黄金の残り香
深夜二時の新宿駅東口。ネオンの狂騒が嘘のように引いていく時間帯、薄暗い路地の自販機の隙間に、場違いな折りたたみ椅子と小さな看板が置かれていた。
『命の買い取り、いたします』
椅子に深く腰掛け、金髪を弄っていた榊(晄)が、膝の上で丸くなっていたキジトラ猫――クロの背を指先で優しく撫でていた。
「クロ。最近お客様のの顔つきが少し変わったと思いませんか?」
「知るかよ。命を粗末にする輩が集まってくるだけだろ」
クロは欠伸をしながら不機嫌そうに尻尾を振る。その時、湿ったアスファルトを叩く上質な革靴の音が近づいてきた。
立ち止まったのは、高級な仕立てのスーツを着た三十前後の男だった。整った顔立ちをしているが、その瞳には焦燥感でも絶望でもなく、どこか異様な「満たされすぎた熱」が宿っている。
「……本当に、買い取ってくれるのか。寿命を」
「ええ、もちろん」
榊は微笑み、折りたたみ椅子の横を指し示した。男は一瞬躊躇したものの、吸い寄せられるように膝をつく。
「いくらでもいい。金なんて、もう腐るほど持っているんだ。ただ……俺の残りの寿命を、今すぐ全部買い取ってほしい」
クロが片目を薄く開け、男を睨みつける。
「なんだぁ? 金持ちの道楽か? 絶望して死にたがってる奴なら山ほど見てきたが、お前みたいな身なりの奴が来る場所じゃねぇよ」
男は乾いた笑声を漏らした。その手は微かに震えている。
「逆だよ。俺は今、人生の絶望ではなく……頂点にいるんだ」
男はぽつりぽつりと語り始めた。幼い頃からの夢だった事業が今月、大成功を収めたこと。ずっと憧れていた女性と結ばれたこと。手に入れたかった賞も、財産も、名声も、すべてがこの手の中に揃ったこと。
「幸せすぎるんだよ。……怖いくらいにね」
男の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「人は皆、頂点を過ぎれば落ちていく。いつか事業が傾くかもしれない。妻の愛が冷めるかもしれない。自分が醜く老いて、惨めにしがみつく側になるかもしれない。……それなら、一番綺麗で、一番愛されていて、一番誇らしい『今』のまま、終わりたいんだ。俺の人生を、最高の作品のまま完成させたい」
沈黙が降り立つ。自販機の稼働音だけが低く響いていた。
榊は何も言わず、男の手をそっと取り上げた。長い指先から、鋭い爪が静かに伸びる。
「……美しいエゴですねぇ。人間は愚かだと言いますが、これほど贅沢な我儘も珍しい」
榊の爪が、男の頭上に浮かぶ残り寿命を示す数字に触れる。
次の瞬間、爪の先から、砂がこぼれ落ち始めた。
それは黒くも灰にもならず、暗闇の路地を照らすほど眩い、黄金色の砂だった。
「ひっ……」
男が息をのむ。爪が深く入るたび、光る砂は流星のように零れ、榊が用意した透明なガラス瓶へと吸い込まれていく。瓶の中で砂が擦れ合うたび、熟した果実と甘い蜂蜜が混ざり合ったような、気分の悪くなるほど甘美な香りが周囲に漂った。
男の顔から次第に血色が引いていく。髪の生え際に白いものが混ざり、肌のハリが失われていく。だが、男の表情には苦痛ではなく、うっとりとした恍惚が浮かんでいた。
「あぁ……これで、俺は落ちずに済む。ずっと……最高のまま……」
やがて、最後のひと粒の黄金の砂が瓶に落ちた。
榊が指を離すと、男は満足気な笑みを浮かべたまま静かに倒れ——その体はハラハラと細かな黄金の砂となり、新宿の闇へ溶けて消えていった。あとには着ていた高級なスーツだけが、虚しくアスファルトに残される。
榊は瓶の蓋を閉め、愛おしそうに光る砂を揺らした。
「命が消えたら『今が最高だった』と思い出す頭すら残らねぇってのに」
クロは冷ややかに吐き捨て、誰もいなくなった服の傍らを歩く。
「人間とは、時に愚かで、時に——呆れるほど美しい」
榊は煙管を取り出し、紫煙を夜空へ吹き上げた。煙は黄金の砂の残り香を孕み、しばらくの間、新宿の路地裏に甘く重い余韻を残していた。
お読みいただきありがとうございました。
深夜二時の新宿には、今夜も金額の消えた看板がひっそりと置かれているかもしれません。
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次回の更新(毎週水曜日予定)




