引き寄せられる因果の獣
深夜二時の新宿駅東口
昼間の騒がしさが嘘のように静まり返った自動販売機の隙間で、榊は折りたたみ椅子に腰掛け、いつもの看板を掲げていた。
『命の買い取り、いたします。寿命=10,000円』
冷たい夜風が金髪を揺らす。その隣、自動販売機の上から、キジトラ猫のクロが低く、苛立たしげな声を落とした。
「……おい、榊。今夜は空気がおかしいぜ」
「そうですか?」
榊はエプロンの上から、ポケットの中のガラス瓶をそっと撫でた。中には、昨夜の少女から買い取った黄金色の『命の砂』が静かに揺れている。
「昼間のあの男の『波紋』が、まだそこらにべっとりと残ってやがるんだ。お前が人間の運命の天秤を強引に傾けたからだぞ。あの不吉の毒気に引き寄せられて、ろくでもねえモノが近づいてきてる」
クロが琥珀色の瞳を鋭く光らせ、新宿の闇を睨みつける。
だが、榊は困ったように眉を下げて微笑むだけだった。
「構いませんよ。因果の波紋が巡り巡って戻ってくるというのなら……それもまた、僕の背負うべき商売の対価ですから」
「おい。噂をすれば、今夜の『お客様』のお出ましだぜ」
クロの視線の先。
ネオンの影から逃げ込むようにして路地裏へ駆け込んできたのは、高級なスーツをボロボロに汚した、血の気の引いた顔の中年ビジネスマンだった。
男は髪をかきむしり、血走った目で呪詛を吐き散らしている。
「終わりだ……もうおしまいだ……! 会社の金を横領したのがバレた。明日には警察が来る。人生終わりだ……! 死ぬしかない、いっそ、いっそひき殺されて……っ!」
極限の絶望。世界の境界線が融け、男の足は吸い寄せられるように榊の露店へと向いていた。男は『寿命=10,000円』の看板を目にすると、狂ったように榊の足元へすがりついた。
「おい……お前、命を買ってくれるのか!? だったら俺の寿命を全部持っていってくれ! 明日の絶望を迎えるくらいなら、ここで一万円に変えて死んでやる!!」
「いいですよ」
榊は立ち上がり、男を見下ろして恐ろしいほど甘く微笑んだ。
しなやかな指先が、あやかしの鋭い猫の爪へと変化する。
「あなたのその重すぎる絶望――寿命の一部と引き換えに、僕が買い取りましょう」
榊の手が男の頭上に触れようとした、その瞬間だった。
「 見つけた、見つけたぞォ!」
突如、ビジネスマンの背後の影が、生き物のようにグニョリと巨大に膨れ上がった。
現れたのは、無数の生々しい人間の目が背中に並んだ、巨大な『大蜘蛛のあやかし』だった。蜘蛛はビジネスマンの首筋に鋭い顎を突き立て、ギチギチと音を立てて笑っている。
「なんだ、この化け物は……!?」
男は腰を抜かし、悲鳴をあげる。だが、蜘蛛のあやかしは男など最初から眼中にないように、じっとりとした複数の目で榊を睨みつけた。
「昼間から新宿の街に、極上の『不運の波紋』を撒き散らしている奴がいると思えば……まさか、三毛猫だったとはなぁ! 運命の天秤を狂わせるあやかしの肉だ、喰らえばどれほど妖力が跳ね上がるか……!」
実は、このビジネスマンが横領に手を染めた原因は、この蜘蛛のあやかしが彼に取り憑き、正常な判断力を奪って運気を吸い尽くしていたからだった。
そして蜘蛛は、昼間に榊が放った「強烈な不運の波紋」の匂いを嗅ぎつけ、元凶である榊を『極上の餌』として喰らうために、この男を踏み台にして引き寄せられてきたのだ。
「ひひっ! お前の肉も、その瓶の中の命の砂も、全部俺が喰らってや――」
「――誰の相棒を喰らうって?」
言葉が途切れると同時に、弾丸のような速度でキジトラ猫のクロが虚空を跳んだ。
一瞬にして巨大な山猫のごとき影を纏ったクロが、鋭い爪で蜘蛛のあやかしの顔面を真っ二つに引き裂く。
「ギャアアアアッ!?」
「おい榊! 言わんこっちゃねえだろ! 完全に目ぇ付けられてんじゃねえか!」
着地したクロが、毛を逆立てて喉を鳴らす。口では文句を言いながらも、その身体は完璧に榊の死角を護っていた。
「助かりましたクロ。ですが……」
榊は一歩前へ出ると、いつもの柔和な笑顔を完全に消し去った。
ネオンの光を反射したその琥珀色の瞳は、夜の新宿よりも深く、冷酷な闇を湛えている。
「僕をただの獲物だと思わないことです。世界のルールを捻じ曲げる権利を持つ僕に、害意を向けた。その代償は、蜘蛛のあなたには些か重すぎますよ」
榊が、パチンと美しく指を鳴らした。
――『確率の天秤』、強制発動。
「ギチッ……!? な、なんだ、この不吉な気配は……!」
蜘蛛のあやかしが恐怖に身震いした。その直後、あり得ない「偶然」が連鎖する。
ドガァァァン!!
新宿の頭上を走る高圧電線が、百万分の一の確率の金属疲労によって突如千切れ落ち、激しい電撃と火花を散らしながら蜘蛛のあやかしの脳頭頂部へ直撃したのだ。
「ギャァァァァァァッッ!!」
電流に焼かれ、のたうち回る蜘蛛。だが、榊の因果はそれだけで終わらない。
「おや、もうひとつ『不運』が届いたようです」
直後、ビジネスマンのスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。男がおびえながら画面を見ると、それは男が横領したはずの会社の「隠し財産と不正のデータ」を誤って全社員と警察に一斉送信してしまったという、あり得ない自爆のニュースだった。
社長の逮捕は確実。男の横領の罪など吹き飛ぶほどの、大スキャンダルだ。
「え……? 社長が逮捕……? じゃあ、俺の罪は……俺は、助かったのか……!?」
男の絶望の原因そのものが、確率の崩壊によって「偶然」消滅した。
その瞬間、男の絶望を糧にしていた蜘蛛のあやかしは、供給源を完全に断たれ、天秤の圧倒的な不運の重圧に押し潰されるようにして、ドロドロとした黒い霧となって消滅していった。
残されたのは、ただ呆然と座り込むビジネスマンだけだった。
榊はいつの間にか手元に戻していた一万円札を、男のポケットにそっと差し込む。
「これで契約成立です。お財布の紐は、これからはもう少し固く結んでおくことですね」
「あ、あぁ……。ありがとう、ありがとうございます……!」
男は憑き物が落ちたような顔で、何度も頭を下げながら、夜の雑踏へと去っていった。
「ハァ……全く、人使いの荒い化け猫だぜ」
元の可愛い猫の姿に戻ったクロが、やれやれと首を振って自販機の上に飛び乗る。
だが、榊は男の去った地面をじっと見つめていた。
蜘蛛のあやかしが消滅した跡。コンクリートの上に、チリ、と『一粒の黒い砂』が落ちていた。
「……おい、それって……」
クロが息を呑む。
その黒い砂から、ほんの一瞬だけ、ドロドロとした怪異の悪臭とは違う、恐ろしいほどに純粋で、懐かしい妖気の匂いが漂ったのだ。
榊がずっと探し求めている、『あの人』の残り香が。
榊は狂気的なまでの愛おしさを瞳に宿し、その黒い砂をそっと指先で拾い上げた。
「……やはり、間違っていなかった。僕がこの街で運命を狂わせ、波紋を広げれば広げるほど、あの人の居場所に届き始める」
榊はポケットのガラス瓶にその黒い砂を落とした。黄金色の砂の中で、一粒の黒が妖しく輝く。
青年はふっと綺麗に、どこか歪んだ笑みを浮かべた。
「さあ、クロ。次はどんな『不運』が、僕をあの人の元へと導いてくれるのでしょうね」
引き返せない等価交換の夜。新宿の闇は、さらに深く、二人を飲み込んでいく。




