擦り切れた一万円
深夜二時の新宿駅東口。
自販機の隙間、薄暗い路地裏。
『命の買い取り、いたします。』の看板の前に、慣れた足取りでやってくる影があった。
くたびれたスーツを着た、四十半ばの男。落ちぼれた目元には深いクマが刻まれ、衣服からは酒と煙草の安っぽい匂いが漂っている。
「……おう、お前が店主か」
男は挨拶も早々に、折りたたみ椅子の前に立った。
クロが露骨に嫌そうな顔をして、ソッポを向く。
「……また来たのかよこいつ」
「やあ、いらっしゃい。……確か、先月もいらっしゃいましたねぇ」
榊は嫌顔ひとつせず、柔らかな微笑みで迎えた。
男はポケットから煙草を取り出し、震える手で火をつけた。
「ああ。……また1年分、頼む。今月の家賃も払えねぇんだ。1年分買い取ってくれれば、当面は凌げる」
男は手慣れた動作で、左手を榊の前に差し出した。
かつて、この看板に『寿命=10,000円』と書かれていた頃。男は「たった一万円」のために、初めて自分の寿命を売った。最初は1年。次は半年の刻み。一気に死ぬ勇気はないが、目先の数万円のために、命を切り売りし続けてきた男だった。
「1年分、ですね。かしこまりました」
榊は男の手を取った。
「ですが……お客さん。前にも言いましたが、金額の書かれていない今の看板で、あなたの寿命が『いくら』になるかは、僕の胸三寸ですよ?」
男はへらへらと笑った。
「へっ、どうせ俺の命なんて安物だ。数千円に叩かれたって文句は言わねぇよ。どうせ元手はタダなんだ」
「……元手、ねぇ」
榊の目が、一瞬だけ冷たく光った。
男の頭上に見える光数字、それは男の残りの寿命を示している。
榊の猫の爪がその数字に触れる。サラサラと削り落ちてきた砂は、かつて男が最初に売った時の「健康な若者の色の砂」ではなかった。
濁りきった、黒ずんだ汚泥のような砂だった。
重く、湿った砂が、ボトボトと瓶の底に落ちていく。
「う……っ」
男が顔を顰める。
砂が削れるたび、男の体から「何か」が失われていく。だがそれは、命の長さだけではなかった。感情、覇気、人間としての尊厳――そういったものが、寿命と共に削り削られ、摩耗していくのだ。
「はい、1年分です」
榊が手を放すと、男の手に数枚の千円札が握らされた。
男は札を数え、眉をひそめた。
「おいおい……たった三千円かよ。1年分だぞ?」
「言ったでしょう。今のあなたの寿命には、それだけの価値しかないのですよ」
榊は冷ややかに微笑んだ。
「命というのは、大切に生きて、誰かを想い、積み重ねるからこそ重みが増すのです。目先の金のために切り売りし、擦り減らした命に……高い値をつけられるとお思いですか?」
男は返す言葉もなく、手の中の汚れた紙幣を見つめた。
「家賃の足しにもならん」
怒る気力すら、もう残っていなかった。彼の瞳は濁り、自分が今、何のために生きているのかすら思い出せないような空虚さに満ちていた。
「……」
震える手で札をポケットに押し込む時に札を落としかける。
もう彼には、「あと何年残っているか」すら分からない。ただ、次に金が尽きた時、またこの自販機の隙間に吸い寄せられてくることだけが確定していた。
男の去っていく後ろ姿を見送りながら、クロがぽつりと言った。
「あいつ、もう自分の名前も忘れかけてるんじゃねぇか?」
「ええ。命を売るということは、己の『生きた証』を差し出すということですからねぇ」
榊は黒く濁った砂の入った瓶を手に取り、静かに振った。
シャリ、シャリと、死んだ砂が重い音を立てる。
「次にあの人が来る時……売る寿命はもう、残っていないでしょうね。ここへたどりつけるかどうかも微妙なとこです」
自販機の青いランプだけが、誰もいなくなった路地裏を静かに照らし続けていた。
お読みいただきありがとうございました。
新宿の夜の路地裏には、今夜も金額の消えた小さな看板が置かれているかもしれません。
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