけて」
エプロンを軽く整え、榊は店内から出ていく。
窓際の特等席で丸くなっていたキジトラ猫のクロが、うっすらと琥珀色の目を開け、低い声で念を押し込むように呟いた。
「……余計な真似はするなよ」
「分かっていますよ」
榊はいつもの「感じのいい店員」の笑みを崩さないまま、ドアベルを心地よく鳴らして外へ出た。
昼下がりの新宿。曇り空の下、喫茶店の前に立っていたのは、目の下にどす黒いクマをつくった中年男だった。昨夜、露店で撃退したあのスカウトグループの身内か、あるいは関係者だろう。全身から刺々しい苛立ちと焦燥感を撒き散らしている。
男は出てきた榊を睨みつけると、低い声で吐き捨てた。
「お前……昨夜、あの路地裏にいただろ」
「はい? 何のことでしょうか」
「とぼけるな! うちの弟が昨夜、大怪我をして倒れてたんだよ! バットはズタズタに錆びて潰れ、頭上に看板が落ちてきて重体だ。警察は事故だって言ってるが……あいつが最後に追ってた女と…何かが映ってる防犯ビデオがあるんだよ」
男は榊の胸ぐらを掴まないばかりの距離まで詰め寄る。
「映像には女と俺の身内二人しか映ってねえ! だけど……たしかに目の前の『何か』と話してるんだよ! お前、あいつらに何かしたろ。あいつが倒れてから、俺の周りでもろくなことが起きてねえ。お前、一体何者だ!」
防犯ビデオに写っているはずのない榊の居場所を、なぜこの目の前の男が知ることができたのか。
確率の天秤を狂わせた波紋が、導かれるようにこの男を榊の元へと引き寄せたのだ。あやかしの及ぼした不運は、巡り巡って元凶である榊へ辿り着くようにできている。一度傾けた天秤は、榊自身が戻さない限り、その侵食を止めることはない。
命や運命に手を加えるということは、こういう歪みを生むということだ。
「お客様、お気持ちは察しますが……当店はただの喫茶店です。あいにく、そのような怪異じみたお話の力にはなれません」
榊は恐ろしいほど綺麗な瞳で、まっすぐに男を見つめ返した。その声には一切の動揺も、罪悪感すらもない。
「ですが……ひとつだけ。これ以上、この店やあの子に理不尽なお怒りを向けられるのでしたら……次にお倒れになるのは、貴方かもしれませんよ?」
「ひっ……!?」
男はハッと息を呑み、思わず数歩後ずさった。
榊は何ひとつ脅すような動作をしていない。相変わらず柔らかく微笑んでいるだけだ。しかし男の目には、青年の背後に恐ろしく巨大な『化け猫』の影が揺らめき、自分を冷たく見下ろしているように見えた。
「ば…化け物……!」
男は顔を蒼白にし、逃げるように走り去っていった。
男が振り返り、数歩走ったその瞬間――何もない平らなコンクリートの上で、男の足首が「ありえない角度」にグキリと折れ曲がった。
「ぎゃあああああっ!?」
激痛に絶叫しながら、男は無様に転がり、這うようにして新宿の雑踏へと逃げ去っていった。榊へ辿り着いた「天秤の不運」は、すでに男の肉体をも蝕み始めていたのだ。
榊はその背中を静かに見送り、何事もなかったかのように店内へと戻る。
「榊さん、大丈夫でしたか?」
「ええ。ただ道をお尋ねになりたかっただけのようですよ。すっかり解決しました」
ゆいは「よかったぁ」と胸を撫で下ろし、再び掃除へと戻っていった。
――その日の夜。営業を終え、静まり返った店内で、榊とクロは二人きりになっていた。
「……見ろ、言わんこっちゃねえ」
カウンターの上に飛び乗ったクロが、呆れたように爪を研ぐ。
「人間の『運命』に強引に爪を立てれば、こうして周りに不吉の波紋が広がる。お前がやろうとしてる『命の回収』は、そういうリスクの塊なんだよ。あいつがここを引き寄せられたのも、足が折れたのも、お前のあやかしの毒が伝播した証拠だ。あいつらみたいな半端な奴らが、どんどん寄ってくるぞ」
「構いませんよ」
榊はエプロンのポケットから、昨夜手に入れたガラス瓶を取り出した。
瓶の中では、少女の絶望から抽出した黄金色の『命の砂』が、チリチリと微かな光を放ちながら揺れている。
「どんな不運が僕に降りかかろうと、僕が報いを受けようと……この砂を積み上げることだけが、僕がここに存在する理由ですから」
「……チェッ。相変わらず頑固な化け猫だぜ」
クロはバツが悪そうに顔を背けた。
榊が命を集める理由。命の天秤を狂わせてまで手に入れようとしている『あの人』の存在。それだけは、いくら時間を重ねても揺らぐことはないのだ。
「さて……クロ。今夜もそろそろ『開店』の時間です」
「ハァ……付き合ってやるよ。どうせお前一人じゃ、また余計な世話を焼くんだろ」
二人は深夜二時の新宿へ向けて、静かに店をあとにした。
夜の影で繰り返される等価交換。
榊のポケットの中で、瓶の中の砂がふっと微かに輝きを増した。
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