第18章・2:それを成し遂げられる者たち
広間を満たす視線には、緊張と疑念が色濃く滲んでいた。
抽選はすでに終わったというのに、両陣営の指導者たちは、相手が僅かでも隙を見せる瞬間を待つかのように、激しく睨み合っている。
そんな張り詰めた空気の中、アフロディーテが口を開いた。
「何か忘れていないか、爺さん?」
「何の話だ?」
「対抗戦はいつ始めるつもりだと聞いている」
アフロディーテは苛立ちを隠そうともせず、オーディンを睨みつける。
「私の教え子たちには、万全の準備をさせる必要がある。当然、規定は守っているんだろうな?」
「いや」
「……は?」
怒気を孕んだ声が、広間に響いた。
「対抗戦は明日から始める。各試合の間に設ける休養日は、一日のみだ」
オーディンは何でもないことのように、淡々と告げる。
バンッ!!
アフロディーテが怒りに任せて、卓上へ勢いよく拳を叩きつけた。
そして、オーディンの瞳を真っ向から睨み据える。
「ふざけるな、このクソ野郎!」
「一体、何を企んでいる!?」
「抽選であんな真似をしたかと思えば、今度はこれか!?」
「…………」
オーディンは何も答えない。
「お前が何を企んでいるのかは知らない。だが、せめて既に定められている規定くらい守るだけの矜持は見せろ、この糞爺が」
アフロディーテの怒声が、黄金の広間を激しく震わせる。
「規定では、生徒たちが試合会場の環境に適応できるよう、最低でも一週間の準備期間を設けることになっている!」
「それに、こいつらは過酷な旅を終えたばかりだ。それなのに、お前は到着した瞬間から私たちに舐めた真似ばかりしやがって……」
アフロディーテは、さらに鋭く目を細めた。
「一体、何をそこまで恐れている?」
「落ち着け、アフロディーテ」
オーディンは、どこか冷ややかな口調で言った。
「なぜそこまで驚いているのか理解できぬが、この対応は十分に予想できたはずだ」
彼は静かにエデンへ視線を向ける。
「制御不能の悪魔を他国へ送り込むと決めたのは、ほかでもないアカイア側だろう?」
「それで今になって、私に責任があると言うつもりか?」
オーディンは、一切悪びれることなく言葉を続けた。
「私はただ、自国の民を案じているだけだ」
「そして、その悪魔がこの国の秩序を脅かすのであれば――私は迷うことなく処刑する」
「ふざけるなッ!」
アフロディーテが怒鳴り声を上げる。
「あの子は私の管轄下にいる! ほかの者たちと同じ敬意を払われる権利がある!」
彼女の全身から、凄まじい殺気が迸った。
「もう一度あの子を悪魔呼ばわりしてみろ! 今度こそ私がお前を殺すぞ、このクソ爺が!」
ズンッ!!
その瞬間、巨像を思わせる巨大な影が、二柱の神の間へ割って入った。
――トール。
「どけ」
アフロディーテが、低い声で命じる。
しかし、トールは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、静かに首を横へ振った。
その仕草に威嚇の意図はない。
ただ、彼の眼差しは明確に告げていた。
――相手にするだけ無駄だ、と。
「先生、やめてください」
そのとき、エデンが二人の間へ割って入った。
「エデン……」
「あいつの言っていることは、間違っていません」
エデンは静かにオーディンを見据える。
「場所も相手も関係ない。俺は誰にとっても脅威です」
「先生たちにとってさえも……」
その声に、迷いはなかった。
「俺を恐れることも、不安に思うことも、憎むことも……それくらい、俺が受けて当然の報いです」
「おい……」
シュウが心配そうに呟く。
「少なくとも、道理はわきまえているようだな」
オーディンは冷淡な口調で告げた。
「自分がどのような状況に置かれているのか、よく理解している。そこだけは評価しよう」
「ですが――」
エデンが、オーディンの言葉を遮った。
「先生たちや仲間に、指一本でも触れることだけは許さない」
その瞬間――
エデンの瞳が、鮮やかな深紅へと染まった。
そこから放たれる殺意に、広間の空気が一変する。
「俺のことなら、好きなだけ言えばいい」
「俺の誇りを、気が済むまで踏みにじればいい」
エデンは、オーディンから一瞬たりとも視線を逸らさない。
「だが、俺の大切な者たちに手を出したら――」
深紅の双眸が、禍々しい光を放つ。
「俺は、あんたがそこまで恐れている悪魔になってやる」
「そして、一瞬の迷いもなく――あんたを殺す」
「…………」
その瞳に射抜かれた瞬間――
常に冷静で、何一つ感情を映さなかったオーディンの顔に、初めて僅かな動揺を滲ませる笑みが浮かんだ。
パンッ!
その瞬間、大きな拍手の音が黄金の広間いっぱいに響き渡り、張り詰めていた空気を一瞬で打ち払った。
「まあまあ。二人とも、少し落ち着いたらどうだ?」
そう言って、バルドルは愛の女神へ穏やかな微笑みを向ける。
「バルドル……」
オーディンが低く呟いた。
「父上、今日はもう十分ではありませんか?」
バルドルは臆することなく問いかける。
「真の指導者たる者、感情に振り回されるべきではない――そうは思いませんか?」
「…………」
オーディンは数秒の間、息子の瞳をじっと見つめ続けた。
だが、やがて静かに視線を逸らす。
「……お前の言うとおりだ。今日の話し合いは、これで終わりとする」
「会談の目的がすでに果たされたのであれば、これ以上言い争いを続けても時間を無駄にするだけです」
バルドルは落ち着いた口調で続けた。
「では、お許しをいただけるなら、アカイアの一行を滞在先まで送り届けてまいります」
「好きにしろ」
オーディンは彼らから顔を背けたまま、素っ気なく答える。
「ご理解いただき感謝いたします、万物の父よ」
バルドルは恭しく一礼した。
◇◇◇
対戦カードも無事に決まり、バルドルの仲裁もあって、アカイアの使節団はすでに宮殿の外へ出ていた。
ミシッ!
しかし――アフロディーテの怒りが消えたわけではない。
「あのクソ爺……本当に腹が立つ!」
彼女は拳を宮殿の外壁へ深々とめり込ませたまま、苛立たしげに吐き捨てた。
「…………」
生徒たちは引き攣った笑みを浮かべながら、その姿を見守っている。
迂闊なことを口にすれば、次に殴り飛ばされるのは自分たちかもしれない。
そんな恐怖から、誰一人として声をかけることができなかった。
「君は何も変わっていないな」
バルドルが、僅かに笑みを浮かべながら言った。
「あぁ!?」
アフロディーテが勢いよく振り返る。
(おいおい、バルドル……それ以上は危険だぞ)
エデンは、命知らずな神の魂が無事であるよう心の中で祈った。
「いや、訂正しよう。君は確かに変わった」
バルドルはまったく怯むことなく言葉を続ける。
「今では、心の中で考えていることと、表に出す感情がきちんと一致している」
「おい、勝手に心を読むな。怖いんだよ」
「すまない、すまない」
バルドルは楽しそうに笑いながら謝った。
(だが、彼女が変わった理由は明らかだ)
バルドルの視線が、自然とエデンへ向けられる。
(間違いない。彼は特別な存在だ)
そのとき、聞き慣れた声が彼らの会話へ割り込んできた。
「おお! ようやく会談が終わったみたいだな。首尾はどうだった?」
「…………」
一同の動きが凍りつく。
彼らの視線の先には、料理を盛った皿を片手に立っているヘルメスの姿があった。
「……何だ?」
全員から向けられる視線に、ヘルメスは困惑した顔を浮かべる。
「もしかして、俺たち……もう詰んだのか?」
「おい……」
アフロディーテが怪訝そうに眉をひそめた。
「お前、私たちと一緒に会談へ出るはずじゃなかったのか?」
「ああ……まあ、そのつもりだったんだが……」
ヘルメスは気まずそうに笑う。
「俺だけ中に入れてもらえなかったんだよ」
「はぁ? どうしてだ?」
「というか……」
ヘルメスは信じられないものを見るように、一同を見回した。
「お前ら、本当に俺がいないことに気づいていなかったのか?」
「どうやら、誰かさんは『自分たちの仲間』とは見なされていないようだな」
バルドルが、からかうような笑みを浮かべる。
ズガァァンッ!
その言葉は雷となってヘルメスの誇りを直撃し、彼を深く打ちのめした。
(おい、バルドル……今のはさすがに卑怯だぞ)
エデンは、前回とは立場が逆転してしまったヘルメスへ同情の眼差しを向けた。
「おい、この完璧超人野郎……」
ヘルメスは怒りに顔を引き攣らせながら、バルドルを睨みつける。
「俺と喧嘩したいのか?」
「へえ……君にも男らしいところがあったんだな、綺麗な目をした坊や」
(それのどこが悪口なんだ……?)
シュウは理解できず、首を傾げた。
(こいつら、二人とも罵倒の才能がなさすぎるだろ……)
アフロディーテは呆れ果てた様子で思う。
(よくそんな言葉で喧嘩を始められるな……)
イサクは、ある意味で二人の勇気に感心していた。
「いい加減にしろ、お前たち」
アフロディーテが二人の間へ割って入り、強引に引き離す。
「どうせまともな喧嘩なんてできないんだから、くだらない罵り合いはやめろ」
「だが――ありがとう、バルドル」
アフロディーテの表情から苛立ちが消え、声も僅かに柔らかくなった。
「お前が来てくれなければ、あの場は完全に収拾がつかなくなっていた」
「下手をすれば、今より千倍は酷い事態に発展していたかもしれない」
彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「いろいろと迷惑をかけて、すまなかった」
「いや、謝るべきなのは私のほうだ」
バルドルは静かに首を横へ振った。
「父上と君の仲が良くないことは知っている。それでも、今日の父上の態度は到底許されるものではなかった」
「本当に、申し訳ない」
二人は互いの瞳を見つめ、温かな笑みを交わす。
そして、どちらからともなく頬を僅かに赤らめた。
「…………」
その一部始終を目にしたヘルメスの顔から、すっと笑みが消えた。
「それじゃあ、私たちはそろそろ戻るとする」
アフロディーテは気を取り直すように告げた。
「準備期間がほとんどないと分かった以上、これから考えなければならないことが山ほどあるからな」
そう言って歩き出したあと、彼女は振り返り、バルドルへ微笑みかける。
「また近いうちに会えるといいな、バルドル」
「ああ。健闘を祈っている、アフロディーテ」
. . .
数分ほど歩いたのち、一行は滞在先へと戻り、そのまま全員で大広間に集まった。
彼らの眼差しには、高揚と期待――そして恐怖が入り混じっている。
その複雑な感情を、誰よりも敏感に察していたのはアフロディーテだった。
「どうして揃いも揃って、そんな浮かない顔をしている?」
「…………」
誰も答えようとはしない。
アフロディーテは小さく息を吐くと、静かに言葉を続けた。
「今、自分たちがどれほど厳しい状況に置かれているのか……お前たちは十分に理解しているはずだ」
「対戦相手、準備期間、そして試合会場――何もかもが私たちにとって不利に働いている」
そこで一度言葉を切り、生徒たちを見回す。
「だが――お前たちは今まで、そんなものを一度でも気にしたことがあったか?」
「……!」
その言葉を耳にした瞬間、全員が顔を上げた。
「もし私の目の前にいるのが、ごく普通の生徒たちだったなら……私は最初の一秒で諦めていただろう」
「だが、お前たちは違う」
アフロディーテの声に、徐々に力が宿っていく。
「お前たちは一人残らず、誰もが生還できるわけではない地獄を生き延びてきた」
「そして今もなお、自分たちを追い続ける悪魔と向き合いながら、ここに立っている」
「お前たちは泣いた。それでも、笑うことをやめなかった」
「恐怖に震えた。それでも、勇敢に立ち向かった」
「迷い、何度も立ち止まりそうになった。それでも、前へ進み続けた」
その一言一言が、生徒たちの胸に深く突き刺さっていく。
「私の目の前にいるのは、平凡な生徒たちなどではない」
アフロディーテは、強く言い切った。
「不可能を可能にできる者たちだ」
「簡単な戦いにはならない。そんなことは分かっている」
「だが――困難であればあるほど、勝利の味は甘くなる」
彼女は不敵な笑みを浮かべ、生徒たちへ問いかける。
「さあ、どうする?」
「このまま諦めるか?」
「それとも戦場へ出て――あのクソ野郎どもを黙らせてやるか!?」
「勝ちます」
エデンが、決意に満ちた声で答えた。
「勝ちます」
イサクも、確かな自信を込めて続く。
「叩き潰します」
シュウが、静かな闘志を瞳に宿しながら告げた。
そして――
「――行くぞォォォッ!!」
全員の雄叫びが重なり、屋敷全体を震わせた。
◇◇◇
初戦の時は、刻一刻と迫っていた。
それでも、数々の困難と重圧に晒されながら、GODSの面々の士気はかつてないほどに高まっている。
彼らの胸にある使命は、ただ一つ。
――勝利。
だが、彼らの心に闘志の炎が燃え上がる一方で――
北欧の神々もまた、盤上の駒を動かすための準備を着々と進めていた。
【ノルクとGODSの会談から数分後――グラズヘイム】
眩い輝きを放つ広間には、ようやく静寂と平穏が戻っていた。
オーディンは玉座に腰を下ろしたまま、無言でこちらを見つめ続けるトールへ目を向ける。
「いつまでそうして私を見ているつもりだ、トール。言いたいことがあるのなら、さっさと話せ」
「なぜ、あれほど彼らを挑発したのですか、父上?」
「分かりきったことだろう?」
オーディンは冷淡に答えた。
「あの少年は、この国にとって危険な存在だ。この地に長く留まれば留まるほど、我々にとって状況は悪くなる」
「それに――もし奴が私に指一本でも触れれば、私は何の咎めも受けずに奴を処刑できる」
その瞳に、冷酷な光が宿る。
「そうなれば、決して存在するべきではなかったあの異常を、完全に消し去ることができる」
「…………」
オーディンは横目で息子を見る。
しかし、トールは依然として何も言わず、父の顔を見つめ続けていた。
「どうやら、私の答えには納得していないようだな」
「父上が嘘をついているとは申しません」
トールは静かに口を開く。
「ですが、まだ何か重大なことを隠しておられるように見えます」
「…………」
「とはいえ、陛下がその情報を伏せておくおつもりなら、私には黙って従うほかありません」
再び、広間を重い沈黙が包み込んだ。
しばらくして――
「エスカトス王から、ある任務を与えられた」
オーディンが唐突に告げた。
「王からの任務……ですか?」
「ああ。アカイアから戻る前、王は私だけを呼び出し、ある密命を授けられた」
「その内容は?」
オーディンは僅かに目を細める。
「アカイア陣営に潜む裏切り者を捕らえろ――とな」
「なっ……!?」
トールが大きく目を見開いた。
「裏切り者ですと!?」
「ああ。王からもたらされた情報によれば、あの五人の中に裏切り者がいる」
「そいつはブラック・ライツ、そして邪悪なる勢力と密かに通じているらしい」
「そんな……何かの間違いでは……」
トールは信じられないといった表情を浮かべる。
「では、我々はどうするのです?」
「何としてでも捕らえる」
オーディンは迷うことなく断言した。
「すでに数千の兵を配置し、奴らの一挙手一投足を監視させている」
「裏切り者が油断し、僅かでも隙を見せた瞬間――必ず捕らえる」
そして、オーディンの口元に大きな笑みが浮かんだ。
「そうすれば、ようやく王の寵愛を取り戻すことができる」
「そして今度こそ――」
その瞳が、野心に満ちた禍々しい輝きを放つ。
「神々の頂点に立ち、すべてを率いるのは、この私だ」
(手段など選ばない)
(どれほどの代償を払おうと――私は必ず、力を手に入れる)
オーディンの笑みが、さらに深まっていく。
(たとえそのために、この世界のすべてを破滅へ追いやることになろうとも……)




