泡沫の器
深夜二時の新宿駅東口。
喧騒が嘘のように遠のく、湿り気のない暗い路地裏。
自動販売機と壁の隙間に置かれたパイプ椅子に榊は浅く腰を下ろしていた。
足元では、相棒の三毛猫・クロが退屈そうに尻尾を揺らしている。
そこに現れたのは、三十歳ほどの疲れた表情を浮かべた女性だった。彼女の腕の中には、ぐったりと息を潜める一匹の老いた猫が抱かれていた。
もう長くはない。その老衰しきった小さな身体を慈しむように、女性は震える手で優しく背中を撫でていた。
「……取引に来ました」
女性はかすれた声で、しかしはっきりとした意志を宿した瞳を榊に向けた。
「知っていますよね?その子が、ただの猫ではないことを」
榊は静かな敬語でそう応じ、ふっと目を細めた。
女性が幼い頃、路地裏で拾ったその生き物は、最初から普通の猫の形をしてなどいなかった。行き場を失った強大なあやかしが、人間の世界に留まるために選んだ『猫の器』あやかし本来の長い寿命に比べれば、あまりにも脆く短い、猫という枠組みを借りた、それでも長い仮初の生涯だった。
「私の寿命の半分を、この子にあげたいのです。同じ時間を、これからもずっと一緒に生きたい……そう、願うのです」
女性は自分の未来を半分差し出す覚悟を決め、すっと胸元に手をかけた。しかし、榊はすっとその手を制するように片手を掲げた。
榊の指先が、わずかに鋭い猫の爪へと変化する。
彼はその手で、女性の命ではなく、腕の中で眠る老いた猫――その器の奥底で消えかけていた「あやかし本来の光」をそっと優しく掴み、引き剥がした。
きらり……
夜風に舞い散る、どこか懐かしい妖光の粒子。
老いた猫の身体からふわりと柔らかな光があふれ出し、その姿は本来の――悠久の時を生きる気高きあやかしの姿ではなく、不意に、しなやかな人間に近い形へと静かにほどけていく。
人に近い姿へと形を変えたその存在は、ふっと薄目を開け、自分のために泣いている女性の顔を見つめた。
榊は指先を軽く払い、目の前のあやかしに冷徹な、しかしどこか揺るぎない眼差しを向けた。
「元に戻りましたね。ですが、あなたに聞いておかねばなりません」
榊は静かに、しかし容赦のない問いを投げかける。
「人間である彼女は、あなたよりもはるかに短い時間で老い、先に死にゆくのですよ。あなたがどれほどの長い時を生きようとも、彼女は数十年で土へと還る。その別れの悲しみ、その果てしない孤独を、これから先ずっと受け入れる覚悟はあるのですか? 今ならまだ、このまま記憶を奪って別々に生きることもできますが」
問いかけを受けたあやかしは、自分を慈しむように抱きしめている女性の温もりを感じながら、一瞬の躊躇いも見せずに即答した。
「馬鹿を言うな。『なれのはて』になるつもりは毛頭ない。……この温もりを知ってしまったのだから、数十年程度の別れなど、一瞬の瞬きにすぎぬ。私はただ、この者と同じ人間として生きると決めている」
その力強い言葉を聞いた榊は、ふっと満足そうに、どこか穏やかな笑みを浮かべた。
数日後。
喫茶店のカウンターでは、相馬がカップを拭いていた。あやかしである彼は、数日前に路地裏で起きたことなどまるで気付いていないかのように、ただ穏やかに微笑んでいる。
その傍らで、助手のゆいはピカピカと光るスマホの画面を見せながら、カウンターを拭く相馬に声を弾ませた。
「ねえ、マスター! 商店街の角にある、潰れちゃった食パン専門店あったでしょ? あそこ、今度は新しく和菓子屋さんが入るらしいですよ〜!」
「ほう、それはまた渋い選択ですね」
相馬が穏やかに相槌を打つと、ゆいはさらに楽しそうに続ける。
「すてきなご夫婦が二人で営む予定なんだとか。引っ越してきたばかりみたいですけど、旦那さん、なんだかすっごく綺麗なお顔立ちで、奥さんの後ろをずっと嬉しそうについて回ってるんですって! 近所の奥さんたちが『まるで懐いた猫みたいね』って噂してましたよ~!」
窓際で丸くなっていたクロは、そんな店内の平和な世間話を一瞥し、あくびを噛み殺しながらぽつりと呟いた。
「この街じゃ猫みたいな人間なんざ、ざらにいるだろ」
その言葉に榊はカウンターの奥で、淹れたての珈琲を飲みながら、ふっと満足そうに目を細めるのだった。




