嘘つきに捧ぐ余生
深夜二時の新宿駅東口
ネオンの明かりが薄らぎ、眠らない街が深く重い吐息をつく時刻。
今夜の新宿は、肌にまとわりつくような濃い霧に包まれていた。視界を白く遮る白濁とした闇は、まるでこの街に蠢く人間たちの、行き場のない迷いと悪意をそのまま形にしたかのようだ。
ビル街の路地裏、自動販売機の隙間にある僅かなスペースに、榊はいつものように折りたたみ椅子を広げて優雅に座っていた。
「来るぞ。……なんだこの臭いは」
自動販売機の下、湿ったコンクリートの上で丸くなっていたキジトラ猫のクロが、低く不快そうに喉を鳴らした。
榊はさらりと流れる金髪の隙間から霧の向こうを見つめ、指先で弄んでいた小さなガラス瓶をそっと上着のポケットに収めた。
「霧の夜は、他人の善意を泥足で踏みにじる人間の本性が一番融け出しやすいんですよ。……噂をすれば」
榊の視線の先、深い霧を切り裂いて、一人の男がこの薄暗い隙間へと滑り込んできた。
男は仕立ての良い高級なスーツを身に纏い、一見すると丁寧で物腰の柔らかい、身なりの良い紳士のような顔をしている。しかしその裏の顔は、高齢者や心の弱った人々を巧みな嘘で騙し、その全財産を容赦なく巻き上げて私腹を肥やしている、詐欺グループの主犯だった。
「おい、頼む! 助けてくれ! 警察の捜査の手がすぐそこまで迫ってるんだ!金ならいくらでもある、何億だって払ってやる! 命を買い取るんだろ? だったら、対価として、俺が絶対に捕まらない無敵の幸運をくれよ!」
男は必死な形相で、膝をついて榊に縋りついた。
しかし、榊の『寿命を視る目』は、男の頭上に浮かぶ半透明の数字を冷徹に捉えていた。
【残り寿命:46年】
その数字は、男がこれまで絶望に追い込み、人生を狂わせてきた無数の被害者たちの、血の滲むような怨念によって真っ黒に汚染され、ドロドロに腐りかけていた。
榊は底の知れない冷徹な瞳で男を見据え、特段美しく微笑んだ。
「勘違いしないでください。僕は悪党を匿う便利なお守りじゃありません。……あなたが消したいのは周囲の疑いの目ではなく、自分が犯し続けてきた罪の『因果応報の恐怖』。 他人の優しさをさんざん食い物にしておきながら、自分が捕まるのだけは嫌、ですか。ふふ、どこまでも浅ましい」
「うるせえ! 四の五の言わずに契約しろよ! どんな命でも、対価を差し出せば取引に応じるのがお前の店のルールだろ!」
男が本性を現し、下品に怒鳴り散らす。その姿をゴミを見るような目で見つめながら、榊は冷酷な『あやかしのルール』を宣告した。
「この店は絶対的な等価交換。……いいでしょう。あなたが求める『絶対に捕まらない無敵の幸運』、確かに差し上げます。ただし、他人の人生を何十人も破滅させておいて、お安い代償で済むはずがないでしょう?」
榊は男の顔の前にすっと指先を突き出した。
「あなたのその強欲な狂気を綺麗に叶える対価として、あなたの寿命を【四十五年十一ヶ月分】、丸ごと支払っていただきます。代償としては妥当ですが、どうします?」
男は目先の逮捕の恐怖から逃れたい一心で、残りの寿命の長さの計算すらできなくなっていた。あやかしのルールをただの「ハッタリ」だと高を括り、「数日でも無敵になれるなら今すぐ契約しろ! 逃げ切ってやる!」と狂ったように叫び、強く頷いた。
「――いいでしょう。取引成立です」
榊が男の頭上にそっと手をかざした。
彼の指先がほんの一瞬だけ、黒く鋭なあやかしの爪へと変化する。世界の理を捻じ曲げて命を商う猫のあやかしは、男の脳裏から『悪意の澱み』を、その膨大な寿命ごと、虚空を撫でるように容赦なく引き抜いた。
男の頭上から、金色に輝く微細な『命の砂』が、極太の濁流となって溢れ出し、榊の手のひらへと滑らかに収まっていく。四十五年以上の、莫大な命の結晶だ。
「……あ、れ? 俺は、ここで……何を?」
砂がガラス瓶の底にチリチリと心地よい音を立てて溜まると同時に、榊は男の手にパサリと、一枚の紙切れを握らせた。
それは、どこにでもある、くたびれた一万円札だった。
「はい、これがあなたの命の『本当の価値』の対価ですよ」
「なんの話を……? というか、何の金だ、これは。俺は……誰だ?」
男の目から、全ての悪意とギラついたエネルギーが綺麗に消え去った。
彼は自分がなぜ夜の新宿の路地裏にいるのか、これまで何をしていたのか、自分のスマホのパスワードも、海外に隠した数十億の口座の暗証番号も、すべてを忘れてしまったのだ。
「自分の名前すら忘れたあなたを、警察が疑うことはもうありません。ある意味、あなたは『無敵』です。どうぞ、その一万円で、残り数日の余生を精一杯お楽しみください」
男はポカンとした顔のまま一万円札を見つめ、よろよろと霧の向こうへ歩き出し、新宿の雑雑へと消えていった。
彼は明日、何もできぬまま警察に保護され、そして誰にも気づかれずに孤独に寿命を迎えて死ぬ。他人の人生を泥泥にしてきた悪党への、これ以上ない完璧で皮肉な因果応報だった。
「相変わらず、最高に性格の悪い裁き方をする。まあ、ざまあ、だがな」
それを見届けた自動販売機の下のクロが、ふんと鼻を鳴らして静かに爪を収めた。
榊は手に入れた四十五年分の命の砂が詰まったガラス瓶を愛おしそうに見つめ、ポケットの奥へと大切に封じ込めた。
「商売ですから。それに……僕にはどうしても、この綺麗な砂が必要なんです」
「知るかよ。さっさと帰って寝るぞ」
クロはバツが悪そうにそっぽを向いたが、その尻尾は優しく揺れていた。
――翌日。
空は昨夜の霧が嘘のような、突き抜けるほどに気持ちの良い晴れ間が覗いていた。
昼下がりの喫茶店の中には、いつもと変わらない、どこかホッとする珈琲の香りが満ちている。
「榊さん、おはようございます! 今日もケーキの仕込み、バッチリ手伝いますからね!」
カウンターを拭いていた早瀬ゆいが、榊の顔を見て無邪気に目を輝かせた。
彼女のなかに、かすかに残るかつての『灯』の面影を感じながらも、榊は彼女を誰かの身代わりにせず、今を懸命に生きる一人の人間――『ゆい』として、真っ直ぐに受け入れようとしていた。
金髪の麗しき店員は、いつもの「感じのいいお兄さん」の笑顔を口元に連れ戻し、手際よくカップを並べていく。
「ええ、期待していますよ。ゆいさんが昨日たくさん働いてくれたおかげで、お店の売上も絶好調ですからね」
「えへへ、やったぁ! ……あ、そういえば榊さん、さっき相馬さんとニュースを見てたら、すっごくスカッとする話があったんですよ!」
ゆいは嬉しそうに身を乗り出し、声を潜めて言った。
「お年寄りを騙して大金を奪ってた詐欺グループのボスが、急に記憶喪失みたいになって新宿をフラフラしてるところを警察に捕まったらしいんです! 自分の名前も全部忘れて、一万円札だけを大事そうに握りしめてポカンとしてたんだって。悪いことをしたから、神様がバチを当てたんですよ、絶対に!」
ゆいは「ざまあみろですね!」と無邪気に笑って、楽しそうに次のテーブルへと向かっていった。
何も知らない、ただの眩しいほどに純粋な女の子。
榊は彼女の後ろ姿を見つめながら、一瞬だけ動きを止め、ポケットの奥にある、昨夜よりずっしりと重くなったガラス瓶にそっと触れた。
「……どれだけ上手に他人の親切を騙そうと、罪は消えない。人間の魂はちゃんと、自分で自分に罰を与えるものですよ」
カウンターの奥から、静かで、全てを見透かすような声が響いた。
サイフォンを温める炎をじっと見つめながら、マスターの相馬がいつもの穏やかな瞳で、榊を静かに見つめていた。その温かい眼差しは、榊が夜に背負っている孤独すらも、優しく包み込んでいるようだった。
「何か言いましたか? マスター」
「いいえ。……ゆいちゃんが今日も元気で、お店がいつも通り営業できている。僕にとっては、それだけで十分ですよ。さあ、榊くん、あちらの常連さんに、とっておきの珈琲をお願いできますか?」
「了解です」
「えっ、榊さんが珈琲淹れるんですか? 私も飲みたいです!」
「ゆいちゃんには、まだダーメ」
「もーー!! またそれですか!」
むくれるゆいに、見かねた相馬が穏やかに助け船を出した。
「ゆいさん、窓際のお客様がお食事を終えられそうですよ。デザートのご案内をお願いできますか?」
「……はーい!」
パッと気持ちを切り替えて元気よく駆け出していくゆい。その背中を追いかけながら、榊はエプロンの紐を小さく結び直した。
前世のことなんて、わざわざ言葉にする必要はない。
ただ今、ここでみんなとこの愛おしい日常を守り、彼女の笑顔を見つめている。それだけで、止まっていた彼らの時間は、確かに少しずつ温かい方へと動き出しているのだから。
夜は人間の重荷や狂気をすくい取り、命を商う冷徹なあやかし。
昼は優しい笑顔で客の心を癒す喫茶店の店員。
すべては、いつかあの人をこの世界に完全に取り戻す――その日のために。
新宿の街に差し込む穏やかな光の中、彼らの隠れ家の時間は、今日も静かに、そして温かく紡がれていく。
お読みいただきありがとうございました。




