あやかしの天秤
深夜二時の新宿駅東口
ネオンの喧騒が遠のいた路地裏で、あやかしの露店は今夜も静かに暖簾を下げようとしていた。
冷たい夜風がゴミ箱を濡らした雨の匂いを運び、頭上の狭い空には、切り裂かれたような三日月が寒そうに凍りついている。
客の途絶えた暗がりのなか、榊は手元にある透明なガラス瓶を月光にかざす。中には、先ほど手に入れたばかりの金色の命の砂が、静かに、そして怪しくうごめいていた。これまで数多の人間から買い取ってきたそれらは、どれも底にドロリとした澱のような濁りを孕んでいる。
傍らで丸くなっていたキジトラ猫のクロが、億劫そうに琥珀色の目を細めて榊を見上げた。
「榊」
「なんでしょう」
「お前、いつまでこんなこと続ける気だ?」
クロは大きな欠伸を噛み殺すと、爪を研ぐようにコンクリートの地面を軽く引っかいた。耳をそばだてれば、すぐ近くの大通りから若者たちの嬌声や、パトカーの遠いサイレンが聞こえてくる。この街はどこまでも欲に塗れ、命を浪費し続けている。
「人間の寿命なんて、奪うのも買い取るのも一苦労だ。ただ欲望に任せて命を食らうあやかしなんて、この街にはいくらでもいる。わざわざ『等価交換』なんて律儀なルールを作って、くだらん人間の嘘を見破っちゃ、一喜一憂して……。そんな愚かな人間どもに付き合う理由が、俺にはさっぱり分からん」
榊はふっと、どこか遠い目をして微笑んだ。その手元のガラス瓶に、冷たい月明かりが美しく反射する。その横顔は、人間が決して触れることのできない、彫刻のような冷徹な美しさを湛えていた。
「……食らうだけでは、ただの獣ですよ、クロ」
「あ?」
「人間という生き物は、恐ろしいほどに浅ましく、愚かです。他人を蹴落とすために命を欲しがり、目の前の金のために寿命を易々と投げ出す。……ですが」
榊は愛おしむように、指先でガラス瓶をそっと包み込んだ。瓶のなかで、砂がカサリと切ない音を立てる。
「ごくたまに、自分の命よりも大切な何かのために、すべてを差し出そうとする者が現れる。己の存在を賭してでも誰かを守ろうとする、あの愚かで、眩しいほどの純粋な輝き……。私はかつて、それをごく身近な、ひとりの人間の中に見たのです」
「……『灯』のことか」
クロがぽつりと溢したその名に、榊は直接は答えなかった。ただ、長い睫毛の奥にある金色の瞳をわずかに揺らし、薄く微笑むだけだった。
「命の価値とは、ただ生き永らえた長さではありません。どれほど美しく燃やしたかです。自分の欲望のためだけに生きようとする者の命は濁りきっていますが、誰かのために差し出された命は、息を呑むほど綺麗に光る。もし、その本物の光だけを集めることができたなら……それは、かつて失われた魂をも呼び戻す、あやかしの奇跡の灯火となり得るのですよ」
榊は静かに立ち上がり、黒い外套の端を翻した。
「私はただ、もう一度逢いたいのですよ。あの時、私のために命を燃やし尽くした、あの子のなつかしい温もりに。もう一度……例えそれが、この世界の理を歪める大罪だとしても」
「……ふん。相変わらず、気取った言い草だな」
クロは呆れたように鼻を鳴らしたが、そのしなやかな尻尾は、榊の覚悟をすべて理解しているかのように、心地よさそうにゆっくりと揺れていた。
「さて、帰りましょうか」
闇の中へと溶けていく二つの影。
あやかしの店主が抱く「命を商う本当の理由」は、夜の新宿の底に、静かに深く沈んでいった。
翌昼。
昼下がりの喫茶店は、夕べの雨が嘘のように、穏やかな木漏れ日に満たされていた。
チリン、と涼やかな音を立ててドアが開き、ゆいが弾んだ足取りで入ってくる。
「榊さん、こんにちは! 今日もすっごく良いお天気ですね!」
カウンターの奥で、榊はいつもの穏やかな店主の顔で微笑んだ。夜の路地裏で見せる、あの氷のような冷徹さは微塵も感じられない。
「いらっしゃい、ゆいさん。今日は一段と嬉しそうですね」
「へへ、実はね、相馬さんに今日は榊さんの新作ケーキデビューって聞いてて」
ゆいはカウンターの指定席に座ると、嬉しそうにメニューを広げた。その無邪気な笑顔、屈屈のない声、そして陽光を浴びてきらめく細い髪――。
榊の指先が、珈琲カップを温める手元で一瞬だけ止まる。
(……やはり、よく似ている)
ゆいの魂の輪郭。それは、榊が夜の底でずっと探し続けている、かつて失った主『灯』の面影と、あまりにも残酷なほどに重なっていた。しかし、ゆい自身は何も知らない。自分が前世の記憶を失った『灯』の生まれ変わりである可能性も、そして――榊が毎夜、魂を完全に「完成」させるための綺麗な命の砂を買い集めていることも。
「はい、どうぞ。今日のケーキは、少し甘さを抑えてコクを深めてあります」
「わあ、美味しそう! いただきます!」
ゆいがフォークを入れ、幸せそうにケーキを頬張る。その瞬間、彼女の胸の奥で、昨日榊が仕込んだ「一万日分の綺麗な命の輝き」が、じんわりと彼女の生命力を底上げしていく。ゆいが健康で、誰よりも幸せにこの世界を生きられるように。それこそが、榊が夜に悪を裁き、代償として得た光の使い道だった。
「……うん! やっぱり最高です! でも、榊さん。今日こそは榊さんが淹れた珈琲、一緒に飲ませてくれないんですか?」
ゆいは唇を少し尖らせて、榊を見上げる。
「いつも相馬さんの珈琲ばかりで、榊さんは私には淹れてくれないんだもん」
榊は困ったように眉を下げ、優しく首を振った。
「言ったでしょう。僕の淹れる珈琲は、今のゆいさんには、まだ少し……苦すぎるのですよ」
榊が淹れる漆黒の珈琲。それは、夜の露店を訪れた契約者が、寿命を差し出す前に口にする「現世との決別の味」。あやかしの魔力がたっぷりと溶け込んだその液体は、普通の人間が口にすれば、たちまち命の均衡を崩してしまう禁忌の飲み物だった。
「もう、ケチですねぇ。いつになったら大人って認めてくれるのかな」
ゆいはぷうっと頬を膨らませたが、すぐにまたケーキの美味しさに負けて笑顔に戻っていく。
「まあ、良いです! いつか絶対に、榊さんに『降参、ゆいさんは立派な大人です』って言わせて、特等席で珈琲を淹れてもらいますからね!」
「ええ。その時を、楽しみにしていますよ」
榊は優雅に微笑みながら、そっと視線を落とした。
ゆいの手元で揺れる陽光を見つめながら、彼の胸の奥には、決して消えることのない夜の灯火が静かに揺らめいていた。
彼女が本当の大人になり、すべての因果が満ちるその時まで。
あやかしの店主は、今夜も新宿の闇の中で、等価交換の天秤を揺らし続ける。
カウンターの窓際で、丸くなっていたクロが、一つだけ、小さくため息をついた。
お読みいただきありがとうございました
節目の今回は、榊がなぜ「命の売買」という商売を続けているのか、その理由と人間に対する密かな想いを描いてみました。




