第17章・5:答えは何だ?
再び、静寂があの小屋を支配していた。
年老いた気難しい鍛冶師は一人きりとなり、両手には一冊の古びた本を抱えている。
題名は、辛うじて読み取れるほどに掠れていた。
焼け焦げた表紙は、まるで業火の中を生き延びてきたかのように傷んでいる。
誰か――いや、何かが、その内容を人の目から隠そうとしたかのように。
「まさか、あの頑固者の孫と出会うことになるとはな」
ゼノルは可笑しそうに笑いながら呟いた。
「最後に話した時は、あの小僧をこの世界から遠ざけると、随分固く決めていたようだったが……」
その顔に、どこか懐かしむような笑みが浮かぶ。
「結局、運命には抗えなかったってことか……」
ゼノルは再び、古びた本へと視線を落とした。
開かれたページに描かれていたのは、唯一無二の輝きを纏う一振りの長剣。
「《光の担い手》……」
ゼノルは、その絵から目を離さぬまま小さく呟いた。
「お前は、あの時いったい何を考えていたんだ――ゲン?」
赤みを帯びた瞳が、鋭く細められる。
「あの小僧を、本当に選ばれるに足る担い手だと見定めたのか?」
「それとも……目の前の状況に追い詰められた結果、あんなにも理不尽で無謀な決断を下したのか?」
「はぁぁ……」
ゼノルは心底疲れ果てたように、重い息を吐き出した。
「ったく、どうしてお前はいつだって無茶ばかりしやがるんだ! このクソ獅子が!」
…………。
やがてゼノルは視線を伏せ、吐き捨てるように言った。
「……ふん。もう俺の知ったことじゃねえ」
古びた本を静かに閉じる。
「俺は、俺のやるべきことに集中するだけだ」
「約束したんだ。自分の言葉を違えるつもりはねえ」
そう口にしながらも、ゼノルの表情から不安が消えることはなかった。
「だが、それでも……未来を思えば、不安を感じずにはいられねえ」
「ラックが発動した時――」
ゼノルは遠くを見るように、目を細めた。
「その輝きは希望となるのか……それとも、終焉を告げる兆しとなるのか?」
「…………」
数秒の沈黙。
すると、ゼノルは感心したように頷いた。
「へっ……今の台詞、なかなか格好よかったな」
自画自賛しながら、慌てて何か書くものを探し始める。
「忘れないうちに、書き留めておくか」
「ええと……なんだった?」
「確か……」
「…………」
「忘れた……」
ゼノルの拳が、わなわなと震え始める。
「おのれ、老化ぁぁぁぁぁぁっ!」
◇◇◇
その頃――
アスガルドの街では、火山すら凍りつかせそうなほどの寒気が、徐々にその勢いを増していた。
「さ、さ、寒ぃぃぃぃ……」
エデンは歯をガチガチと鳴らしながら、震える声を漏らした。
「雪の王国なのは分かってるけど……いくらなんでも、これはやりすぎだろ……」
凍える身体を守るように、両腕で自分自身を強く抱きしめる。
「早く家に帰らないと……」
そのまま歩き続けようとした――次の瞬間。
「……え?」
エデンの足が、ぴたりと止まった。
(妙だな……)
ゆっくりと周囲を見渡す。
(俺……前にもここを通らなかったか?)
見覚えのある建物。
見覚えのある道。
そして――
(いや、それだけじゃない)
エデンの表情から、寒さとは別の理由で笑みが消えていく。
(もう何分も、周りで誰の姿も見ていない……)
不自然なほど静まり返った街。
人々の話し声も、行き交う足音も聞こえない。
あるのは、凍てついた風が通り抜ける音だけだった。
(あのしつこい連中から、うまく逃げ切れたとは思えない)
(あいつらだって、俺から目を離すほど馬鹿じゃないはずだ……)
エデンは警戒するように目を細める。
(だったら――)
(いったい、何が起きてるんだ……?)
キィンッ!
エデンは凄まじい速さで剣を抜き放ち、闇の中から襲いかかってきた鋭い短剣を、寸分違わぬ精度で受け止めた。
「危なかった……」
その直後――
甲高い笑い声が、この奇妙な空間を包み込み始める。
「キ、キ、キ……」
ほんの一瞬、耳に届いただけだった。
だが、毒々しくも愉快そうなその笑い声は、瞬く間に数を増していく。
「キキキ……」
「キヒヒヒ……」
「キキッ、キキキキ……!」
エデンは身じろぎ一つせず、沈黙したまま周囲の気配を探った。
(二体か?)
(いや、四体……)
(違う……もっといる)
闇の中から、沼のように濁った緑色の小さな影が、次々と姿を現した。
爛々と輝く赤い瞳は、刃物のように鋭い。
耳は細長く尖り、口元から覗く牙は、まるで鮫の歯のようだった。
次の瞬間――
エデンは武器で完全武装した数十体もの小鬼――ゴブリンたちに包囲されていた。
(数が多すぎる……近距離戦は危険だ)
エデンは冷静に敵の数と間合いを見極める。
(慎重に戦わなければ、負ける)
「お前たちは何者だ? 俺に何の用だ?」
エデンの問いに、一体のゴブリンが乾いた声で答えた。
「剣」
「俺の剣か?」
エデンは肩をすくめ、皮肉な笑みを浮かべる。
「悪いな。生憎、今日は売り切れだ」
「オマエノ剣、違ウ」
ゴブリンの赤い瞳が、禍々しく細められた。
「欲シイノハ――オマエノ死」
その言葉を聞いたエデンは、堪えきれず重いため息を吐いた。
(クソ……どうして俺ばかり、こんな目に遭うんだ?)
今日一日の出来事を思い返し、苛立ちが一気に込み上げてくる。
(今日は本当に最悪だ)
(最初はあのクソみたいな転移門。次は、あの馬鹿なヘイムダル……)
(それで、今度はこいつらかよ?)
「俺はただ、静かな一日を過ごしたかっただけなのに……クソッ」
怒りを噛み殺すように、低く吐き捨てる。
その瞬間――
エデンの身体から、濃密で危険な闇のエネルギーが噴き出した。
片手で顔を覆いながら、ゆっくりと俯く。
「もう、うんざりだ……」
ゴブリンたちの笑い声が止まった。
指の隙間から覗いたエデンの瞳が、鮮やかな紅へと染まっていく。
「それほど俺の剣が欲しいなら――」
獲物を睨むような眼差しとともに、闇の力が激しく膨れ上がった。
「自分たちで奪いに来い。このクソ野郎ども」
…………。
バキィィィィンッ!
凄まじい衝撃音とともに、空が砕けた。
頭上を覆っていた偽りの空が、まるで巨大な鏡のように、無数の破片となって崩れ落ちていく。
「なっ……?」
エデンも、周囲のゴブリンたちも、何が起きたのか理解できずに空を見上げた。
砕け散った偽りの空。
その亀裂の向こうから姿を現したのは――
太陽そのものを思わせるほど眩い光を纏った、一人の男だった。
しかし、その眼差しはあまりにも冷たい。
見つめられただけで、魂までも凍りついてしまいそうなほどに。
「…………」
男が現れた瞬間、ゴブリンたちの笑い声は、吹き消された炎のように消え去った。
その小さな身体は、恐怖に支配され、激しく震えている。
「失せろ」
男は、有無を言わせぬ声で命じた。
鋭い眼光が、ゴブリンたちを射抜く。
「さもなければ――その報いを受けてもらう」
その言葉を聞いた瞬間、エデンの身体から溢れていた禍々しいエネルギーも、跡形もなく消え去った。
…………。
「ギャアアアアッ!」
「ニ、逃ゲロォォォッ!」
ゴブリンたちは悲鳴を上げ、一斉に逃げ出した。
互いを押しのけ、転び、武器さえ投げ捨てながら、我先にと闇の中へ消えていく。
あの男の眼差しは、彼らにとって決して忘れることのできない、最大の悪夢となった。
ただ一人、その場に取り残されたエデンは、呆然と輝く男を見つめていた。
そして、頭に浮かんだのは、たった一つの疑問だけだった。
(あの男……いったい、何者なんだ?)
数分が過ぎた。
エデンはその場に座ったまま、黙って様子を窺っていた。
その間にも、あの恐ろしい眼差しを持つ男は、残った衛兵たちと言葉を交わしている。
(まさか、ほんの一瞬でも、あの馬鹿どもに見張られていた頃が恋しくなるとはな……)
エデンは思わず苦笑した。
「申し訳ありません、閣下。突然、少年の姿が消えてしまったのです」
衛兵は必死に事情を説明する。
「決して目を離してはいませんでした。それなのに、まるで最初から存在しなかったかのように、忽然と消えてしまって……」
「落ち着け」
男は穏やかな声で告げた。
「君の言葉に、偽りが一片もないことはよく分かっている」
その声には、衛兵を責めるような響きなど微塵もなかった。
「今日はもう休むといい。君たちは十分すぎるほど働いた」
「しかし、バルドル様……」
衛兵は戸惑いながらも、言葉を続けた。
「《万物の父》より、彼らから決して目を離すなと命じられております。これは正式なご命令です」
バルドルは衛兵へ歩み寄ると、その肩にそっと手を置いた。
そして、優しさと温もりに満ちた声で告げる。
「今日は本当によく頑張ってくれた。私は君を誇りに思う」
「バルドル様……」
「彼には私から話しておく。だから、今日の残りはゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます。バルドル様は、本当にお優しい方です」
「そんなに畏まるな。私たちはもう長い付き合いだろう、ブロディル」
【ブロディル・イリクソン――アスガルド軍所属】
「わ、分かりました……」
ブロディルは少しだけ表情を緩めたものの、すぐにエデンへ視線を向けた。
「ですが……あの少年はどういたしましょう?」
「あの者が何を知っているのか、聞き出す必要があります」
「そのことなら心配はいらない」
バルドルは静かに答えた。
「私が家まで送り届ける。その途中で、必要なことはすべて聞いておこう」
「どうか、お気をつけください」
「ああ、気をつける」
バルドルはそう言って、彼らを見送った。
…………。
衛兵たちの足音と話し声は、瞬く間に遠ざかっていった。
つい先ほどまで辺りを満たしていた喧騒は跡形もなく消え去り、残された二人を、死者を弔うかのような重苦しい静寂が包み込む。
その沈黙を破ったのは――エデンだった。
「それで?」
エデンは訝しげにバルドルを見つめる。
「あんた、いったいどんな変態なんだ?」
「……え?」
バルドルは目を瞬かせた。
「変態?」
「とぼけるなよ。俺の前で善人ぶったって無駄だ」
エデンは警戒を解かないまま、鋭く睨みつける。
「あんな恐ろしい目をしてる奴に、何の裏もないなんてあり得ない」
そして周囲に誰もいないことを確認すると、さらに問い詰めた。
「わざわざ俺と二人きりになって、何を企んでる?」
「そ、そんな印象を与えていたのか……?」
バルドルは信じられないといった様子で、自分の顔へ手を当てた。
「百パーセントな」
「……本当に?」
「本当だ」
その答えを聞いた瞬間――
バルドルはあまりの精神的衝撃に、その場へがっくりと崩れ落ちた。
「……大丈夫か?」
「今の言葉を浴びせた直後に、それを聞くのかい?」
「えっと……悪かった」
罪悪感を覚えたエデンは、小さな声で謝った。
「ただ、少し場の空気を和ませようと思っただけなんだ」
「ずいぶん独創的な和ませ方だね……」
バルドルは呆れたように顔を上げる。
「君の師匠はいったい何者なんだ? サイコパスか何かか?」
「まあ……似たようなもんだ」
エデンの脳裏に、シュンの姿が浮かんだ。
「ぷっ……!」
バルドルが突然、吹き出した。
「ハハハハハハッ!」
「何がそんなにおかしいんだよ?」
「すまない、すまない」
バルドルは笑いを堪えながら、目元を拭う。
「まさか、君のような人物に出会うとは思っていなかったんだ」
「俺みたいって、どういう意味だ?」
「いや、本当に申し訳ない」
バルドルはようやく笑いを収めると、エデンへ柔らかな眼差しを向けた。
「王国では、君について実にいろいろな話が飛び交っていてね」
「だから、もっと恐ろしい人物か何かだと思っていたんだ」
「俺って……そんなに評判が悪いのか?」
エデンの表情が、僅かに引きつる。
「まあ……そんなところだね」
ようやく、二人の間に漂っていた緊張は完全に消え去った。
互いを隔てていた目に見えない壁も、温かな空気の中でゆっくりと溶けていく。
「一つ、聞いてもいいか?」
エデンが尋ねた。
「何についてだい?」
「あの化け物たちは何だったんだ? それに、あの場所は?」
その瞬間――
バルドルは初めて真剣な眼差しをエデンへ向けた。
「君は……本当に知りたいのかい?」
「あ、ああ……」
エデンはごくりと唾を呑み込み、辛うじて答えた。
「実を言うと……」
バルドルは重々しく口を開く。
「私たちにも分からない」
「…………」
「……は?」
「分からないんだ」
「じゃあ、なんでそんな顔したんだよ!?」
「そんな顔とは、どんな顔だい?」
バルドルは至って真剣な表情で問い返した。
「はぁ……ここには馬鹿しかいないのかよ」
エデンは心底うんざりしたように、深いため息を吐く。
「本当かい? どこにいるんだ?」
「……もういい」
そう呟くと、エデンは地面に仰向けになった。
バルドルはそんな彼をしばらく見つめたあと、自分もその隣へ静かに寝転がる。
「あの者たちは、ゴブリンだ」
バルドルが穏やかに説明した。
「ゴブリン?」
エデンはその言葉を繰り返した直後、勢いよく顔を向ける。
「おい、ちょっと待て。さっき、何も分からないって言ってなかったか?」
「そうだったかい?」
「ああ……」
「そうか。まあ、そのことは忘れてくれ」
(こいつと話してると、本当に具合が悪くなってくる……)
エデンは引きつった笑みを浮かべながら、心の中で呟いた。
「ねえ、エデン」
不意に、バルドルが呼びかける。
「私からも一つ、聞いていいかい?」
「え……まあ、いいけど……」
「世界のためなら――」
バルドルは静かな声で尋ねた。
「君は、死ぬ覚悟があるかい?」
「…………」
その瞬間。
バルドルの瞳から、人間らしい光が完全に消え失せた。
両眼は底知れぬ闇に染まり、見る者の魂すら凍りつかせるほど恐ろしく変貌していた。
ゾクッ――!
凄まじい悪寒が、エデンの全身を一気に駆け抜ける。
声を失った彼は、ただ震える唇で呟くことしかできなかった。
「……何、だって……?」




