第17章・6:僕の答え
二人の視線は、互いを捉えたまま微動だにしなかった。
バルドルは、まるで悪魔のような暗い眼差しでエデンを見つめている。
対するエデンは、その場から一歩も動くことができなかった。
瞳孔は大きく開き、呼吸は今にも途切れてしまいそうなほど乱れている。
全身から噴き出す汗は、氷河の水のように冷たい。
そして、その両手は止めようとしても震え続けていた。
頭の中では、必死に叫び声が響いている。
(逃げろ!)
(今すぐ、ここから逃げろ!)
それでも、身体は言うことを聞かない。
今この瞬間に感じている恐怖が、エデンの身体を完全に縛りつけていた。
つい先ほどまで温かな笑顔を浮かべていた男が――
ほんの数秒で、恐ろしい獣へと変貌してしまったのだ。
(分かっていた……)
(心の奥底では、こいつが危険な存在だって、ずっと分かっていた……)
(それなのに、どうしてもっと早く逃げなかった?)
(どうして……こいつだけは違うなんて思ったんだ?)
(みんな……)
エデンの脳裏に、ゼウスの笑顔が浮かび上がる。
(みんな……)
次に現れたのは、オーディン。
(みんな……)
そして最後に――カイの姿が映し出された。
「どいつもこいつも――同じ穴の狢だッ!」
エデンは怒号とともに剣を抜き放ち、素早く戦闘態勢を取った。
その眼差しは、抑えきれないほど激しい怒りに満ちている。
「どうしたんだい?」
バルドルは、変わらぬ穏やかな声で尋ねた。
「私はただ、君に一つ質問をしただけだ。それなのに、どうして答えてくれないんだ?」
「黙れ」
エデンは低く吐き捨てた。
「最初は、あんたには何か違うものがあると思ってた」
剣を握る手に、さらに力が込められる。
「だけど結局、あんたも他の奴らと同じクソ野郎だった」
エデンは剣先をバルドルへ向けた。
「だから、もうくだらねえ真似はやめろ」
「怪我をしたくないなら――最初から本気でかかってこい」
「随分な自信だね」
バルドルは皮肉を込めて告げた。
そして、深い闇に染まった瞳でエデンを見据える。
「本当に私を倒せると思っているのかい――悪魔?」
「……っ!」
その問いを耳にした瞬間、エデンの目の前にカイの姿が現れた。
あの怪物が――
心に刻み込まれた、あの忌まわしいトラウマが――
再び、彼の前へ姿を現した。
「この……野郎……」
「私の記憶が正しければ、君は今まで一度だって何一つ守れなかった」
バルドルの言葉が、容赦なくエデンの心へ突き刺さる。
「家族も、仲間も、愛する者も……」
「君は、何一つ守れなかった」
「それでもなお、私を倒せると言うのかい?」
バルドルの口元が、冷たく歪んだ。
「笑わせるな。実に惨めだ」
「…………!」
「きっと、君自身も気づいているはずだ」
「君へ向けられる、あの嫌悪に満ちた視線も――」
「心を抉る、毒のような言葉も」
エデンの呼吸が、さらに激しく乱れていく。
「仲間たちは、決して口には出さないのだろう」
「だが、君がすでに理解していることを、私はよく知っている」
「君さえ現れなければ――」
バルドルの瞳から、人間らしい光が完全に消え失せた。
「彼らは、もっと幸せだった」
「…………」
「ならば、さっさと死んでしまった方がいい」
冷酷な声が、エデンの心をさらに深く抉る。
「これ以上、周りに迷惑をかけ続ける必要もなくなる」
「そうは思わないかい?」
「うあああああああああああああッ!」
エデンは絶叫しながら地面を蹴り――
怒りに身を任せ、バルドルへと襲いかかった。
◇◇◇
ヒュンッ――!
世界のすべてを滅ぼしかねないほどの力と怒りが、エデンの瞳を満たしていた。
…………。
しかし――
深い奈落にも等しい憎悪を、その心に植えつけた者を前にして。
エデンの剣は、バルドルまであと数メートルというところで、ぴたりと止まった。
やがて、剣を握り締めていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。
それと同時に、あれほど激しい怒りに燃えていた瞳も、次第に弱々しいものへと変わっていった。
ガランッ!
「……できない」
エデンの手から滑り落ちた剣が、硬い地面の上で乾いた音を立てる。
バルドルは理解できないとでも言うように、その光景を見つめていた。
「……何?」
「俺には、あんたを傷つけられない」
「なぜだ?」
バルドルは静かに問いかける。
「私が憎くないのか?」
「……憎めない」
「なぜだ!」
バルドルの声が、初めて激しく揺れた。
「私は君を悪魔と呼んだ!」
「君の命には何の価値もないと言った!」
「仲間たちは君を憎んでいるとまで言ったんだぞ!」
それでも、エデンは剣を拾おうとはしなかった。
「それなのに――なぜ私を憎めない!?」
「だって……」
エデンは、ひどく寂しげな笑みを浮かべた。
「それは全部、本当のことだから」
「…………」
「毒を込めて俺に投げつけた、あんたの言葉は……」
エデンの視線が、静かに地面へ落ちる。
「夜が来るたび、俺の頭の中を巡っているものを、そのまま言葉にしただけなんだ」
「……え?」
「分かってるよ」
その声には、怒りも憎しみも残されていなかった。
「俺には分かってる。あんたの言葉には、一片の嘘もなかった」
(あの言葉を……)
バルドルは、先ほど自分が投げつけた言葉を思い返した。
「きっと、俺なんかが現れなければ……みんなはもっと幸せだった」
エデンは力なく拳を握り締める。
「俺がしてることなんて、いつもみんなに迷惑をかけることばかりだ」
「それなのに最後には……俺じゃなくて、みんなの方が傷ついてる」
「…………」
「何もできなかった、あの感覚……」
エデンの脳裏に、担架の上へ横たわるオリビオの姿が浮かび上がった。
「俺には、痛いほど分かるんだ」
歯を強く食いしばる。
「もっと何かできていれば、すべてを変えられたかもしれないって……そう思い続ける、あの無力感が」
「だから……あんたの気持ちも分かる」
胸の奥から込み上げる苦しみに耐えながら、エデンは言葉を続けた。
「あの悔しさも……」
「だけど、ごめん」
エデンは顔を上げた。
「俺はまだ……死ぬわけにはいかない」
その瞳は、今にも涙が溢れそうなほど揺れていた。
「もう一度、あいつに会うまでは――」
「絶対に、死ねないんだ」
「…………」
バルドルは、その場で完全に凍りついていた。
目の前にいる少年は、どうしようもない無力感に押し潰されそうになっている。
それほどの痛みを抱えながらも――
エデンは、温かく微笑んでいた。
恐怖に震えながらも、前へ進む。
その身に深い闇を宿しながらも、誰の手にも届かぬほど眩い光を放つ。
悲しみに沈みながらも、微笑む。
死がその扉を叩いているというのに、それでも前だけを見つめ続ける――
「……そうか」
バルドルが、小さく呟いた。
「そういうことだったのか……」
「……?」
エデンは驚いたように目を見開いた。
バルドルの顔には、先ほどまでと同じ、どこか懐かしさすら感じさせる温かな笑みが戻っていた。
「先ほどは、ひどいことを言って本当にすまなかった。エデン」
そう告げると、バルドルは深く頭を下げた。
「君の強さを確かめたかった」
「だが、私が思い知らされたのは――自分自身がどれほど弱かったのか、それだけだった」
「……何の話だ?」
エデンは困惑した表情を浮かべる。
「あんたが何を言ってるのか、さっぱり分からない」
「未来を見つめることだよ」
「未来?」
エデンは眉をひそめた。
「さっきから、何をわけの分からないこと言ってるんだ?」
「今の君が知る必要はない」
バルドルは穏やかに答える。
「だが、そう遠くない未来――」
「君もまた、一つの決断を迫られる日が来るだろう」
「…………」
「それでも、私は信じている」
バルドルの両眼が、眩い黄金色の輝きを放ち始める。
「君なら、きっと正しい道を選べると」
だが、そのときだった。
聞き覚えのある声が、圧倒的な存在感と威厳を伴って響き渡る。
「おい、バルドル」
その声には、隠しきれない殺気が滲んでいた。
「私の教え子に、指一本でも触れていないだろうな?」
「……先生?」
エデンが驚いて振り返る。
「アフロディーテか。久しぶりだね」
バルドルは懐かしそうに目を細めた。
「え? お前たち、知り合いなのか?」
「知らん」
アフロディーテは即答した。
「まあ、そんなところだね」
バルドルは穏やかに答える。
「どっちなんだよ!?」
「外に出るときは気をつけろと、あれほど言ったはずだ」
アフロディーテはエデンの抗議を無視し、そのまま説教を始めた。
「それなのに、私が来て最初に目にしたのが、こんな奴と一緒にいるお前とはな」
呆れたように腕を組み、さらに言葉を続ける。
「知らない奴と話すなと教わらなかったのか?」
(……俺は今、シュン二号の説教でも聞かされてるのか?)
「さっさと家に帰るぞ」
「ちょっと待ってください、先生」
「ん? どうしてだ?」
「その前に、言っておきたいことがあります」
「……何だ?」
エデンはバルドルへ向き直った。
「バルドル」
その瞳には、もはや先ほどまでの迷いも恐怖も残されていなかった。
「あんたがあんな言葉を口にして、本当は何をしようとしていたのか……俺には分からない」
一度、静かに息を吸う。
「だけど、一つだけはっきり言っておく」
バルドルは何も答えず、ただエデンの言葉に耳を傾けていた。
「俺が戦うのは、それが正しいと思っているからでも、英雄みたいな立派な理由があるからでもない」
エデンは真っ直ぐに、その黄金の瞳を見つめ返す。
「俺は、大切な奴らを守りたいから戦う」
「それ以外に、理由なんてない」
彼の声には、一片の偽りもなかった。
「俺は英雄でも、殉教者でもない」
「ただ、愛する奴らと一緒に幸せに生きたいと願っているだけの――ただの人間だ」
エデンは地面に落ちていた剣を拾い上げる。
「そして、それを脅かそうとする奴がいるなら……」
その手が、剣の柄を強く握り締めた。
「俺は迷わず戦う」
「では――」
バルドルが静かに問いかける。
「君に愛せるものが何一つ残されていない日が来たら、どうする?」
「…………」
エデンは迷わなかった。
「すべてを破壊する」
そう言い切ると、剣を静かに鞘へ収めた。
「…………!」
その言葉に、バルドルは目を見開く。
しかし次の瞬間、片手で口元を覆い、その下に浮かんだ笑みを隠した。
(この少年は……)
バルドルは心の中で呟く。
二振りの剣を携えた一人の男の姿が、記憶の奥底から蘇り、その脳裏を埋め尽くしていった。
「エデン……」
アフロディーテもまた、少年の名を小さく呟いた。
「先生、家に帰りましょう」
エデンは、微かな笑みを浮かべて言った。
「あ、ああ……」
アフロディーテは我に返ったように頷く。
「……あいつに、何かされなかったか?」
「いいえ。俺は大丈夫です」
「そうか……」
その答えに安堵すると、アフロディーテは静かに息を吐いた。
「ところで、今日の夕飯は何ですか?」
「さあな。シュウが用意しているはずだ」
「俺たち……生き残れますか?」
エデンは顔を青ざめさせ、恐る恐る尋ねた。
「……無事を祈ろう」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そして師弟は、何ものにも代えがたい輝きをその笑顔に宿しながら、ゆっくりと地平線の彼方へ歩き去っていく。
その後ろ姿を――
バルドルは、ただ静かに見つめ続けていた。
「死の目を真っ向から見据える覚悟を持つ者だけが、本当の意味で生きる覚悟を持てる」
その瞳には、もはや先ほどまでの迷いはない。
「そして君は、誰よりも強く生きようとしている――エデン」
遠ざかっていく少年へ、穏やかな微笑みを向ける。
「あれほど偽りのない答えを聞かせてくれたこと、感謝するよ」
一陣の風が吹き抜け、バルドルの髪を静かに揺らした。
「私も――決断した」




