第18章・3:眼差しの重み
無駄にできる時間などなかった。
オーディンとの会談を終えたアカイア陣営は、すぐさま行動を開始し、訓練に取りかかった。
ドンッ!!
ドンッ!!
GODSの生徒たちの眼差しには、張り詰めた緊張と力強い闘志が宿っている。
イサクが繰り出す槍の一撃は、先ほどよりもさらに苛烈さを増していた。
その刺突は、まるで風そのものを切り裂くかのように速い。
しかし、シュウは驚異的な正確さと速度で、そのすべてを躱していく。
まるで、イサクの瞳に記されたすべてが、シュウには一冊の開かれた本のように読み取れているかのようだった。
イサクが槍の扱いにどれほど長けていようとも、その攻撃はシュウにまるで届かない。
シュウは一度も反撃することなく、ただひたすら攻撃を躱し続けていた。
少し離れた場所では、エデンが二人の攻防をじっと見つめていた。
まるで自分の仲間たちを分析するかのように、その一挙手一投足を観察している。
高速で交錯する二人の動きを追うため、彼の両眼は常人ではあり得ない速度で動き続けていた。
そのとき、一つの声が割って入る。
「調子はどうだ?」
木製の手すりへ軽く寄りかかりながら、アフロディーテが尋ねた。
「イサクは、あと少しでシュウに直撃を与えられるところまで来ています」
エデンは二人から一瞬も目を離さずに答える。
(凄まじい集中力だな……)
アフロディーテは感心したように思った。
「ですが……」
「ですが?」
「イサクの目が、少しおかしいんです……」
「どういうことだ?」
「何か重いものを抱えているように見えます」
エデンは僅かに目を細めた。
「魂の奥底にある何かに、ずっと引きずられているような……」
その言葉を聞き、アフロディーテもイサクへ視線を向ける。
(確かに……鼓動が速い。それに、普段よりも明らかに発汗量が多い)
彼女はイサクの状態を注意深く観察した。
(だが、肉体的な問題には見えないな)
(となれば……あれを使うしかないか)
「イサクの感情を読むのは、やめたほうがいいと思いますよ、先生」
エデンが横目で彼女を見ながら言った。
「……そんなに分かりやすかったか?」
アフロディーテが気まずそうな笑みを浮かべる。
「まあ、それなりに……」
「だが、なぜやめたほうがいいと思う?」
彼女は怪訝そうに眉をひそめた。
「あいつが何に苦しんでいるのかを知って、全員で話し合うほうがいいんじゃないか?」
「言わないのには、あいつなりの理由があるはずです」
エデンは静かに答える。
「誰にだって秘密はあります。でも、それが悪いことだとは限りません」
「ただ……心から信頼している相手にしか話せないこともある。それだけです」
「他人の気持ちを理解するのが上手くなったな、エデン」
「いえ、そういうわけじゃありません」
エデンは、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「ただ……あいつの目が、俺の目とよく似ているだけです」
「自分をゆっくりと蝕んでいく痛みを抱えた……あの目が」
「エデン……」
ドサッ!!
その瞬間、激しく倒れ込む音が辺り一帯に響き渡り、全員の視線を引き寄せた。
地面に倒れていたのは、イサクだった。
肉体だけではない。
その表情からは、精神までも完全に疲弊していることが見て取れた。
「イサク、大丈夫か?」
シュウが心配そうに手を差し伸べる。
「だ、大丈夫……ごめん」
イサクはその手を取り、ゆっくりと身体を起こした。
「謝る必要はない。もう一時間以上、休まずに訓練を続けているんだ。疲れるのは当然だ」
「それなのに……僕はまだ、一発も当てられていない」
「…………」
「思い詰めるな、イサク」
アフロディーテが二人のもとへ歩み寄る。
「今日はもう休んだほうがいい。明日、最後の調整を済ませれば――」
「嫌です!」
「……!」
予想外の叫びに、その場にいた全員が呆気に取られた。
「す、すみません……叫ぶつもりじゃなかったんです」
イサクは苦しげに息を整える。
「でも、休むわけにはいきません。今はまだ……」
「シュウがコウとはまるで違う次元にいることは分かっています」
「それでも……シュウが明らかに手加減していることくらい、僕にも分かるんです……」
「イサク、俺は……」
「失敗できないんだ……」
イサクは歯を食いしばり、拳を強く握り締めた。
「もう二度と……失敗するわけにはいかない」
そして、縋るような眼差しで仲間たちを見つめる。
「お願いします……このまま続けさせてください」
「どうか……お願いします」
その瞬間――
一本の手が、イサクへ差し伸べられた。
その人物の瞳に、希望や光が宿っているわけではない。
それでも、イサクの眼差しにのしかかる重荷を、ほんの僅かでも理解しているように見えた。
「俺が手伝う」
そう告げたのは、エデンだった。
「エ、エデン……?」
イサクが戸惑いながら、その名を口にする。
「何がお前をそこまで駆り立てているのかは分からない」
エデンは静かに続けた。
「でも、お前が簡単に諦めるつもりがないのなら、俺もお前を一人にはできない」
そして、真っ直ぐにイサクの瞳を見つめる。
「戦おう。お前の心が納得するまで」
「ちょっと待――」
「いいだろう」
シュウが最後まで言い終えるより先に、アフロディーテが口を挟んだ。
「先生……」
「自分たちの肩にどれほどの重荷がのしかかっているのか、一番理解しているのはお前たち自身だ」
アフロディーテは、生徒たちを静かに見回す。
「そんなお前たちを、今さら私が止める資格はない」
「私にできるのは、これまでどれほど困難な状況でも前へ進み続けてきたお前たちを信じることだけだ」
だが、その眼差しはすぐに厳しさを帯びた。
「ただし――誰か一人でも限界に達したと私が判断した瞬間、訓練は強制的に終わらせる」
「そのときは、どんな文句も一切認めない。分かったな?」
「失望はさせません」
エデンが力強く答える。
「ああ、分かっている」
アフロディーテはそう返すと、背を向けた。
しかし、その場を立ち去ろうとした彼女を、シュウが呼び止める。
「先生」
「何だ?」
「どうして、考えを変えたんですか?」
その問いに、アフロディーテは僅かに足を止めた。
「同じ痛みを経験した者にしか、今まさにその痛みに苦しんでいる者の気持ちは分からないからだ」
振り返ることなく、彼女は静かに答える。
「あの二人が、それぞれ過去に何を経験し、どんな傷を刻まれたのか……私には分からない」
「だが、きっとあいつらなら互いに理解し合える」
その声には、確かな信頼が込められていた。
「人間のように感情を抱くことのできない女神である私には、人の心を完全に理解することなどできない」
「だから今は……あいつらに任せることにした」
「…………」
シュウは、その背中を見つめながら僅かに微笑んだ。
「感情を抱けないと言うわりには、随分と俺たちを心配しているように見えますけどね」
「お前の気のせいだ」
アフロディーテは素っ気なく言い残し、その場から離れていった。
シュウは彼女の背中を見送ると、再び仲間たちへ向き直る。
そこでは、エデンとイサクが戦いの準備を始めていた。
その姿を静かに見つめながら、シュウは小さく呟く。
「これが、人間の感情……」
彼の口元に、微かな好奇心を滲ませた笑みが浮かんだ。
「実に興味深い……」
それから、幾つもの時間が過ぎていった。
太陽は地平線の彼方へゆっくりと沈み始め、代わるように昇った月の輝きが、眩い王国を照らし出す。
豪華絢爛な装飾に彩られた街並みは、宇宙そのものを思わせる神秘的な色に染まっていた。
透き通った水晶の壁面には、銀河の紫色が優美に反射し、幻想的な光景を生み出している。
人工的な灯りなど必要ない。
夜空に広がる宇宙そのものが、この巨大な王国へ唯一無二の輝きを与えていた。
そんな満天の星々の下――
三人の生徒が、地面に横たわっていた。
全身は汗にまみれ、呼吸も限界に達している。
それでも、疲れ切った彼らの顔には、温かく偽りのない笑みが浮かんでいた。
「あ、ありがとう……」
力を使い果たしたイサクが、掠れた声で呟く。
「俺たちに礼を言う必要はない、イサク」
シュウが穏やかに答えた。
「何しろ、俺たちは同じチームだからな」
「みんな……」
「イサク」
エデンは夜空を見上げたまま、静かに口を開く。
「お前が抱えているものが、どれほど重いのか……俺には分からない」
「でも、それがどれほど重くても、お前がどれほど深い場所まで沈んでも、俺たちは必ず手を差し伸べる」
「ごめん……でも、まだ話せないんだ」
「謝るな」
エデンは身体を起こし、イサクの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「誰にだって、昼も夜も関係なく追いかけてくる悪魔がいる」
「恐怖、心の傷、大切なものを失った痛み……」
「俺たちを、底の見えない深い奈落へ突き落とそうとする感情や記憶が」
エデンは自らの胸元へ手を添える。
「でも、それらとどう向き合うのかを決められるのは、自分自身だけだ」
「その痛みを前へ進むための力に変えるのか……」
「それとも、抗うことさえできないほど巨大な力に変えて、自分自身を押し潰してしまうのか」
「だが、俺たちはその力にお前を押し潰させたりしない」
シュウがエデンの言葉を引き継いだ。
「そうだろう、エデン?」
「ああ。俺たちが何とかする」
エデンは、満面の笑みを浮かべて答える。
「ありがとう、みんな!」
イサクの顔にも、ようやく心からの笑顔が戻った。
「よし、イサク! もう一度行くぞ!」
エデンは勢いよく立ち上がり、剣を構える。
「おい、もう休め!」
シュウが即座に声を上げた。
「うん、お願いするよ」
しかし、イサクも立ち上がり、再び槍を構える。
「…………」
シュウは呆れ果てた表情で二人を見つめると、大きくため息をついた。
「まったく……勘弁してくれ」
抽選が終わって以来、初めて――
彼らを苦しめ続けていた「明日」という重圧が、消えていた。
満天の星々に照らされた今、この瞬間だけがすべてだった。
そして、小屋の上階からは、彼らの教師がその姿を見守っていた。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
「どうして、お前も一緒に訓練しないんだ?」
部屋へ入ってきたヘルメスが尋ねた。
「私が加わっても、邪魔になるだけだ」
アフロディーテは窓の外を見つめたまま答える。
「今のあいつらに、私たちは必要ない」
「まだまだガキなんだ。いつか必ず、お前の力が必要になるさ」
「そうかもしれないな……」
そのとき、ヘルメスはアフロディーテの机へ視線を移した。
その上には、大量の書類が乱雑に広げられている。
「何だ、この散らかりようは?」
「情報だ」
「情報?」
「ああ。ノルク側の全出場者に関する情報だ」
「それで?」
ヘルメスは机へ近づき、並べられた書類を覗き込む。
「何か分かったのか?」
「オーディンという男が、どれほど恐ろしい存在なのかが分かった」
「オーディンが?」
ヘルメスが眉をひそめる。
「どういうことだ?」
「抽選の最中、私はすぐに気づいた。オーディンが、すべての対戦カードを操作するつもりだとな」
アフロディーテは静かに説明を始めた。
「だが、絶対的な証拠がなかった以上、あの場で奴を告発することはできなかった」
「それでも、同じ結論に辿り着いたのは私だけではない。シュウも、オーディンが抽選を操作すると予測していた」
「だが、シュウが最初の不正を暴いたとき、オーディンはまるで驚いていなかった」
アフロディーテの表情が険しくなる。
「まるで、誰かが自分の罠を見破ることまで予想していたかのようにな」
「表の罠を暴かせることで、その裏に隠した本当の一手から目を逸らさせた……」
「二重の罠か」
ヘルメスが呟く。
「ああ」
アフロディーテは机上に並べられた資料へ視線を落とした。
「最初の不正が明るみに出れば、その後はもう細工などしない――そう考えるのが普通だ」
「だが、オーディンはその常識そのものを逆手に取った」
「そして、自ら直接手を下すことなく、あいつらを追い詰める対戦カードを完成させた」
「一人一人にとって、最も相性の悪い相手を正確に割り当てることでな」
アフロディーテは、一枚目の資料を手に取る。
「コウ・ネーヴェ――難攻不落の壁」
「金級の実力を持つナイでさえ、こいつを倒すには苦戦を強いられるだろう」
続いて、二枚目の資料へ手を伸ばす。
「レイ・サンドヘッド――正確かつ高速の剣技を操る、剣の達人」
「戦士としての経験が浅いエデンにとって、最悪の相手だ」
そして、最後の一枚を手に取った。
「最後は、ナイ・ブリクスト」
その名を口にした瞬間、アフロディーテの眼差しがさらに鋭くなる。
「正真正銘の化け物だ」
「生徒という立場でさえなければ、とっくに金級を超えている」
「純粋な力では、シュウを遥かに上回る。幾度もの実戦を経験してきたことも、大きな強みだ」
「そのうえ、凄まじい速度まで持っている」
「シュウに、戦況を落ち着いて分析する余裕など与えないだろう……」
「…………」
「すべての対戦カードが、完璧に計算されている」
アフロディーテは忌々しげに歯を食いしばった。
「あのクソ爺は昔から、盤上の駒を思いどおりに配置することだけは得意だった」
「だが、お前はさっき自分で言ったじゃないか」
ヘルメスが穏やかな声で告げる。
「何のことだ?」
「こいつらは、不可能を可能にできる者たちだ――ってな」
そう言って、ヘルメスは笑みを浮かべた。
「今の俺たちにできるのは、あいつらを信じることだけだ」
「……ああ」
「俺は、きっとやり遂げると信じている」
ヘルメスは窓の外へ視線を向ける。
星明かりの下では、三人の生徒が再び武器を構え、立ち向かおうとしていた。
満身創痍でありながら、彼らの全身からは圧倒的な気迫が溢れ出している。
「何しろ、あいつらは――」
その姿を見つめながら、ヘルメスは満面の笑みを浮かべた。
「何度打ち倒されても、必ず立ち上がるからな」
◇◇◇
【初戦まで――残り0日】




