朽ちゆく花嫁
深夜二時の新宿駅東口
ネオンの明かりが届かない闇の中に、白無垢を思わせるドレスをまとった娘が一人、佇んでいた。
足元では、相棒のキジトラ猫・クロが退屈そうに尻尾の先をぴくりと揺らしている。
「今夜の客は少し毛色が違うな」
クロが低く唸ると同時に、冷たい夜風が吹き抜けた。娘の足元には影がなく、代わりに床を這うようにうっすらとした冷気が漂っている。彼女は人間ではない。この街に紛れ込んだ、寿命を持つことのない「あやかしの成れの果て」だった。
かつて永すぎる孤独に耐えかね、心を削り、感情をすり減らした果てに辿り着いた無の存在。死ぬことすらできなくなった哀れな残骸。
――けれど、その凍りついた胸の奥に、ひとつの温かい灯火がともってしまった。
「…私に、普通の『人間の命』をちょうだい」
娘の瞳には、ひび割れたガラス細工のような哀切の色が浮かんでいた。
人間の男に恋をし、その妻として添い遂げたいと願った彼女だったが、あやかしの身では人間の時間の流れについていくことができない。夫は年老い、いつか死んでいくというのに、自分だけが変わらない美しさのまま取り残されていく。一度心を取り戻してしまった彼女にとって、二度目の孤独は死よりも恐ろしいものだった。
榊は、静かに目を細めると、娘の頭上へとそっと手をかざした。そこには終わることのない無限の命の数字が刻まれている。彼の指先が、ほんの一瞬だけあやかしの鋭い爪へと変化する。
「…人間の時間を欲するとはね。不相応な願いですよ」
「わかってます……! あの人はこれから老いて、やがて寿命を迎えるのに、私だけが変わらない姿のまま取り残されていく。そんな孤独な痛みの中で生きていくくらいなら……」
榊は手元の小瓶を指先で揺らしながら、静かに、そして冷徹に問いかけた。
「そこまで苦しむのなら、その記憶のすべてを心から綺麗に消し去って差し上げましょうか? 恋をしたことすら忘れてしまえば、あなたは二度と孤独に怯えることも、人間の身勝手な時間に苛まれることもありません」
「……っ」
娘は息を呑み、胸の前に深く手を置いて、消え入りそうな声で微笑んだ。
「……いいえ。この痛みが、あの人を愛した私の証なんです。忘れて楽になるくらいなら……同じ痛みを抱えて、あの人と同じ速度で壊れていきたい」
彼女はあまりにも長く生きすぎた『あやかしの成れの果て』。通常のあやかしのように、誰かに寿命を分け与えることなど彼女自身にはできない。だからこそ、人間と同じ速度で老い、同じように土へと還るためには、自らの核を削り、その身のすべてを差し出すしかなかった。
榊が虚空を優しく撫でるように引くと、娘の頭上から、金色に輝く微細な『命の砂』が大量に溢れ出した。
その命の砂は小さなガラスの小瓶へと吸い込まれていくが、その輝きは一向に衰えない。永遠にも等しい時を生きてきた彼女の命はあまりにも膨大で、溢れ出る命の砂は到底小瓶には収まりきらず、受け止めきれなかった光の粒が、さらさらと足元の闇へとこぼれ落ちていく。
「……終わりのない命とは、厄介なものですね」
榊の呟きとともに、夜の闇に微かに鈴の音が鳴るような響きが溶けていった。
手元の小瓶をポケットにしまいながら、彼は容赦のない事実を告げる。
「不老のあやかしの肉体に、有限である人間の寿命を無理やり宿せば、心も体もその重さに悲鳴を上げます。彼と同じ速度で老い、同じように土へと還るその日まで、あなたは人間の抱える老いや死の恐怖、衰えていく痛みを味わい続けることになるでしょう」
「……ええ、それでいいの。同じ痛みを感じながら、あの人の隣で最期まで生きられるなら」
娘はどこか穏やかな笑みを浮かべ、闇の中へと消えていった。
「……また、割に合わない商売をしたんじゃないか?」
足元でキジトラのクロが小さく欠伸を噛み殺す。榊はふっと息をつき、静かに首を振った。
「さあ?」
――――それは数時間前のこと。深夜0時の新宿の街を一人と一匹は歩いていた。
「まだ営業時間じゃないんですけどねぇ」
めんどくさそうにつぶやく榊に、隣を歩くクロはピシャリとしっぽをぶつける。
「急ぐぞ。先客がいる」
裏路地を抜けた先、いつもの自販機の間。冷たい夜風が吹き抜けるアスファルトの上で、一人の男が寒さに震えながら立ち尽くしていた。
それは、これからやってくるあやかしの成れの果て――その娘の想い人である人間の男だった。
男は榊たちの姿を認めると、すがるような切実な目を向けて一歩踏み出す。
「頼む……! あんたが寿命を売るって聞いた。俺の寿命を延ばしてくれ!」
榊は冷徹な瞳のまま、その懇願を静かに一蹴した。
「あいにく、寿命を買い取ることはあっても、それをのばすことはできません」
「命のやり取りはそんなに都合よくできてねぇんだよ。……さっさと帰りな、人間」
クロが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
男は歯噛みしながらも引き下がろうとしない。彼女が自分のために何かを背負おうとしている――その不吉な予感に耐えきれず、男はただ震えながら声を絞り出した。
「もう二十年一緒にいるんだ。あいつ……俺が大人になるにつれて、少しずつ距離を置こうとしてる。『人間とあやかしは一緒にいられない』って顔をして……! 俺が老いて死ぬのを見るのが怖いからだろ! あいつにそんな顔をさせて、俺だけが無為に歳を取っていくなんて耐えられるかよ! 離れられるくらいなら……俺をあやかしにしてくれ!」
その言葉を聞いた榊は、ふっと足を止めて男をじっと見据えた。
「人間を都合のいいあやかしに変えるような方法は持ち合わせておりませんよ。それに――仮にそんな真似ができたところで、あなたに耐えられるだけの器などありません。破滅するだけです」
「……だそうだぜ、人間」
足元でクロが尻尾をピシャリと地面に打ちつける。
「それでも……! あいつをもう二度と、ひとりにさせたくない……なんでもするから!」
男の必死の叫びに対し、榊は静かにポケットから微かに金色に輝く小さなガラスの小瓶を取り出した。チリン、と鈴のような澄んだ音が夜気に響く。
「あなたがどうしても彼女の隣に並びたいと望むなら、その身にほんのわずかな『あやかしの理』を施しましょう。……ただし、それは若返りなどではなく、終わりの見えない苦しみを先取りする『寿命の前借り』です。今なら、彼女に関する記憶をすべて消して、普通の人間として幸せな一生を送る選択肢もありますよ? その方があなたにとっても楽はずです」
夜風が止まり、男は息を詰めた。一瞬の沈黙の後、男は自らの意志で榊の差し出した手首を強く握りしめた。
「楽になりたくて……あいつを好きになったわけじゃない。俺からあいつを消すくらいなら、どんな呪いでもよこせ」
その迷いのない瞳を見つめたまま、榊は静かに目を伏せ、男の頭上の数字へとその力をそっと注ぎ込んだ。
「まぁ。プラスマイナス0ってとこですかね」
榊は新宿のネオン越しに見えない星空を見上げた。
「こっちにダメージがないなら文句はねぇが……だが、あれほどの命の砂だぞ。それを使えば、あいつを――」
クロは言葉を途中で呑み込み、全身でのびをしながら気まずそうに目を逸らした。
榊の懐にあるのは、終わりのない時を生き抜いた『あやかしの成れの果て』の命の半分。滅多に出会うことすらない希少なそれを注ぎ込めば、榊がずっと求め、蘇らせようとしている「誰か」の元へ届いたかもしれないのだ。
けれど、榊はただ静かに目を細め、胸元の小瓶に軽く触れただけだった。
削った寿命はあくまでも『終わりのない命の半分』。それを前借りした男は、彼女と同じ速度で老い、同じ闇を抱えて生きることになる。
人間として土に還る安らぎを捨て、永遠とも思える苦痛を背負うことが、果たして「救い」と言えるのかは分からない。けれど、あの男の譲らない眼差しに対して、榊がひねり出せた精一杯の答えがこれだった。
翌日の喫茶店。
ランチの時間を終え、夜の営業までつかの間の休みの時間。
「珈琲でもいれましょうか」
相馬が人数分のカップを棚から静かにおろす。
「あ。私手伝います」
ゆいは拭いていたお皿を食器棚へ戻すと、相馬が用意したカップをお湯で温めた。
「そういえば、相馬さんて下の名前なんていうんですか?」
「急にどうしたんですか?」
「だって、なんだか私だけ知らない気がして。クロも榊さんも知ってるんでしょ?」
唐突に話を振られた一人と一匹は顔を見合わせた。
その様子に相馬は笑顔を浮かべる。
「僕の名前は涼介ですよ。相馬涼介。普通でしょ?」
二人が楽しそうに会話する様子を見つめながら、クロは小さく息を吐き出すと、己の影を見つめるように低く呟いた。
「人間と共にか……。あやかしの身でありながら業の深い話だな。……まったく、どいつもこいつも愚かなことだ。……なあ、そうだろ?」




