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奪うための対価

深夜二時の新宿駅東口。自販機の隙間。

場違いな折りたたみ椅子の前で、榊は退屈そうに爪を磨いていた。


「今夜は誰も来ないかもしれませんね、クロ」

「来なきゃ来ないで、俺は寝られるから好都合だ」


その会話を切り割くように、激しい足音が夜の静寂を破った。


現れたのは、息を荒らげた一人の女性だった。髪は乱れ、服にはしわが寄り、その瞳は悲痛な決意に燃えている。彼女は看板の『命の買い取り、いたします』の文字を一瞥すると、なりふり構わず榊の前にひざまずいた。


「お願いです……! 私の寿命を、買い取れるだけ買い取ってください!」


榊は爪を磨く手を止め、細い目をさらに細めた。


「おや。ずいぶんと生き急いでいらっしゃる。お姉さん、いくらお金が必要なんですか?」


「お金なんてどうでもいいの! ……ただ、あの子を……病室で苦しんでいる妹を救うための手術費用が、あと二千万円必要なの……!」


女性は固いアスファルトに額を擦り付けた。


「私の命なんてどうなったっていい。妹はまだ十五歳なの。これからいくらでも楽しいことがあるはずなのに、神様は不公平だわ。……だから、私の残りの寿命を全部、あの子の病院に振り込めるだけの現金に換えて!」


クロが前足で耳を掻きながら、呆れたように呟く。

「自己犠牲ねぇ。人間ってのはすぐ自分の価値を過信したがる。お前が死んで妹が喜ぶとでも思ってんのか?」


「喜ばなくてもいいの!」


女性が顔を上げた。その頬を、激しい涙が伝う。


「妹に恨まれても、呪われてもいい! あの子が生きて、息をして、明日を迎えてくれさえすれば……私はどうなったって構わない!」


その言葉に、榊の口元が緩んだ。

「命を落としてまで、他人に未来を譲る。……そういう青臭さ、僕は嫌いじゃありませんよ」


榊は女性の細い手首を掴んだ。

「おい」クロが『なにしてる』と言わんばかりに榊を言葉で制する。

「良いでしょう。あなたの持つ寿命、ギリギリ『明日を越えられない』ところまで、買い取らせていただきます」


榊の手が女性の首から離れ、その頭上にある寿命の数字に向けられた。猫の爪が、静かにその数字を撫でる。

その瞬間、透き通った淡い桃色の砂が、静かに零れ落ち始めた。


「あっ……あ、ぁ……」


女性の口から、掠れた声が漏れる。

砂が落ちるたび、彼女の体から体温が奪われていく。視界が急速に狭まり、全身を鉛のような倦怠感が襲う。爪から流れる桃色の砂は、まるで桜の花びらが散るように儚く、美しく瓶を満たしていった。


「っ……うぅ……!」


歯を喰いしばり、必死に耐える女性。その頭髪に白い糸が混ざり、皮膚から瑞々しさが失われていく。だが、彼女は決して手を引こうとはしなかった。


やがて、ガラス瓶の八分目まで砂が溜まったところで、榊はピタリと爪を止めた。


「……ここまでです。これ以上削れば、あなたは今ここで息絶え、お金を妹さんに届けることすらできなくなる」


榊がポケットから重みのある茶封筒を取り出し、膝の上に置いた。

女性は震える手でそれを抱きかかえる。その身体はもう、老人のように痩せこけ、自力で立つことすらままならなかった。


「あり……がとう、ございます……」


女性は掠れた声で礼を言うと、壁を伝いながら、ゆっくりと、一歩一歩踏み出すように去っていった。その背中はあまりにも小さく、今にも夜の闇に溶けてしまいそうだった。


残された茶封筒の掠れ跡と、ほのかな桃色の砂の輝きを見つめながら、クロが小さく呟く。


「……バカな女だ。あんな身体で、病院まで辿り着けるわけねぇのに」


榊は瓶を光にかざし、目を細めた。

「辿り着きますよ。あの人は今、自分の寿命ではなく……『執着』だけで動いていますからねぇ」


街灯の光の下、遠ざかっていく女性の足音が、夜の新宿にいつまでも、いつまでも低く響いていた。

お読みいただき、本当にありがとうございます。


自分のためではなく、大切な誰かのために大きなものを背負おうとする姿は、少し切なくもありますが、とても美しく思えます。

深夜の新宿で彼女の払った対価が、どうか小さな奇跡に繋がっていますように。


作品を読んで「少しでも胸に響いた」「この先の物語も応援したい」と思っていただけましたら、ページ下部の【ブックマーク登録】や【評価(★★★★★)】をいただけますと、本当に大きな励みになります……!


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