最期の陽だまり
深夜二時の新宿駅東口。
路地裏、自販機の隙間に置かれた古ぼけたパイプ椅子と、「命の買い取り、いたします。寿命=10,000円」と書かれた手書きの看板。
金色の髪を月光に溶かした男、榊は、クロを膝に乗せ、ただ静かにそこにいた。
そこへ現れたのは、毛並みは汚れ、足を引きずる一匹の老いた柴犬だった。
柴犬は、榊の足元で静かに座る。言葉を紡ぐ声は、かすれ、細い。
「……店主。俺の残り少ない寿命を、全部やる」
榊は、クロを撫でる手を止めた。
「あなたのような老犬が、何を望むのですか。その寿命を売れば、今夜にも消えてしまう」
「……俺を捨てたのは、あいつだ。だけど俺は、あいつがたまに公園のベンチで、俺の名前を呼んで泣いているのを知っている」
柴犬は、くたびれた前足を地面に押し付けた。
「俺の寿命を、あいつの今夜の夢に繋いでくれないか。ただ、あいつの隣で、名前を呼ばれるまで眠りたいんだ」
「なぜ、自らを捨てた飼い主の元へ直接会いに行かないのですか。最期くらい、その顔を直接拝んでくればいいでしょう」
柴犬は濁った瞳をゆっくりと細めた。
「俺はあいつが『今の生活』を大事にしているのを知っているんだ。俺が今さら、汚れた姿で戻ったら、あいつは今の幸せを壊してしまうかもしれない。あいつが泣く顔なんて、もう二度と見たくないんだ」
榊は深く息を吐き、犬の頭上に手をかざした。老犬頭でその手をグイッと押しのけ一歩まえ出る
「おまえだから、おまえだったから俺の記憶を預けるんだ。あいつがいつか、夢の中の俺を思い出して泣くかもしれない……その時は、少しだけあいつの心を温めてやってくれ。……頼んだぜ」
榊は一瞬だけ言葉を詰まらせ、ふたたび犬の頭上に手をかざした。
金色の砂がサラサラと零れ落ちる。それは、捨てられた痛みすらも愛へ昇華させた、純粋すぎる記憶の結晶だった。
「……契約成立です。あなたの命は、あちらの夢へと消えます。……二度と目覚めることのない眠りの夢です」
榊は虚空に指を走らせ、回路を繋いだ。街の向こう、かつての飼い主の夢の中へ、犬の記憶が黄金の糸となって流れていく。柴犬は榊の膝の上で小さく丸くなり、そのまま静かに息を引き取った。
「お前はいったい何がしたい」暗闇から眼だけがのぞく。するりと冷たい空気をまといながらクロが榊の足元に寄る。
榊はクロの頭を無造作に撫でた。
「何も。ただの商売だ。……記憶を預かっただけさ。彼が望んだ『綺麗な夢』と引き換えにね」
榊は立ち上がり、看板を片付け始める。その背中は、いつもより少しだけ寂しげに見えた。
翌昼。喫茶店のカウンターには、穏やかな時間が流れていた。
ゆいが、窓の外の陽だまりを見ながら、不思議そうに微笑んだ。
「相馬さん、聞いて!今日公園を通ったら、ベンチで泣いている男の人がいて。でも、その人の膝の上に、なんだか温かい空気が流れていて……。泣いてるのになんだか、すごく幸せそうな顔をしていたんです」
相馬がコーヒーを淹れながら、カウンターの奥に視線を送る。
「捨てられた理由よりも、一緒にいた日々の温かさの方が強かったのかもしれませんね」
「え? なんですか、今の大人の事情?」
ゆいは無邪気に笑い、差し出された温かいココアを受け取る。
カウンターの奥で、榊は袖から覗く金色の砂を隠すようにカップを拭った。そのコーヒーは、昨夜の別れとは対照的に、酷く穏やかで、そしてどこか切ない味がした。




