残り火を分かつ
深夜二時の新宿駅東口。
路地裏、自販機の隙間に置かれた古ぼけたパイプ椅子と、「命の買い取り、いたします。寿命=10,000円」と書かれた手書きの看板。
金色の髪を月光に溶かした男、榊は、クロを膝に乗せ、ただ静かにそこにいた。
そこへ現れたのは、ひどく痩せこけた若い男だった。
「俺の余生を全部やる。だからあいつの寿命を、俺と同じ長さにしてくれ。あいつが生きられるまでの時間を、俺も一緒に生きるんだ」
榊はクロを撫でる手を止め、冷ややかな瞳で男を見下ろした。
「寿命の売買は等価交換が基本なんです。あなたが彼女に命を譲れば、あなたは今夜にでも消える。そんな結末を、彼女は望むと思いますか?」
男は、死にゆく者の苦しさを隠して苦笑した。
「……知っているさ。あいつが俺に『自分の寿命を全部あげるから、私がいなくなっても生きて』って言ったんだ。……馬鹿な女だよ。俺の命なんて、あいつのいない世界じゃ何の価値もないのに。お互いに命を差し出し合って、最期に二人で消えようなんて。……あんたなら笑うかもしれないな」
榊は沈黙した。お互いが「相手に生きてほしい」と願い、死を差し出し合っている——。そのあまりに人間らしく、そして愚かな執着に、榊の胸の奥で何かが軋んだ。
「呆れた執着ですね。理解はできません。
ですが、あやかしの気まぐれとして、その願い、預かりましょう」
「おい!」
クロが背中の毛を逆立てて警戒を促すが、榊はクロの頭をひとなでして男の正面に立つと、ただ静かに男の頭上へ掌をかざした。
何も告げぬまま、榊の纏う冷たい空気が濃密に揺らぐ。その瞳が黄金色に深く輝いた瞬間、榊の胸元から零れ落ちた光の粒が、意志を持つかのように男の胸へと吸い込まれていく。
「本来なら、あなたの命はあと一日で尽きる運命でしたよ。けど私の残り火を少しだけ混ぜて差し上げます。……十日間。その短い時間を、最期の旅路として大切に使いなさい。二度と戻らぬ覚悟があるのなら、それがあなたたちにとっての幸福なのでしょう」
男は震える声で礼を言い、闇の中へ消えていった。
「ッ…」
榊は体の中の異常に顔をゆがめ、その痛みに思わず自販機に全体重を預ける形になった。
体は重く足元から崩れ落ちる感覚に襲われた。右の半身は完全にマヒしていて手を挙げるどころか指を動かすことさえままならない。
その様子を、側で見ていたクロはするりと榊の足元に寄り、その瞳に嘲笑を浮かべる。
「……おまえばかだろ」
「人の形を保ててるんですよ?今回は上出来でしょう」
「お前は最近人間側に寄りすぎる」
榊は何も答えず、袖から溢れる金色の砂を隠した。自分の寿命を削った代償として、体は酷く冷たくなっていたが、その冷たさの代わりに、二人が最期に手を取り合って笑う姿が幻影として焼き付いていた。
翌日の夕方
喫茶店のカウンターには、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。
ゆいが窓の外の空を見上げ、のんびりと笑う。
「あのお客さん今日もお見舞い行くって言ってましたね。いつもつらいって言ってたのに。今日はなんだか、すごくうれしそうな顔してましたね。彼女さん退院するのかな」
相馬がコーヒーを淹れながら、カウンターの奥に視線を送る。
榊は何も答えず、ただ静かにカップを拭っていた。
「そうですか。きっと、行くべき場所があったのでしょう」
ゆいはその言葉の意味を深く考えることもなく、いつものように無邪気にクリームソーダを混ぜる。
「うふふ、なんだか今日は一段と大人っぽく聞こえますね。……あ、珈琲のいい匂いがしてきた!」
ゆいは何も知らない。
二人が命の残り火を一つに混ぜ合わせ、誰にも知られず、どこか遠い場所へ向かったことを。
今日は約束の10日目。
榊はカップを拭う手を一瞬だけ止め、微かな金色の光を視界の端に追った。
「きれいな夕日ですね」
榊が窓の外の夕焼けをみて目を細める。
「えー?そうかなぁいつもと変わらないと思いますけど。まぁ綺麗ですけどね!いつも」
榊は小さく息を吐き、酷く重くなった体をカウンターに預けた。
今日のコーヒーは、これまでで一番甘く、そして酷く切ない味がした。




