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星を刻む硝子

深夜二時の新宿駅東口


凍りつくような極寒の北風がビルの隙間を鋭く吹き抜け、歌舞伎町のネオンの光が、寒さで硬く尖って見える夜だった。

折りたたみ椅子に腰掛ける榊の足元には、寒そうに身を縮めたキジトラ猫のクロが丸まり、じっと闇の向こうを凝視している。


二人の前に立っているのは、背中の丸まった七十代の老人だった。

長年、何か一つのものを極限まで凝視し続けてきた者にしか宿らない、独特な凄みがその佇まいにあった。老人の頭上には、白く掠れた無機質な数字が浮かび上がっている。


【残り寿命:3年】――日数にして、およそ千日。


「僕の寿命を、あと三日分だけ残して、すべて買い取ってほしい」


老人の声はひび割れていたが、その眼差しに迷いは一切なかった。


「私は江戸切子の職人だ。だが、歳をとって手が震え、目が見えなくなり、もう何年も納得のいく硝子を削れていない。私の代で伝統は途絶える。……だが、死ぬ前にもう一度だけ、私が若かった頃の『全盛期の目と指先』が欲しい。残りの寿命をすべて売るから、その対価として、最高の感覚を三日間だけ味あわせてくれ。それで最後の作品を仕上げて死ぬ」


それは、若者のような名声への渇望でも、金への執着でもなかった。

己の技術のみを狂信し、それ以外の一切を切り捨てる、老境の凄まじい未練。

榊が言葉を紡ぐ前に、足元のクロが「にゃあ」と低く喉を鳴らした。


『おい榊、こいつの目を見ろよ。完全に狂ってやがる。自分の命を千日分も削ってまで、ただの硝子の塊を削りたいなんてな』


(……ええ。ですが、これもまた愛おしくも浅ましい、『人間』です)


榊は心の中でクロに答え、金色の瞳から昼の温和な光をふっと消し去った。


「命を削って硝子を削る、ですか。ですが職人さん、あなたがどれほど完璧な品を遺そうと、今の人間はその価値を理解しませんよ。ただの『無駄に高いコップ』として、誰にも使われず棚の奥に眠るだけ、かもしれませんよ?」


「構わん。他人がどう評価するかなど知ったことか! 私は、私自身を納得させるために削るんだ」


榊は形の良い唇を静かに歪め、冷徹な商人の微笑みを浮かべた。


「……ええ。それがあなたの望みなら、僕はただ提示された対価通りに買い取るだけです。あなたの残り千日の命――確かに査定いたしました」


榊が老人の頭上の数字に、白く美しい右手をかざす。

指先が触れた瞬間、老人の頭上から金色の微細な命の砂が、シュルシュルと音を立てて吸い上げられていった。千日分の、枯れてはいるが極限まで凝縮された命の結晶。

砂が榊の掌の中のガラス瓶に収まると同時に、老人の濁っていた瞳に、かつての全盛期の鋭い光が、爆発するようにギラリと宿った。


「素晴らしい……これだ、この感覚だ! 手の震えが止まった……感覚がよみがえる!鮮明に作品を思い描くことができるぞ!」


老人は歓喜に震えながら、道具の待つ工房へと、新宿の闇を狂ったように走り去っていった。その背中を見送りながら、クロがふんと鼻を鳴らす。


『他人の評価はどうでもいい、か。身勝手なじいさんだねえ。だが、あの執念だけはちっとばかし本物だったな』


「ええ。だからこそ……少しだけ、粋な悪戯をしておきました」


榊は手元に残った、驚くほど純度の高い金色の砂の瓶を、愛おしそうにポケットへ仕舞い込んだ。



三日後。

老人は自身の工房の作業台で、満足げな笑みを浮かべたまま静かに息を引き取っているのが発見された。

その手には、息をのむほど美しい、青く澄んだ江戸切子のぐい呑みが握られていた。光を浴びると、まるで宇宙の星々をそのまま閉じ込めたかのように妖しく輝く、文字通りの最高傑作。


しかし、遺品整理に訪れた親族たちは、その硝子の価値を誰も理解しなかった。

「高そうなコップだけど…」と一瞥しただけで箱に詰め、ネットのアンティークショップへ、二束三文の値段で安易に売り払ってしまったのだ。


老人が命のすべてを注ぎ込んだ傑作は、誰にも理解されないまま、冷たい画面の向こうへと埋もれていった――はずだった。



翌昼の喫茶店。

窓から柔らかな光が差し込む店内で、ゆいがカウンターの端でスマホの画面を見つめながら、不思議そうに呟いた。


「ねえ榊さん、相馬さん。このネットショップに出てる古いアンティークのグラス、すっごく綺麗なんです。お値段はちょっと安すぎるくらいなんですけど……見ているだけで、なんだか胸がギューッとなるというか、不思議な光り方をしていて。ただのお水を入れるだけでも、味が変わったりするんでしょうか」


ゆいが画面を榊に見せる。そこに映っていたのは――あの老職人が命と引き換えに削り出した、青い星の江戸切子だった。


榊はいつもの穏やかな昼の笑顔を浮かべ、手元で静かに珈琲カップを温めた。


「器の価値は、中身ではなく注ぐ人間の心次第ですよ。ゆいちゃんがそこまで惹かれるということは、その器には、あなたにしか見えない『本物の星』が宿っているのでしょうね」


「私の心次第……。うん、やっぱり私、これ買います! 榊さんの美味しいケーキを食べる時に、これで綺麗なお水を飲むんだ!」


ゆいは嬉しそうにスマホを操作し、購入ボタンをタップした。

何も知らない、けれど世界でたった一人、老人の遺した命の執念を「綺麗」だと見抜いた無邪気な少女。


カウンターの奥から、サイフォンを温める炎を見つめながら、マスターの相馬がいつもの穏やかな瞳で静かにつぶやいた。


「おや、それは素敵な買い物をしましたね、ゆいさん。作り手にとって、自分の作品をそこまで愛してくれる人に使ってもらえること以上の『救い』はありませんから」


『ふん。どんなにいい器でも、使う奴に愛されなきゃただの冷たい硝子だからな。じいさんの執念も、ようやく行くべき場所に辿り着いたってわけだ』


窓際で丸くなっていたクロが、あくびを一つして、満足そうに再び眠りについた。


老職人が命を懸けたエゴは、世間という大きな雑踏には届かなかった。

けれど、榊が夜の底で紡いだ数奇な因果の糸は、昼の温かな喫茶店の中で、最もそれを愛してくれる少女の元へと、最高の形で手渡されたのだ。


「届くのがすっごく楽しみです!」


ゆいの弾んだ声が、静かな店内に響く。

榊は優雅に微笑みながら、そっとポケットの中のガラス瓶に触れた。老人が置いていった千日分の命の砂が、少女の未来を優しく守るための光となって、今日も静かに揺らめいていた。


ご覧いただきありがとうございます!第8話『残り三日の執念』でした。


今回は「老職人の純粋なエゴ」を描いてみました。前回の美大生の「名声への欲」とは対照的に、「自分だけが満足すればいい」という孤高の狂気です。どちらの命も、残された大衆にとってはただの「モノ」として消費されてしまう虚しさが、この新宿の夜のルールです。


次回、第9話は現代的な「数字の狂気」に囚われた、ある配信者の少女のお話です。火曜日の夜に。

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