命の綻び
深夜二時の新宿駅東口。
ネオンの明かりが届かない闇の中に、男が一歩、また一歩と足を引きずるように佇んでいた。
その足元で、クロが退屈そうに尻尾の先をぴくりと揺らしている。
「今夜の客は……ずいぶんと『薄い』な」
クロが低く鳴くと同時に、湿った夜風が路地裏を吹き抜けた。
男の影は街灯の光を浴びているにもかかわらず、まるで水に溶かした墨のように淡く、今にも消えてしまいそうに揺れている。男は人間ではない。この街の陰に潜み、人の「未練」を喰らって生き永らえてきたあやかしだった。
しかし、その男の胸の真ん中には、ぽっかりと大きな空洞が穿たれている。
「……頼む。俺に『誰かの強い未練』を売ってくれ」
男の声は風が吹けば吹き飛んでしまいそうなほど掠れていた。
あやかしは人の強い感情や記憶を糧とする。だが、この男はあまりにも永い時を生きすぎた結果、生きる糧を得る力すら失い、魂そのものが擦り切れかけていたのだ。消滅という終わりを恐れ、他人の強い感情(命)を補給して繋ぎ止めようと必死になっていた。
榊は静かに目を細めると、男の頭上へとそっと手をかざした。
そこには今にも途切れそうな、細く弱々しい命の数字が揺らめいている。
「あいにく、僕が取り扱うのは『人間の命』そのものですよ。他人の感情や未練などという、曖昧な品は置いておりません」
「そんな……! なら、人間の命でもいい! ほんの少しでいいんだ、俺に分けてくれ! このまま消えるなんて……嫌だ……!」
あやかしの男は血走った目で榊にすがりつこうとした。だが、榊の冷ややかに澄んだ瞳に見つめられると、その指先は空を切って震えることしかできない。
榊は手元から小さなガラスの小瓶を取り出すと、静かに言った。
「命を買い取ることはできても、与えることはできません。……ですが、あなたがその消えゆく身を保つために、自らの残された『存在の核』を差し出すというなら、引き取りましょう」
「な……!? 残りを引き取ったら、俺は完全に消えてしまうじゃないか!」
「ええ。ですが、このまま醜く擦り切れながら消滅を待つか、それとも最後の命を清算し、静かな『無』へ還るか……選ぶのはあなたです」
男は絶望に目を見開いた。消える恐怖と、あやかしとして朽ちていく屈辱。男は自分の霞んだ両手を見つめ、やがて力なく膝をついた。
「……もう、疲れたんだ。何百年も、誰かの未練を貪りながら生きることに……」
男が覚悟を決めて目を閉じた瞬間、榊の指先が鋭い猫の爪へと変化した。
迷いのない爪が虚空を裂くと、男の胸から儚い金色の『命の砂』がさらさらと溢れ出し、夜の闇へと散っていく。
そのわずかな光の粒は、榊が掲げたガラスの小瓶へと吸い込まれ、チリンと小さな鈴の音を立てて静まり返った。
男の姿は風に溶けるように淡くなり、最後には静かな満足感をその顔に浮かべて、完全に夜の闇へと消え去った。
「……終わりのない命の、惨めな末路だな」
足元でクロが不機嫌そうに鼻を鳴らす。榊は静かに息をつき、手元の小瓶をポケットにしまった。
「永すぎる時間は、時に毒になりますからね」
「……で? その『あやかしの残滓』も、例の誰かのために貯め込むつもりか?」
クロの問いに、榊はただネオンの眩しい夜空を見上げるだけで、答えることはなかった。
翌日の喫茶店。
昼下がりの穏やかな陽光が差し込む店内で、相馬が静かに珈琲を淹れている。
「おや、榊くん。今日は少し手元が重そうですね」
「……ええ、昨夜は少し、骨の折れる客でしたから」
榊が淹れたてのカップを手に取ると、クロが不満そうにカウンターの上で尻尾をパタパタと揺らした。
「相馬、俺にも何か甘いものをくれ。昨日のやつに付き合わされて骨が折れた」
「クロ、猫に砂糖はダメだよ〜」
ゆいがトレーを抱えながらカラカラと笑い、クロの頭を撫でようとする。クロはフッと鼻を鳴らしてその手をすり抜けると、窓際の陽だまりへと移動した。
「人間もあやかしも、執着を手放せない奴から崩れていく……まったく、愚かなことだ」
クロの呟きを聞きながら、榊は珈琲を一口啜り、静かに目を細めた。
窓の外には、今日も何も知らない人間たちが、それぞれの時間を刻みながら賑やかに通り過ぎていく。




