束の間
今日の喫茶店は、外の喧騒を遠くに追いやり、今日も静かな時間を刻んでいた。
磨き上げられた木のカウンター、使い込まれた銅の焙煎機、そして微かに漂う珈琲の香ばしい苦味。いつもと変わらぬ、安らぎに満ちた風景の……はずだった。
「……榊さん?」
カウンターの奥で、榊がガタガタと音を立ててコーヒーミルを落とした。
いつもなら、どんなに忙しくても涼しい顔でそつなく業務をこなす榊が、今日はひどく荒い息をついている。
ゆいは慌てて駆け寄り、カウンターの中に身を乗り出した。
「大丈夫ですか? 顔色が真っ白ですよ! あと、あの……背中から……服の隙間から、何か茶と黒と白の毛羽立ったものが見えてますけど……」
ゆいの目には、榊の服を突き破るようにして生えた、無惨に折れた三毛猫の尻尾が見えている。
榊は咄嗟にカウンターの下へ身を屈めようとしたが、動きが鈍い。
「気にしないでください。タオルをつけたままにしてただけですよ」
「タオルを……? 背中に……?」
(どう見てもタオルじゃないし、なんかモコモコ動いてるし……!)
混乱するゆいの視線の先で、窓辺にいたクロが冷徹に告げる。
「ほっとけゆい。自業自得のタオルだ」
「自業自得のタオル…?」
ゆいは意味が分からなすぎて首を傾げるしかなかった。
足元がふらつく。榊は震える手でカウンターを強く掴んだ。
「え…ちょ榊さん!?」ゆいはパニックになりながらも、心配そうに手を伸ばす。しかし榊にとって、人間の純粋な手の温かさは、今の弱り切った身体にはあまりにも眩しく、重かった。
「……榊さん、本当に、病院へ行かなくていいんですか?」
「寝不足なだけです……問題ありませんよ」
「榊くんは大丈夫ですよ。そういえばゆいさん、来月分の発注が明日まででしたね。申し訳ないんですが、倉庫にある新しいカップの在庫を当たってもらえませんか? ついでに仕入れておきたいので」
見かねた相馬が、いつもの穏やかな声で助き船を出した。
「はーい! 榊さん、無理しちゃダメですよ! では倉庫行ってきます!」
ゆいがバタバタと倉庫へ消えた瞬間、榊の着ていた服が形を失い、床へとへたり込んだ。
ごそごそと服の山が揺れ、中から一匹の三毛猫がひょっこりと顔をのぞかせる。
相馬は静かにカウンターの裏へ回り込み、足元で見上げる小さな三毛猫を見下ろした。
「無理しすぎですよ」
相馬は手慣れた手つきで三毛猫の榊を抱き上げると、カウンターの奥にある柔らかな布の上にそっと寝かせた。
三毛猫は、小さく「……ニャ」と不満そうに鳴き、丸くなる。その間にクロが、榊の着ていた服やエプロンを素早く素足で踏みつけ、カウンターの下の扉へ押し込んだ。
そしていつもの窓辺に戻ると、丸くなっている榊を眺めながら、ふんと鼻を鳴らす。
「お前、相馬に甘えすぎだろ。少しはあやかしとしての意地を見せろよ」
しかし、今の榊には言い返す気力も残っていないらしい。小さく開いた瞳で、倉庫へ向かったゆいの気配を気にかけながら、そのまま深い眠りへと落ちていった。
店内には香ばしいコーヒーの香りと、穏やかな静寂が戻る。相馬は榊の小さな頭を一度だけ優しく撫でると、何事もなかったかのように再び丁寧に珈琲を淹れ始めた。




