第18章・5:難攻不落の守り
「始めぇぇぇぇッ!」
ヘルモーズが、試合開始を告げた。
ズダァァンッ!!
イサクは一秒たりとも無駄にすることなく地面を蹴り、真正面からコウへ突進した。
そして、全身の力を乗せた槍を、相手の盾へ凄まじい勢いで叩きつける。
ドゴォォォォォンッ!!
轟音が闘技場全体を揺るがし、巻き上がった大量の土煙が二人の姿を覆い隠した。
◇◇◇
「おいおい……少しは落ち着けって」
コウは盾越しにイサクを見つめながら、困ったように声をかけた。
「黙れ」
イサクは短く吐き捨て、さらに槍へ力を込める。
(へえ……想像していたのとは、まるで違うな)
コウの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
(ただ力任せに叩きつけているわけじゃない)
(俺の守りを観察しながら、弱点を正確に狙ってきている……)
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
「口を閉じて戦え、このクソ野郎!」
イサクが怒鳴り、より強く槍を押し込んだ。
(やれやれ……)
その瞬間、コウの瞳から軽薄な色が消え去った。
代わりに浮かんだのは、氷のように冷たく――それでいて、どこまでも落ち着いた眼差し。
(少し頭を冷やしてやるか)
シュンッ!
瞬き一つの間に、コウは盾の角度を僅かに変えた。
「なっ……!?」
それまで受け止められていたイサクの槍が、盾の表面を滑るようにして大きく脇へ逸れていく。
槍へ全体重を預けていたイサクは、その勢いを止められず、前方へ大きく体勢を崩した。
(クソッ……!)
イサクが視線を下へ向ける。
そこには、すでに懐へ潜り込んでいたコウの姿があった。
ゴッ!!
コウは身体を沈めた状態から、円形盾を勢いよく振り上げる。
盾の縁がイサクの顎を正確に捉え、その脳髄を激しく揺さぶった。
(何が……?)
強烈な衝撃によって、イサクの巨体が地面から浮かび上がる。
(俺……宙に浮いてるのか……?)
「身の程を知れ」
イサクの身体が地面へ戻るよりも早く、コウは右拳を固く握り締めた。
その拳へ、高密度のゼンカが一気に集まっていく。
そして――
ドゴッ――バキィィッ!!
ゼンカを纏った拳が、イサクの顔面へ容赦なく叩き込まれた。
「がっ……!」
あまりにも凄まじい威力に、イサクの身体は一直線に吹き飛ばされる。
ドゴォォォォンッ!!
そのまま闘技場の外壁へ激突し、硬い壁の奥深くまで簡単にめり込んだ。
「ふぅ……」
コウは小さく息を吐き、乱れた髪を軽く整える。
「必要以上に力を使っちまったな」
「…………」
観客席では、アカイア陣営の全員が試合開始から僅か数秒で起きた出来事に言葉を失っていた。
(どうして、あれほど簡単にイサクへ一撃を当てられた……?)
シュウは鋭い眼差しで、闘技場に立つコウを分析する。
(あの男……一体どれほどの才能を無駄にしているんだ?)
(異常なのは、力だけではない)
アフロディーテもまた、コウの一挙手一投足から目を離さない。
(ゼンカの制御精度が、あまりにも高すぎる)
(イサクの攻撃を受け流すときも、反撃するときも、必要な瞬間に必要な量だけを正確に使っていた……)
彼女の表情が、険しさを増していく。
(あいつは――精密さの化け物だ)
(頼む、イサク……)
エデンは両拳を強く握り締め、壁へ叩きつけられた仲間を見つめていた。
(諦めるな……!)
観客席にいる者たちが、開始直後に起きた攻防を必死に分析する一方で――
当のコウは、まるで何事もなかったかのように落ち着いていた。
しかし、その表情には明らかな失望が滲んでいる。
「どうした、イサク?」
コウは、壁へめり込んだ対戦相手へ声を投げかけた。
「本当に、それがお前のすべてなのか?」
「…………」
崩れ落ちた壁の瓦礫と土煙の中から、イサクの巨体が徐々に姿を現す。
その顔は無数の傷と血に覆われ、口元からは今もなお鮮血がとめどなく流れ落ちていた。
体力は、まだ十分に残っている。
肉体は、まだ戦えるはずだった。
それなのに――
イサクの瞳に宿っていたのは、圧倒的な無力感と恐怖。
彼は、自らの足元が流れ落ちた血によって深紅に染まっていく光景を、呆然と見つめていた。
「チッ……期待外れだな」
(身体が……動かない)
イサクの瞳孔が大きく開く。
(どうして……?)
(動きたいのに……怖い……)
コウはその場に立ったまま、苛立ちを露わにしてイサクを見つめていた。
「おい、イサク。一つ教えてくれ」
「お前は――何のためにここへ来た?」
「……!」
その問いを耳にした瞬間、イサクの身体が石のように固まった。
答えようとしても、言葉が出てこない。
「イサク・ヨイ」
コウは冷たい声で、その名を口にする。
「軍神の息子でありながら、血が流れることを誰よりも嫌っている男」
「だったら、どうしてここへ来た?」
「ぼ、僕は……」
「正直に言うぞ、イサク」
コウは小さく息を吐いた。
「俺は、神々のくだらないお遊びになんて興味はない」
「むしろ、大嫌いだ」
そう口にしながら、観客席の高台へ一瞬だけ視線を向ける。
「だが、俺も馬鹿じゃない」
「陛下と、その後継者を十分に満足させておけば、これから先、不自由のない安楽な人生を手に入れられる」
コウは肩を竦め、薄い笑みを浮かべた。
「世間では、こういうのを『明日の報酬を得るために、今日を犠牲にする』と言うんだったか?」
「だが――」
その笑みが、静かに消える。
「お前の目を見ても、俺には何一つ見えてこない」
「…………」
「栄光への渇望か?」
コウは首を横へ振った。
「違う」
「名声と力か?」
「それも違う」
「復讐か?」
「いや――それすらない」
冷たい眼差しが、イサクを貫く。
「お前の目には、何も宿っていない」
「……黙れ」
その言葉を聞いたイサクが、強く歯を食いしばった。
「本当に、そんな半端な覚悟でここへ来て、俺に勝てると思っていたのか?」
コウは嘲るように言い放つ。
「情けない奴だ」
「黙れ……」
「お前は家で大人しくしているべきだった」
さらに、その声へ露骨な侮蔑が混じる。
「今のお前は、仲間たちの足を引っ張るだけの邪魔者だ」
「黙れぇぇぇぇぇッ!!」
ゴォォォォォォッ!!
イサクの咆哮と同時に、凄まじい量のエネルギーが全身から爆発的に噴き出した。
地面が激しく震え、周囲の瓦礫が次々と宙へ浮かび上がる。
だが、その力に秩序はない。
イサクの身体から溢れ出すゼンカは、制御されることなく無差別に放出され続けていた。
「…………」
その光景を目にした瞬間、コウの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「いいぞ、今だ、坊主!」
興奮した観客の一人が、立ち上がって叫ぶ。
「あのイケメン野郎の顔をぶっ潰せぇぇぇッ!」
(違う……)
しかし、シュウだけは厳しい表情でイサクを見つめていた。
(これは、まずい……)
(ゼンカが何の制御もされないまま、体外へ流れ続けている)
シュウは、僅かに笑みを浮かべるコウへ視線を移す。
(これは進化でも、覚醒でもない)
(ただ理性を失い、力を暴走させているだけだ……)
そして、シュウは相手の狙いを悟った。
(まさに――コウが望んでいたとおりに)
「さっきから口ばかり……もう、うんざりなんだよ」
イサクは怒りに顔を歪めながら、低く吐き捨てた。
「お前は何様のつもりだ?」
「僕にとって何が一番なのかを、勝手に決めるんじゃない!」
荒れ狂うゼンカが、彼の周囲で激しく渦を巻く。
「戦う理由がないから何だっていうんだ?」
イサクは槍を構え、コウを睨みつけた。
「理由なんかなくたって、お前のその綺麗な顔をぶち壊せると証明してやる!」
「…………」
その威勢のいい言葉を聞き、コウは楽しそうに口元を緩めた。
そして、人差し指を自分のほうへ曲げ――挑発するように手招きする。
――来い、と。
「うおおおおおおおッ!!」
ヒュンッ――ガァンッ!!
イサクは再び地面を蹴り、猛烈な勢いでコウへ突進した。
全体重を乗せた槍が、円形盾へ激突する。
「アァァァァァァッ!!」
そこから繰り出されたのは、怒濤の連続突きだった。
だが、先ほどまでの正確さはどこにもない。
怒りに支配された槍は、凄まじい速度と力を持ちながらも、狙いは酷く乱れていた。
ガンッ!
バキッ!
ガンッ! ガンッ! バキィッ!!
止まることを知らない槍が、一瞬ごとにコウの盾へ叩きつけられる。
一撃、また一撃。
木製の盾が削られ、砕けた木片が絶え間なく宙を舞う。
それでも――
コウの表情から、余裕が消えることはなかった。
ギリシャの戦士が放つ圧倒的な速度と破壊力を前にしても、その佇まいは天才だけが持つ静けさに満ちている。
必要以上の力など要らない。
深く考える必要すらない。
ただ、迫り来る槍の軌道に合わせ、盾を僅かに動かすだけ。
右へ。
左へ。
上へ。
再び、右へ――
イサクの攻撃は、怒りに呑まれたことで完全に機械的なものへと変わっていた。
同じ動き。
同じ軌道。
同じ呼吸。
あまりにも単調で、あまりにも予測しやすい。
コウにとって、その連撃には何の美しさもなかった。
まるで、永遠に動くことのない一枚の絵を眺めているかのように――
(退屈だ……)
コウの瞳には、イサクの猛烈な連撃が緩慢な動きにしか映っていなかった。
(ナイから、アレスの息子と戦えると聞いたときは……さすがに俺も心が躍った)
ガンッ!
迫り来る槍を、盾で軽々と受け流す。
(アレス――)
(まさしく軍神と呼ぶに相応しい、偉大な存在)
(俺の英雄だ……)
しかし、その瞳から徐々に熱が失われていく。
(だが、あのときの興奮はすべて無駄だった)
(この男には、父親の面影など欠片もない)
(精神は硝子よりも脆く、その力には何の感情も宿っていない)
(色を失った絵よりも――なお空虚だ)
イサクの槍が、再び真正面から迫る。
(少しは楽しめると思っていたが……)
コウは、小さく息を吐いた。
(とんだ時間の無駄だったな)
その眼差しが、氷のような冷たさを帯びる。
(そろそろ――この出来の悪い冗談を終わらせるか)
シュンッ!
「……!?」
ほんの一瞬だった。
コウは紙一重でイサクの刺突を躱すと、流れるような動きで腰の直剣を抜き放った。
ザシュッ!!
外科医のメスを思わせるほど正確な斬撃が、イサクの脇腹を切り裂いた。
鋭い刃は肉を深々と抉り、その奥にある骨へと達する。
「ブハッ!!」
イサクの口から大量の血が噴き出し、深紅の雨となって地面へ降り注いだ。
だが、コウの攻撃は止まらない。
ゴッ!!
次の瞬間、直剣の柄頭がイサクの頭部へ叩き込まれた。
強烈な衝撃に意識が揺れ、その巨体が大きくよろめく。
「情けない……」
コウは、心底失望したように呟いた。
(倒れるな……)
イサクは霞んでいく視界の中で、必死に自らへ言い聞かせる。
(地面に倒れるわけにはいかない……)
(立ち続けろ……!)
カチンッ――
コウは一瞬で直剣を鞘へ戻すと、両拳を構え、ボクサーのように重心を落とした。
ドゴッ!!
鋭いフックが、イサクの腹部へ深々と突き刺さる。
「がっ……!」
そして間髪を容れず――
ゴッ!!
下方から跳ね上がった拳が、その顎を正確に打ち抜いた。
(反応……できない……)
直後――
ドッ! ガッ! バキッ!!
一方的で、屈辱的な拳の雨が、イサクの全身へ降り注いだ。
顔面。
胸部。
脇腹。
腹部。
一発、また一発。
休む間など、一瞬たりとも与えられない。
ドゴッ! バキィッ! ガンッ!!
もはや、これは決闘などではなかった。
ただ一人の戦士が、抵抗すら許されずに打ちのめされ続ける――凄惨な蹂躙。
「…………」
先ほどまで熱狂していた観客たちは言葉を失い、凍りついたようにその光景を見つめていた。
そして――
ドサッ!!
闘技場一面が、鮮血に染まっていた。
しかし、ノルクの生徒にとって、そんな惨状などどうでもよかった。
コウの視線は、瀕死の状態で跪く対戦相手へ真っ直ぐに向けられている。
その眼差しに宿っていたのは――憐れみと苛立ち。
「もう終わりか?」
コウは、イサクを見下ろしながら問いかけた。
「…………」
そのとき、ヘルモーズが助けを求めるようにオーディンへ視線を向ける。
しかし、万物の父は無言のまま、静かに首を横へ振るだけだった。
イサクが意識を失っていない以上、ヘルモーズに試合を止めることはできない。
「はぁ……はぁ……」
イサクは、まともに呼吸することさえできなかった。
鼻と口は大量の血に覆われ、今も浴槽を満たせるほどの鮮血が止めどなく流れ続けている。
(もう……終わったのか……?)
イサクは、朦朧とする意識の中で自らへ問いかけた。
(いや……)
(そもそも、僕の戦いは一度でも始まっていたのか……?)
彼の視界は、すでに深紅一色に染まっていた。
(分からない……)
(自分が今どこにいるのかさえ、ほとんど分からない……)
(強い相手だとは、最初から知っていた)
(でも……僕は一度でも、あいつに近づけたのか?)
力なく垂れ下がった自らの手を見つめる。
(本当に……情けない……)
(みんなが、あれほど僕を助けてくれたのに……)
(僕はコウに触れることさえできなかった)
血に染まった視界では、対戦相手の顔すら判別できない。
(あいつの顔は見えない)
(でも、きっと僕を哀れむような目で見ている……)
そして、イサクの脳裏に仲間たちの顔が浮かんだ。
(ごめん、みんな……)
(僕の恐怖は――難攻不落だ)
(僕は何をしても、決して十分な存在にはなれない)
(ただの臆病者なんだ……)
(すべてを失うことになっても、後ろを振り返らずに逃げ続けるだけの……卑怯者だ)
イサクの瞼が、ゆっくりと閉じ始める。
(信じてくれたのに……ごめん……)
◇◇◇
「戦えぇぇぇぇぇぇッ!!」
「……!」
闘技場を切り裂くほどの咆哮が、観客席から響き渡った。
「何だ?」
コウは不快そうに眉をひそめ、声のした方角へ顔を向ける。
「さっきからキャンキャン吠えている犬は、どいつだ?」
「エデン……」
イサクは力なく呟きながら、その声を必死に追いかけた。
「まだ終わっていないぞ、イサク!」
エデンは観客席から身を乗り出し、声の限り叫ぶ。
「立ち上がれ! そして戦え!」
「お前はまだ、自分の本当の力を世界に見せていない!」
「本当のイサクが何者なのか――誰にも見せていないだろうが!」
「エデン、座れ」
シュウが静かに制止する。
「嫌だ」
「……何?」
「お前も見ただろう、シュウ」
エデンはイサクから一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
「あいつが本当の力を出していないことくらい、お前にも分かっているはずだ」
「確かにそうだ。だが……」
「今こそ、あいつ自身と向き合うときだ」
アフロディーテが、シュウの言葉を遮った。
「先生……」
彼女は静かに立ち上がると、跪く教え子を真っ直ぐに見据えた。
「答えろ、イサク!」
愛の女神の声が、闘技場全体へ轟く。
「もう一度逃げ出した代償を――お前は本当に背負えるのか!?」
「……!」
その言葉に、GODSの戦士は凍りついた。
「私たちは、お前が逃げることを責めたりしない!」
アフロディーテは、さらに声を張り上げる。
「逃げたいのなら逃げればいい!」
「それでも、私たちは何も変わらず、お前を仲間として迎える!」
そして、彼の心へ問いかけるように叫んだ。
「だが――本当にそれがお前の望みなのか!?」
「何を言っても無駄だ」
コウは、冷めた表情で呟く。
「あいつにはもう、戦う意志など残っていない」
「……違う」
「……?」
コウの眉が僅かに動いた。
(まだ喋れるのか?)
「僕は……嫌だ」
イサクの掠れた声が、静かに響く。
「僕は――もう逃げたくない」
(何……!?)
次の瞬間――
ゴォォォォォォォォッ!!
凄まじい量の力が、イサクの身体から一気に噴き出した。
しかし、先ほどの暴走とはまるで違う。
荒れ狂い、ぶつかり合い、混ざり合いながらも――そのすべてが一つの意志に従っていた。
それはまさに、秩序を内包した混沌。
(何だ、この力は……?)
コウが驚愕に目を見開く。
(どこから、これほどの力が湧き出している……!?)
(どんな代償を払うことになっても構わない……)
イサクの指先が、僅かに動く。
(どれほど多くの血を流すことになっても……)
その瞬間――
深紅の線が、イサクの全身に浮かび上がり始めた。
腕から肩へ。
胸から首筋へ。
そして、顔へ――
それはかつて、アレスの身体に刻まれていたものと同じ紋様。
一本一本の線が、イサク自身の痛みを呼び覚ましていく。
(僕はもう――)
脳裏に蘇ったのは、鮮血にまみれた自らの両手。
(何もせずに立ち尽くし、あとになって後悔することだけは……絶対に嫌だ!)
「ぐっ……!」
イサクは震える片脚に力を込めた。
そして、驚愕するコウの目の前で、ゆっくりと立ち上がっていく。
「…………」
その姿を見つめるコウの口元に、抑えきれない笑みが浮かんだ。
「ああ……そうだ」
失望に満ちていた彼の瞳へ、再び熱が宿る。
「その顔だ……!」
コウは歓喜に満ちた声を上げた。
「その顔が見たかったんだよ、イサク!」
(勝つ……)
イサクは槍を強く握り締め、真正面からコウを睨みつける。
(たとえ――200%の力を引き出すことになっても)
深紅の紋様が、燃え上がるような輝きを放った。
「お前を――叩き潰す!」
【続く……】




