三毛猫の古い傷痕
深夜二時の新宿駅東口。
ネオンの残火がアスファルトを毒々しく染める街で、クロ(キジトラ)は、人混みに紛れて一つの背中を追っていた。
視線の先にいるのは、金髪の三毛猫のあやかし、榊だ。
昼間は相馬の喫茶店で、物腰柔らかい青年の給仕として働いている。だが夜になれば、この混沌とした街で人間の残り寿命を買い取るあやかしへと姿を変える。
(今日の足取りはいつにも増して、重たいな榊)
クロは猫特有のしなやかな足取りで、一定の距離を保ちながら尾行を続ける。
ここ最近の榊の摩耗は、誰の目から見ても異常だった。
先日の取引のせいか?、それだけではない。まるで、自分の心根そのものを削り落としているような、痛々しい気配を纏っていた。
「――では、これで。あなたの『寿命一年分』、確かに受け取りました」
場違いなほど綺麗な横顔が、月明かりに照らされて薄暗い路地裏に映える。
榊が顧客である人間の男の頭上にそっと自身の猫の爪で触れると、そこから金色の砂がさらさらと溢れ出し、榊の持つガラス瓶へと吸い込まれていく。
寿命の売買。
この街の夜の底で行われる、命の帳尻合わせ。
取引を終えた榊は、いつもなら相馬の喫茶店へ真っ直ぐ帰るはずだった。
しかし、時計の針が深夜三時を回った頃。榊は歌舞伎町のさらに奥、一般の人間には視認することすら叶わない、古びた結界の先へと足を進めた。
(あそこは……確か、一般の奴らは入れない、古い神社の跡地か?)
クロが息を潜めて結界を潜り抜けると、そこには寂れた小さな拝殿が佇んでいた。
かつてこの地の不浄をその身を挺して祓い去った、陰陽師を祀る、いわくつきの場所。
「……灯様」
ぽつり、と榊の口から、掠れた声が漏れる。
榊は懐から、先ほど手に入れた金色の砂の瓶を取り出した。
そして、神社の基盤である結界へと、その輝きを惜しみなく注ぎ込んでいく。金色の砂が粒子となって夜空に舞い散る中、神社の奥から、トクン……と、心臓の鼓動のような、微かな不気味な拍動が響いた。
「まだ足りないか……」
榊が懐からもう一つ取り出したのは、一枚のハンカチ。
昼間、喫茶店でゆいが忘れたものだ。おひとよしで、空気が読めなくて、いつも危なっかしい人間の少女。
物陰で聞き耳を立てていたクロの背筋に、冷たい戦慄が走る。
陰陽師・灯をこの世に生き返らせるための絶対条件。
それは、集めた膨大な「命の砂」と――灯の直系の末裔である『ゆいの命』
(榊……お前……)
クロが恐怖に身を硬くした、その瞬間だった。
「灯……」
榊はその場に崩れ落ちるように膝をつき、ゆいのハンカチを、強く握りしめた。拝殿に額を擦りつけ、むせび泣くような、胸を掻き毄るような拒絶の告白が静寂を切り裂く。
「あの子には、あなたの面影がある……。あの子の笑顔を奪うことはできません。私はどうすれば……」
すべては「主人の復活」というあやかしの悲願と、「ゆいを大切に想う情」の狭間で、狂ってしまいそうな自分を繋ぎ止めるための嘘。
「……クロ。ゆいちゃんに夜更かしは止められているでしょう」
榊が、いつもの「青年」へと瞬時に声を戻し、涙を拭って振り返った。
その金色の瞳は、悲しいほどに静まり返っている。
物陰から音もなく姿を現したのは、人間の姿に戻ったクロだった。
ポケットに手を突っ込み、いつもの不遜な態度を崩さないまま、しかしその瞳には、榊のそれよりもさらに深い、夜の底のような色が宿っている。
「相馬の説教なら、お前が代わりに食らっとけよ、榊」
「クロ……。いえ、黒曜あなた、いつからそこに」
榊が警戒に目を細める。
榊は、クロが「ゆいの命が生贄であること」を知ってしまったと思い、身構えている。
だが、クロはふっと自嘲気味に鼻で笑った。
「いつから、だと? 訊く相手が違う」
クロはゆっくりと歩を進め、榊の横を通り過ぎる。
そのまま、古びた拝殿を、酷く愛おしそうに見つめた。
「お前がこの街で、金色の砂なんて集め始めるより、ずうっと前だ。……なぁ、榊。お前は灯を生き返らせるために命を商ってるつもりだろうが、俺にとっちゃ、あいつは……」
クロの脳裏に、かつてこの地で、未熟な陰陽師として必死に生きていた一人の少年の姿が過る。
泣き虫で、おひとよしで。くいしんぼうで…
あやかしである自分を『黒』と呼び、本当の兄や父親のように慕ってくれた、最愛の弟子。
「俺が育てた、たった一人の息子だぞ。その末裔のゆいが、あいつに似ておひとよしなのも、俺が一番よく知ってる」
「……!?」
榊の端正な顔が、初めて驚愕に歪んだ。
手元から、ゆいのハンカチがハラリと落ちる。
「あなた……知って?」
「知るも何も、俺がずっとそばにいる理由がそれだからな。あいつが遺した血筋を、代々守る。それだけだ」
クロの言葉には、迷いも, 榊への怒りもなかった。あるのは、すべてを受け入れた上での、あやかしとしての果てしない覚悟。
灯を生き返らせたい。だが、灯が遺したゆいの命を奪うことなど、育ての親であるクロにできるはずがない。
それと同時に。灯のために、ゆいを殺せない自分を責めてボロボロになっている三毛猫を、これ以上放っておけるはずもなかった。
「お前は、ゆいを殺せねえ。あいつに灯に面影を重ねちまったからな」
クロは榊の肩を, ぽんと力強く叩いた。
「一人で背負ってんじゃねえよ。命の帳尻合わせなら、俺も付き合ってやる。ゆいも、お前も、灯も――全部を守る方法を、この俺が意地でも見つけてやるからよ」
榊は目を見張り、それから、いつもの青年の仮面を完全に崩して、救われたように小さく息を吐き出した。
「……本当に、あなたには敵いませんね、黒曜いえ、今はクロですね」
榊は小さく微笑み、手元のガラス瓶を見つめる。
今夜手に入れた金色の砂を注ぎ終えたはずの結界。だが、その輝きは依然として薄く、灯の鼓動もまた、すぐに消えてしまいそうなほどにか細い。
「ですが……現実は、そう甘くはありません」
榊の声音が、ふっと夜の冷気よりも冷たく沈む。
「これだけ夜な夜な新宿で人間の命を商い、寿命を捧げてきたというのに……。灯様を現世に引き戻すために必要な『命の砂』は、まだ、半分も集まっていないのです」
「そうか……」
このまま普通のやり方で砂を集め続ければ、砂が満ちるより先に、榊の寿命が限界を迎えて尽きてしまう。
突きつけられた残酷な数字に、神社の境内はしんと静まり返る。
東の空が、微かに白み始めていた。
二匹のあやかしは、重い沈黙を抱えたまま、夜明けの新宿を歩き出す。
クロは人姿からいつものキジトラへと姿を変えた。
残された時間は、もう、それほど多くはない――。




