価値なき存在の査定
深夜二時の新宿駅東口
人通りの途切れない喧騒から少し外れた、うらぶれた雑居ビル。
その裏手にある、自動販売機の細い隙間に置かれた一台のパイプ椅子。
その足元には、薄暗い闇の中でぼんやりと燐光を放つ、小さな看板が立てられている。
『寿命買い取り、いたします。対価要相談』
ネオンの光すら届かない路地裏の特等席で、キジトラ猫のクロを膝に乗せた榊は、静かに腰を下ろしていた。
「……こんな時間まで、ご苦労さまです」
少し離れた場所にある深夜営業の飲食店から、涼しい顔をした黒髪の青年が、白いエプロン姿のまま歩み寄ってきた。
手には、手ずから淹れたばかりの温かいミルクが握られている。それを榊へと差し出してくれた。
青年は、自販機の隙間に置かれた怪しげなパイプ椅子を一瞥してふっと苦笑し、
「夜の新宿は冷えますから……あまり無理はしないでくださいね」と、静かに、しかし気遣わしげに呟く。
「ふふ、どうでしょう。今夜はちょうど、面白そうな気配がこちらへ近づいていますよ」
榊が上品に、そして涼やかに微笑んだその時。
湿ったアスファルトを乱暴に蹴る、苛立った荒い足音が路地の向こうから近づいてきた。
青年は「お邪魔しました」と短く呟き、自分の店へと引き返していく。
その去り際、月夜に照らされて地面に長く伸びた青年の影の先端から、二又に分かれた猫の尾がゆらりと大きく揺れた。
青年と入れ替わるようにして、深夜の路地裏に踏み込んできたのは、浅黒い肌にギラついた下卑た目を隠そうともしない男だった。
他人の不幸やスキャンダル、芸能人の秘密を暴き立て、ネットの底で泥を啜るようにしてアクセス数を稼ぐ、悪名高い週刊誌の記者。
男は自販機の隙間に置かれたパイプ椅子と、不気味に光る看板を見て、下品な薄笑いを浮かべた。
「本当にあったのか……噂の店ってのはここか。こんな人通りのないところで人間の寿命やら何やらを、法外な値段で買い取ってるって話だが」
男は嘲笑うように鼻を鳴らし、榊の前にドカッと傲慢な態度で立ち塞がった。
「おい、金髪。その噂が本当なら、俺の『寿命』も査定してみろよ。一体いくら出す?」
その愚かな問いかけに、榊は夜の冷徹さを隠し、いつもの「感じのいい喫茶店の店員」としての柔和な笑顔を浮かべた。そして、男の顔をじっと見つめる。
榊の綺麗な瞳の奥で、あやかしの縦長の光彩が妖しく明滅し、男がこれまで生きてきた歩みと、その魂の「残高」を冷徹に見透かしていく。
榊はふっと、哀れみの混じった短い息を吐いて微笑んだ。
「……ゼロ円、ですかね」
「……あぁ?」
男の額にピキリと青筋が浮かぶ。
「あなたの命には、一円の価値もありません。どうぞ、お引き取りを」
「おい、ふざけた口叩いてっと、お前のこの怪しい商売できないようにすることもできるんだぞ」
男は榊を威圧するように一歩踏み込み、唾を飛ばしながら汚い言葉を吐き捨てた。
「もし記事にされたくなけりゃ、俺に『最強のスクープ』をよこせ。どんな人間の隠し事でも、大企業の社会的破滅のデータでもいい。すげー大物がこの店にも来てるんだろ? そいつらの情報を売れ! 金ならいくらでも払う……いや、手始めに、俺のこの先の人生の『運の良さ』を担保にしてやるよ。どうだ?」
他人の人生や尊厳を安値で切り売りし、それを容赦なく踏みにじることで肥え太ってきた男。
その言葉の端々からは、まるでドブ川の底を浚ったような腐臭が漂っていた。
榊の膝から地面へと降りたクロが、退屈そうに尾をピクリと揺らし、あからさまに不快そうな顔をして背を丸める。
榊は表情一つ変えず、ただ静かに金色の視線を上げた。
「他人不幸は蜜の味、ですか。誰かが一生をかけて築いた人生の重みを、一片の紙切れ同然に扱ってきた……あなたのような人間ですね。……なるほど、面白い」
「話が早いじゃねえか。で、俺の要求は――」
「あっ。申し訳ありませんが、勘違いしないでください」
榊がすっと美しい目を細め、パイプ椅子からゆっくりと立ち上がる。
その瞳の奥に、夜を支配する獣のそれに似た、凍てつくような光が走った。
「この店で取引できるのは、あなたが『他人に与えてきたもの』と同等の代償のみです。あなたが求める他人の破滅のスクープの代わりに、あなたがこれまで積み上げてきたもの……そのすべてを世界の秤にかけましょう」
男は榊の放つ圧倒的なあやかしの気配に気圧されつつも、強がって鼻で笑った。
「真面目な人間が一生かけて築いた信頼を、たった一筋の嘘記事で破滅させる……あれは実に爽快だったぜ。勝手にしろよ、どうせ俺の価値は高い」
榊は、男の頭上へとそっと白く美しい手を伸ばした。
あやかしの商人が、自ら悪意を差し出してきた契約者を執行するとき、そこに慈悲などひとかけらも存在しない。
「査定結果――やはり『ゼロ円』です」
「 なんだと?」
「あなたのこれまでの人生。他人の秘密を暴き、心を踏みにじって得た富も、名誉も、そしてあなた自身の社会的信用も。そのすべてを世界の秤にかけた結果……誰一人として、あなたという存在に本物の価値を見出す者はいませんでした。したがって、あなたの魂の重さは、空気よりも軽い。ほら、その証拠に買い取ったことさえ気がつかなかったでしょ?」
榊が冷酷に宣告した瞬間、男の全身からガクガクと、まるで骨が抜けたように力が失われた。
「っ……あ……あれ……? 俺は、何を……」
男の口から、今までにない困惑の呻きが漏れる。
忘れてはならないはずの、自分の名前。
これまでに書き殴ってきた、他人の人生を壊すための醜い記事の数々。
自分が誰で、どこから来て、どうやって生きてきたのかという記憶のすべてが――まるで雨に洗われる砂の城のように、頭の中からサラサラと零れ落ちていく。
「な、なんだこれ……俺は……俺は誰だ……!?」
男は自分の両手を必死に見つめたが、その手の輪郭すらも夜の闇にぼやけ、透けていくような奇妙な感覚に襲われる。
周囲の景色がグニャリと反転するように歪み、彼はたまらず足をもつれさせながら、新宿の雑踏へと転がり出た。
しかし、すれ違う人々は、誰も彼の存在に気づかない。
肩が激しくぶつかっても、相手は謝るどころか、視線すら向けずに通り過ぎていく。
他人の存在価値をゼロにして弄んできた男は、今、自らも誰からも認識されないただの「ゼロ(影)」となったのだ。自分がこの世界に存在した証すらすべて消え去り、男は夜の街の底へと、永遠に、孤独に消えていった。
パイプ椅子に座り直した榊は、ふぅ、と小さく溜息を吐き出す。
遠くの飲食店の窓から、先ほどの黒髪の青年が心配そうにこちらを覗き込んでいるのが見えた。
榊は小さく手を挙げて「問題ありません」とばかりに穏やかに微笑む。
その足元で、クロが気だるげに声を漏らした。
「あいつ、寿命じゃなく自分の存在そのものを秤にかけちまったな。まあ、自業自得だが」
「商売をしたまでですよ。彼は他人の価値をゼロにして楽しんでいた。だから、自分の価値もゼロになった。至極全うな等価交換です」
榊は夜の新宿の消えない喧騒に目を向けた。
上着のポケットの中のガラス瓶は、今回は一粒の砂も増えてはいない。
それでも、世界の歪みを一つ綺麗に正したという満足感だけが、静かに榊の胸の中にあった。
榊は次の客を待つように、静かに看板の淡い灯りを見つめ続けた。
翌日の夜。
喫茶店の営業を終えた4人――榊、クロ、ゆい、相馬は、なじみの飲食店を訪れていた。
ガラガラと扉を開けると、そこは昨夜の冷たい路地裏とは打って変わって、温かい光と出汁の香りに満ちている。
「いらっしゃいませ。皆さん揃って、珍しいですね」
厨房の窓越しに、昨夜のあの黒髪の青年が、今度は料理人の笑顔で挨拶をしてくれた。
ゆいは手慣れた様子でおしぼりと水の支度を整え、皆の席まで器用に運んでいく。
「ありがとうね、ゆいちゃん」
店主の青年が優しく声をかけると、ゆいは「いえいえ!」と嬉しそうに胸を張る。
厨房からは、ジュウジュウと食欲をそそる香ばしい音とともに、手際よくフライパンを振る音が響いてくる。どうやらあやかしの尾を持つ店主の料理の腕前は、本物のようだ。
「今日は一段とお腹が空きましたね。何を食べましょうか」
相馬がメニューを開きながら穏やかな声で問いかけると、ゆいが真っ先に「私はもう決まってます!」と元気よく片手を挙げた。その無邪気な笑顔が、店内の空気をさらに明るくしていく。
カウンターの向こうで、青年店主が榊と一瞬だけ視線を交わし、互いに悪戯っぽく、しかし信頼を込めて小さく頷き合う。
夜の冷えた闇の底を忘れさせてくれるような温かな店内で、4人と1人のあやかしたちは、それぞれの席に落ち着き、穏やかで優しい夕食の時間を心ゆくまで楽しむのだった。
お読みいただきありがとうございます、橘凪です。
今回は他人の不幸を糧にしてきた週刊誌記者の末路を描きました。
榊「今回はなかなか見事なゼロ円でしたね」
クロ「あいつ、自分の存在価値まで綺麗に売り払っちまったな」
橘「新しい猫のあやかし仲間も登場しました。次回も歪んだ欲望と救いのない人間ドラマを今後も紡いでいければと思います」




