第18章・4:最初の駒
アスガルドの星空は、灯りに照らされた街路の温かな色彩と溶け合っていた。
凍てつく街に張り巡らされた小さな路地の至るところで、住民や観光客たちの賑やかな声が響き渡っている。
ドワーフ、人間、ヴァルキュリア、半神、そして神々――
記念すべき初戦の開始を待ち望む観客たちの顔ぶれは、数え上げればきりがない。
誰もが、ただ一つの場所を目指していた。
天を衝かんばかりの高さを誇る、巨大な楕円形の闘技場。
建物全体は樅の木で造られており、逆V字型の屋根は苔と青々とした芝に覆われている。
さらに、その壮大な舞台を取り囲むように、花崗岩から造られた巨大で禍々しい大蛇の像が鎮座していた。
高所から見下ろすその両眼は、これから戦う者たちを監視しているかのようだった。
そして、闘技場の最上部には――雷の紋章が刻まれている。
「さ、寒ぃぃぃぃ……」
観客の一人が、身体を震わせながら声を漏らした。
「本当にな。最近は凍え死にそうなくらい寒いぞ」
隣にいた男も、両腕で自らの身体を抱きながら答える。
「ま、まさか……これは終末の訪れを告げる前兆なのか!?」
最初の男が、大袈裟に目を見開いた。
「馬鹿なことを言うなって」
もう一人の男が、思わず笑い出す。
「俺たちには神々がついているんだ。何か起きるはずがないだろ?」
「そ、そうだよな……」
最初の男は安堵したように胸を撫で下ろした。
そして、勢いよく片腕を天へ突き上げる。
「神々に栄光あれ!」
「本当に単純な奴だな……」
隣の男は、引き攣った笑みを浮かべながら呟いた。
◇◇◇
満天の星々が最も眩い輝きを放ち、観客席が隙間なく埋め尽くされた頃――
ついに、誰もが待ち望んだ決闘の幕が上がろうとしていた。
「九つの世界より集いし、すべての者たちよぉぉぉぉッ!」
闘技場全体を揺るがすほどの声が轟く。
「ようこそ! 《トーナメント・オブ・ゴッド》、記念すべき第一試合へぇぇぇぇッ!!」
司会を務めるヘルモーズの叫びに応えるように、観客たちの歓声と雄叫びが一斉に爆発した。
「ウォォォォォォォォッ!!」
観客たちは手にした武器を高々と掲げ、その切っ先を夜空へ向ける。
「本日、皆様にご覧いただくのは、この壮大なる大会の幕開けを飾る最高の前菜だぁぁぁッ!」
「最後の瞬間まで、我々を熱狂させてくれること間違いなしの一戦!」
「その初戦を任されたのは――神の血をその身に宿す、二人の若き戦士!」
「己の学園へ、最初の大きな勝利をもたらすために激突するぅぅぅッ!」
ヘルモーズは大きく腕を広げると、闘技場の右側にある入場口を指し示した。
「まずは、ノルク陣営!」
「ここは奴の故郷! 周囲を埋め尽くすのは、共に育った同胞たち!」
「岩よりも堅く――山よりも揺るがぬ戦士!」
「我らが代表――」
「コウ・ネーヴェを、盛大な歓声で迎えろぉぉぉぉッ!!」
「ウォォォォォォォォォッ!!」
観客たちが一斉に立ち上がり、耳をつんざくほどの歓声を上げる。
その熱狂に迎えられながら、右側の入場口から一人の若き戦士が姿を現した。
長く乱れた髪は、鮮やかなライムグリーン。
対照的に、その両眼は美しいエメラルドグリーンに輝いている。
どこか女慣れした軽薄そうな雰囲気を漂わせ、その態度には緊張の欠片すら見られない。
腰には、装飾された柄頭を持つ直剣。
背中には、獰猛な狼の紋章が中央に刻まれた、巨大で豪華な円形盾を背負っていた。
(へえ……ずいぶん集まってるじゃないか)
コウは楽しげな笑みを浮かべながら、観客席を見渡した。
(やっぱりナイの言ったとおりだ)
(これだけ大勢いるなら、思う存分格好いいところを見せられそうだな)
彼の笑みが、さらに大きくなる。
(次代の統治者に気に入られておくのも悪くない)
(そうすれば――あいつの綺麗な妹と一緒に、何不自由ない暮らしができるかもしれないしな)
【コウ・ネーヴェ――青銅級・第2位】
やがて、コウの視線が観客席の一角へ向けられた。
そこには真剣な表情を浮かべ、試合の行方を見守るナイの姿があった。
(やはり、こいつを選んだのは正解だった)
ナイもまた、闘技場に立つコウを冷静に観察している。
(青銅級とはいえ、あの防御力は誰にとっても厄介なものとなる)
(本気で訓練に取り組みさえすれば、すぐにでも銀級へ上がれる実力はあるんだが……)
ナイの鋭い眼差しを受け、コウの笑みが僅かに引き攣った。
(うわ……あんな目で見られると、ちょっと怖いんだよな……)
(でも、あいつほど迷わず信頼できる奴もいない)
コウは、ナイから視線を逸らさない。
(確かにイカれてはいるけど……その狂気こそが、今のあいつをあれほどの化け物にしたんだ)
そして、小さく息を吐くと、反対側の入場口へ視線を向けた。
「だったら――派手に格好いいところを見せないとな」
◇◇◇
その反対側――
入場口の奥では、イサクが鎧の革紐を一本ずつ固く締め直していた。
その眼差しは、手にした槍の穂先にも劣らぬほど鋭く研ぎ澄まされている。
「さあ、対するは――我らの希望を打ち砕けると信じる、大胆不敵なる挑戦者だぁぁぁッ!」
ヘルモーズの声が、再び闘技場全体へ響き渡った。
「GODS学園より参戦!」
「栄光に飢え、生まれながらの戦士の血をその身に宿す男!」
「盛大な雄叫びで迎えろぉぉぉぉッ!」
「イサク・ヨイィィィィィィッ!!」
「ウオオオオオオオオオッ!!」
観客たちの凄まじい咆哮が、大地を震わせた。
ズシン――
ズシン――
イサクが足を踏み出すたび、重々しい足音が力強く響く。
王国を吹き抜ける凍てついた風を受け、彼の外套が軽やかに揺れていた。
右腕には、幾本もの槍に貫かれた大蛇の紋章が刻まれた円形盾。
左手には、石で造られた頑丈な槍。
その太い柄には、極めて硬いグアヤカンの木材が使われている。
さらに腰には、火山岩から造られたマチェーテが吊るされていた。
その刃は、燃え盛る炎のような深紅の輝きを放っている。
コリント式の兜に覆われた顔から覗くのは、炎のように燃え上がる双眸。
その瞳に宿っているのは、勝利への渇望や戦士としての責務だけではない。
消えることのない、深い後悔――
「……何て恐ろしい目だ」
自らの対戦相手を見つめながら、コウが素直な感想を漏らした。
【イサク・ヨイ――青銅級・第10位】
観客席では、仲間たちと教師が期待と不安を胸に、イサクの姿を見守っていた。
何も言わずに祈る者。
落ち着かない様子で、何度も足を動かす者。
反応はそれぞれ違っていても、全員の胸にはイサクへの思いがあった。
(お前ならやれる、イサク)
シュウは、真っ直ぐに戦場を見つめる。
(信じているぞ、イサク)
アフロディーテも、強い眼差しを彼へ向けていた。
(ぶっ潰してこい、クソガキ)
ヘルメスは不敵な笑みを浮かべる。
(見せつけてやれ、怪物)
そして、エデンは仲間から一瞬たりとも目を逸らすことなく、力強く微笑んだ。
(お前が何者なのかを――全員に見せてやれ)
闘技場の中央へ歩みながら、イサクは自らへ言い聞かせる。
(もう、逃げ続けるわけにはいかない……)
(俺は決めたんだ)
(もう、後戻りはできない)
ギュッ――
イサクは槍の柄を、強く握り締めた。
(何のために戦うのか……自分が一番分かっているだろう)
(今さら迷うな)
兜の奥で、その眼差しがさらに鋭さを増していく。
(怪物になれ)
◇◇◇
ついに、二人の戦士が向かい合った。
その双肩にのしかかるのは、一つの王国の希望。
人々から寄せられる期待。
そして――彼ら自身が抱える恐怖。
あとは、試合開始の合図を待つだけだった。
しかし、その直前――
「ゴホン、ゴホン!」
一つの咳払いが、闘技場に響き渡った。
「皆の者、心して聞け」
オーディンの威厳に満ちた声が、観客たちの耳へ届く。
「この記念すべき初戦を始める前に、ここに集ったすべての者へ伝えておきたいことがある」
万物の父が立ち上がると、闘技場を満たしていた喧騒が静まっていった。
「まずは、本日この地へ足を運び、我々に敬意を示してくれたことに感謝する」
「ブラック・ライツの犯罪者たちによって、世界は大きな打撃を受けた」
「それでも、我々は今もこうして共に歩み続けている」
オーディンは、力強く言葉を続ける。
「敵が何者であろうとも関係ない」
「奴らが何度我々を打ち倒そうとも――我々は、そのたびに立ち上がる」
「長い年月をかけ、我々全員の手で築き上げてきたこの平和を、奴らが破壊しようとしたのは今回が初めてではない」
「そして今回も――結末は変わらぬ」
一瞬の静寂。
直後、オーディンは断固たる声で宣言した。
「我々は勝つ」
「…………」
その言葉を耳にした誰もが息を呑み、万物の父へ視線を向けた。
「我々が勝つのは、決して一人で戦っているわけではないからだ」
「神々、人間、天使、ドワーフ――」
「種族など関係ない。我々は皆、共に一つの未来を目指して歩んでいる」
「その未来とは――平和だ」
そして、オーディンの視線が闘技場の中央へ向けられる。
「この若者たちは、今日ここで証明してくれるだろう」
「未来は、我々のものであると」
「奴らがどれほど足掻こうとも、どれほど卑劣な思惑を巡らせようとも――」
その声が、闘技場の隅々まで響き渡る。
「最後に世界を治めるのは、平和であると!」
(なぜ、今なんだ……?)
観客席からオーディンを見つめながら、アフロディーテは眉をひそめた。
(なぜ、今になってこんな話をしている……?)
そのとき――
オーディンの身体から、誰の目にも映らないほど微かな光の筋が浮かび上がった。
一つ、また一つと彼の身体を離れた光は、空へ昇りながら、徐々に神秘的なルーン文字へと形を変えていく。
しかし、その異変に気づく者は誰一人としていなかった。
(勝利するためには――)
オーディンは、心の中で静かに呟く。
(時に、すべてを犠牲にしなければならない)
やがて、同じ光の筋が観客たちの身体からも抜け出し始めた。
神々から。
人間から。
天使から。
ドワーフから。
その場に存在する、すべての者から――
(何だ、この感覚は……?)
アフロディーテは自らの両手へ視線を落とした。
(なぜ……身体から力が抜けていく?)
無数のルーンは、誰にも知られることなく夜空へ昇っていく。
そして、少しずつ一点へと集まり――
互いに重なり合い――
やがて、巨大な黄金の天蓋を形成した。
それは闘技場を覆うだけに留まらず、まるで空の果てにまで広がっていくかのようだった。
(たとえ、そのために――)
オーディンの片目に、決意と野心が宿る。
(天へ刃向かうことになろうとも)
次の瞬間――
黄金の大閃光が、満天の星空を一気に駆け抜けた。
しかし、その場で何が起きたのかを認識できた者は、術者であるオーディンただ一人。
「私の話を聞いてくれたことに感謝する」
オーディンはそう告げ、観客たちへ恭しく一礼した。
「では、前置きはここまでだ」
そして、闘技場の中央に立つ二人の戦士へ視線を向ける。
「《トーナメント・オブ・ゴッド》第一試合――」
「開始せよ!」
その号令と同時に、世界全土への中継が始まった。
◇◇◇
遥か上空――
雲海よりもさらに高い場所に、その男はただ一人佇んでいた。
世界を統べる力を持つ、孤高の存在。
その口元に、自然と微かな笑みが浮かぶ。
まるで宇宙のすべてを内包しているかのような彼の左眼が、僅かに揺らめいた。
そして、その王にはすでに理解できていた。
あの光が、何を意味しているのかを――
「どうやら、あの老人は待ちきれなかったらしい」
エスカトスは、小さく笑みを浮かべた。
「もう最初の駒を動かしたか」
その左眼に、宇宙の輝きが満ちていく。
「面白くなってきた……」




