三毛猫の爪と、黄金色の命の砂
深夜二時の新宿駅東口
終電が去ったコンクリートの上を、冷たい夜風が吹き抜けていく。
ネオンの明かりはチカチカと不規則に瞬き、まるでこの街の呼吸のようだ。
家路を急ぐ人々は、誰もその場所を見ようとしない。
ただの、薄暗い自動販売機の隙間。
だが、その場所に近づく、ひとつの低く鋭い声があった。
「……おい。何やってるんだ、お前」
自動販売機の影から現れたのは、キジトラ猫のクロだった。
普段は喫茶店の窓辺で眠たげに丸まっている口の悪い猫。
今はその琥珀色の眼光を鋭く尖らせ、暗闇を睨みつけている。
その『隙間』には、場違いな折りたたみ椅子と、小さな看板が置かれていた。
『命の買い取り、いたします。寿命=10,000円』
そこに座る、鮮やかな金髪をした青年――榊は、新宿のネオンを吸い込んで光る髪を指先で弄りながら、穏やかに目を細めた。
「今夜は風が心地よいですね」
「ふざけるな。その悪趣味な看板はなんだ。『いい人』じゃなかったのかお前」
クロが喉を鳴らして威嚇する。
だが、榊はいつもの柔和な笑みを崩さぬまま、底の知れない瞳で相棒を見返した。
「いい人に見えるのは、昼間だけですよ。僕がどれだけ強欲な生き物か、君が一番知っているでしょう?」
「チッ……これだから化け猫は信用ならねえ」
「お互い様です。……ほら、噂をすれば今夜の『お客様』です。静かにしてくださいね」
榊の視線の先――息を乱し、今にも倒れそうな足取りで路地裏へ駆け込んできたのは、一人の若い少女だった。
服は汚れ、恐怖に顔を歪ませて何度も後ろを振り返っている。
「誰か……助けて……! もう嫌、私なんて、生きている意味なんてない……!」
少女は膝から崩れ落ち、ボロボロと涙をこぼした。
絶望の深さが世界の境界線を融かし、普通の人には見えないこの怪しい露店を引き寄せたのだ。
「いいですよ」
榊は立ち上がり、少女の前でそっと屈み込んだ。
その声は、恐ろしいほどに甘く優しい。
「あなたのその重すぎる絶望――寿命の一部と引き換えに、僕が買い取りましょう。お金が欲しいわけではないのでしょう? あなたが本当に欲している『安らぎ』を、お渡しします」
榊が少女の頭上にすっと手をかざす。
その瞬間、彼のしなやかな指先が、あやかしの鋭い猫の爪へと変化した。
――三毛猫のオス。
数万匹に一匹しか生まれぬ幸運の象徴であり、世界のルールを捻じ曲げて命を商う権利を持つ彼は、虚空を優しく引き裂いた。
少女の頭上から、彼女を苛んでいた激しい恐怖と絶望が『命の砂』として引き抜かれ、ハラハラと黄金色の輝きを放ちながら榊の手のひらへと収まっていく。
同時に、彼女の膝元へ、パサリと一万円札が滑り落ちた。
「――おい! 待ちやがれクソアマ!」
その時、路地裏に下卑た怒声が響いた。
少女を追い詰めていた悪質なスカウトの男二人組だ。
彼らは榊と少女を見つけると、下品な薄笑いを浮かべて金属バットを肩に担いだ。
「あぁ? なんだその金髪。てめえ、俺らの商品に何手ぇ出してんだ? ……お、軍資金まで持ってんじゃねえか。それ置いて失せろや」
少女が再びガタガタと震え出す。
だが、榊は一万円札を拾い上げ、少女の手元に優しく握らせると、男たちを振り返った。
その瞳からは、先ほどまでの優しさが綺麗に消え失せている。
「お引き取りを。今は商売の最中です」
「あ? ナメてんのか!」
男が金属バットを振り上げ、榊の頭めがけて全力で振り下ろした。
――ガキィィィン!!
鈍い衝撃音が路地裏に響く。
しかし、バットは榊の頭に届く直前、まるで目に見えない強固な壁に阻まれたかのようにピタリと止まっていた。
「……!?」
男が目を見開く。榊の背後に、巨大な化け猫の影が揺らめいていた。
「僕は数万匹に一匹のオス三毛猫。世界の『幸運』と『確率』を司るあやかしです。僕に明確な害意を向けた時点で、あなた方の運命の天秤は完全に崩壊する」
榊がパチン、と美しく指を鳴らした。
――『確率の天秤』、強制発動。
その瞬間、あり得ないほどの「偶然の連鎖」が男たちを襲う。
振り下ろした男のバットのグリップが、百万分の一の確率の金属疲労によって突如破断。
跳ね返った金属の塊が、男自身の顔面へと正確に突き刺さった。
「ぎゃあああああっ!?」
鼻血を噴き出して倒れる男。
慌てて後ずさりしたもう一人の男は、タイミング悪く「偶然」脱落した頭上の古い看板の下敷きになり、そのまま地面へ叩きつけられた。
一瞬にして血を流して転がる男たちを見下ろし、榊は冷ややかに微笑んだ。
「おや、寿命が数年分縮むほどの大怪我ですね。……これで契約成立です。お嬢さん、そのお金で温かいものを食べて、遠くの街へお行きなさい。あなたを縛る恐怖は、もうどこにもありませんから」
少女の顔からハッと憑き物が落ちた。
彼女の瞳に安らぎが戻り、自分を追っていた恐怖が綺麗に消え去ったことに驚きつつも、すっきりとした表情で深く頭を下げ、夜の闇の中へ逃げて行った。
見届けたクロが、呆れたように鼻を鳴らす。
「……相変わらず情け容赦のねえ天秤だな」
「ちゃんとした商売ですよ。僕は彼女から上質な命の砂を買い取り、対価として救いを与えた。……それに」
榊は手に入れた金色の砂をガラス瓶に封じ込めた。
チリ、と微かな音を立てて砂が底に溜まる。
その砂は一瞬だけ、誰か美しい人間の輪郭を形作って消えた。
「僕には、この砂が必要なんです。……綺麗だろうが汚かろうが、あやかしの毒を孕んでいようが。すべては、あの人をこの世界に取り戻す……その日のために」
榊はポケットに入ったガラス瓶にそっと触れ、愛おしむように撫でた。
「……フン」
クロはバツが悪そうにそっぽを向いた。
榊の胸の奥にある、決して諦められない『本当の目的』。
それを知っているからこそ、クロは文句を言いつつも彼の隣に居続けるのだ。
――翌日。空はどんよりとした曇り空だった。
喫茶店の窓は薄く白く曇り、外を行き交う人々の姿をぼんやりと滲ませている。
「いらっしゃいませ!」
テーブルを拭いていた探偵助手兼、喫茶店手伝いの早瀬ゆいが、無邪気な笑顔でドアベルの音を迎えた。
カウンターの端で、榊はいつもの「感じのいい店員」の笑顔を浮かべ、丁寧に珈琲豆を挽いていた。
店内に穏やかな香りを満たしていく。
窓際で丸くなっていたクロが、ふんと鼻を鳴らした。
「……で、昨日のガキから巻き上げたその命の砂、『足し』にくらいなったのか?」
「さあ、どうでしょうね。まだまだ足りませんよ。だから今夜も……良いお客様が来てくださると嬉しいですね」
榊はエプロンの上からポケットの瓶を優しく確かめ、ふっと綺麗で、どこか密やかな笑みを浮かべた。
「クロ、今何か言った?」
掃除の手を止めたゆいが首をかしげる。
「なんでもない、昼寝の邪魔をするな」
ゆいは「もう、また寝言?」と笑い、再び店の入り口へと目を向けた。
「そういえば榊さん、さっきからお店の前に、なんだかすごく不気味な黒いスーツの人が立ってるんです。ずっとこっちを睨んでるみたいで……」
「おや」
榊が淹れかけた珈琲の手を止め、曇った窓ガラスの向こうへと視線を走らせる。
そこには、昼の街にはおよそ似つかわしくない、どす黒いあやかしのオーラを纏った男が佇んでいた。
新宿の影で繰り広げられる命の取引。
その夜の代償が、早くも昼の平穏を侵食しようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
昼は穏やかな喫茶店の店員、夜は冷徹に人間の命を商うあやかし。
そして、晄が密かに抱える「本当の目的」とは何なのか。
三毛猫のオスが営む、少し危険で切ない夜の取引はここから始まります。
本作は、別連載の日常編『キジネコ探偵クロと空気の読めない助手』と全く同じ時間・お天気で進んでいます。あわせてお楽しみいただけると嬉しいです。




