第17章・3:疑念に包まれた歓迎
生徒たちの瞳には、想像を絶するほどの驚きが宿っていた。
彼らの眼前に広がる光景は、あまりにも荘厳でありながら、息を呑むほど美しかった。
そこに聳え立っていたのは――
時の流れさえも亀裂一つ刻めそうにない、強固な石だけで築き上げられた、巨大にして眩い城壁。
その高さも広がりも、巨人族の目にさえ巨大と映るほど規格外だった。
そして、その城壁は、透き通った清らかな水を湛える九つの大瀑布の上に浮かんでいるかのような王国を、余すところなく取り囲んでいた。
(なんて綺麗なんだ……)
エデンは、その光景に圧倒されながら思った。
「どれだけ時が経っても、この光景は……恐ろしいものね」
アフロディーテは引きつった笑みを浮かべながら認めた。
「何しろ、ここはアースガルズ――アース神族の住まう地なのだから」
その瞬間――
威厳に満ちた、しゃがれた声が響き渡った。
「アカイアより参られた客人たちよ、ようこそ」
オーディンは気品ある仕草で一礼する。
「ノルクへ、よく来られた」
「お久しぶりです、万物の父よ」
アフロディーテもまた、敬意を示すように頭を下げた。
「ご自らお出迎えいただき、光栄に存じます。ただ……正直に申し上げれば、玉座を離れた陛下のお姿を拝見するとは思っておりませんでした」
そう告げた彼女は、静かに顔を上げる。
「ですので、お許しいただけるのでしたら、一つお尋ねいたします」
その声から、先ほどまでの穏やかさが消えた。
「いったい――何を企んでおられるのですか?」
アフロディーテの鋭く毒を孕んだ眼差しが、オーディンの厳格で感情の読めない顔へと突き刺さる。
「どういう意味だ?」
オーディンは、少しも動じることなく尋ね返した。
「陛下がこの場にお姿を見せられること自体、陛下らしからぬことでございます」
アフロディーテは淡々と言葉を続ける。
「それだけではありません。現在の状況を考えれば、私たちの到着に合わせて、これほど大規模な兵力を展開なさったことも不可解でなりません」
そして、改めてオーディンを睨み据えた。
「ですから、もう一度お尋ねいたします」
「いったい――何を企んでおられるのですか?」
(先生、いつの間に言語学の博士号なんて取ったんだ……?)
エデンは、普段とはまるで違うアフロディーテの話し方に困惑していた。
(でも……確かに先生の言うとおりだ)
(ここには何か、おかしなところがある)
エデンは城壁へと視線を移した。
(どうして、あんなに大勢の兵士が城壁の上から俺たちをじっと見張っているんだ……?)
(どうやら、気づいたのは俺だけじゃないらしいな)
シュウは、周囲に立ち並ぶ兵士たちを冷静に観察していた。
(ここへ到着したときから、奴らの視線も言葉も、露骨な敵意に満ちていた)
(まるで俺たちが、招かれざる客であるかのように……)
それだけではない。
そこにいる兵士たちは、一人の例外もなく完全武装していた。
(まるで、いつ大規模な戦いが起きてもいいように待ち構えている……)
シュウの表情が険しくなる。
(少しでも迂闊に動けば――俺たちはここで全員殺される)
(城壁の上にいる者たち……普通の兵士じゃない)
アイザックもまた、兵士たちの異様な雰囲気を感じ取っていた。
(あの視線から伝わってくる冷徹さと、研ぎ澄まされた鋭さ……あれは一朝一夕で身につくものじゃない)
兵士たちは、ただ無言で彼らを見下ろしている。
そこには、恐れも迷いも存在しなかった。
(間違いない……)
(あの者たちは、命令一つで誰かを殺し、自らの命さえ捨てる覚悟を叩き込まれている)
(狂戦士――ベルセルクだ)
「誤解を招いてしまったようだな。すまない」
オーディンは、落ち着き払った声で答えた。
「これは、ただの用心にすぎぬ」
そして、何の警戒も見せずにアフロディーテを見つめる。
「だが、私の言葉がそれほど信じられぬというのなら、遠慮なく心を読めばよい」
「何しろ、それがそなたの得意分野なのだろう?」
「どうぞご安心を、陛下。そこまでする必要はございません」
アフロディーテは穏やかに答えた。
しかし、その口元には鋭い笑みが浮かんでいた。
「何しろ、陛下は嘘をつくのがお上手ですもの」
そして、挑発するように付け加える。
「――そうでしょう?」
…………。
二柱の神の間に漂う緊張は、もはや誰の目にも明らかだった。
互いに浮かべる笑みも、ぶつかり合う視線も、放射能すら凌ぐほどの猛毒を孕んでいる。
だが、そのとき――
張り詰めた空気の中へ、別の声が割って入った。
「ところで、万物の父よ。そろそろ、そちらのお連れの方々をご紹介いただけませんか?」
ヘルメスが落ち着かない笑みを浮かべながら尋ねた。
「そうであったな。失礼した」
オーディンは静かに答える。
「私の右にいるのは、ナイ・ブリクスト。私の孫にして、トールの息子だ」
その言葉を受け、一人の青年が前へ歩み出た。
真剣で力強い眼差し。
鋭く逆立った赤い髪。
そして、透き通る水晶のような空色の瞳。
「お会いできて光栄です」
【ナイ・ブリクスト――ゴールドランク第九位】
(神の息子か……。さすがに、凄まじい威圧感だ)
シュウは、青年が纏う膨大なゼンカを見つめながら、その力を認めていた。
(あれほどの量……尋常じゃない)
「そして、私の左にいるのがサラ・ブリクスト。ナイの妹だ」
今度は、金色の長い髪を持つ少女が一歩前へ出た。
その緑色の瞳は、ひときわ目を引いた。
だが、それは美しく輝いていたからではない。
まったくと言っていいほど――光が宿っていなかったからだ。
まるで、その瞳は――
常人では耐えることすらできない地獄を、すでに見てきたかのようだった。
実際にその地獄を生き抜いた者にしか、決して理解できない何か。
そんな深い闇が、少女の瞳には刻み込まれていた。
(ゼンカ自体は、大したことない)
エデンは一目見ただけで、そう分析した。
(力だけなら、俺との差もそれほど大きくないはずだ)
(でも……何なんだ?)
(こいつからは、何か妙に不穏なものを感じる……)
エデンは、金髪の少女を注意深く観察する。
彼女の内側から感じられるのは、これまで出会った誰とも異なる、奇妙で不可解な気配。
まだ表へ現れてすらいない――
芽吹く前の、未知なる力だった。
「お会いできて、光栄です」
サラは冷たい声で告げた。
【サラ・ブリクスト――ブロンズランク第四十八位】
「今は、余計な問題を起こさないほうがよさそうだな。アフロディーテ」
ヘルメスが彼女の耳元で囁いた。
「チッ……好きにしなさい」
「万物の父よ、滞在中はお世話になります。あらかじめ、お礼を申し上げておきます」
「ハイムダルが、そなたたちを宿泊用の小屋まで案内する」
オーディンは、破壊された馬車へと視線を向けた。
「馬車については、可能な限り早くこちらで修理しておこう」
「では、お任せします」
オーディンが片手を上げ、兵士たちへ合図を送る。
その瞬間、兵士たちは一切の迷いも見せず、アースガルズへの入口を閉ざしていた巨大な門を押し開いた。
ゴゴゴゴゴゴ――ッ!
重厚な音を響かせながら、巨大な門扉がゆっくりと開いていく。
一行はそれぞれの荷物を手に取り、ヘルメスを先頭に、雪と氷に覆われた王国の中へと足を踏み入れた。
しかし――
その地に暮らす者たちは、誰一人として彼らから視線を外そうとはしなかった。
一行の姿が門の向こうへ消えたあと、一人の兵士がオーディンへ歩み寄る。
「陛下、ご命令を」
「一定の距離を保て」
オーディンは、冷徹な声で命じた。
「だが、決して目を離すな。一瞬たりともだ」
「はっ! 承知しました!」
兵士は即座に敬礼し、その場を離れていった。
オーディンは何も言わず、遠ざかっていくエデンの背中を見つめ続けていた。
(異常存在は、本来この世界に存在してはならぬ)
(その存在だけで、自然の摂理を脅かすものなのだから)
そのただ一つの眼が、鋭く細められる。
(そして、お前もまた――その脅威の一つだ)
(エデン・ヨミ)
…………。
一行は、無口なハイムダルに導かれながら、アースガルズの奥へと進んでいった。
先ほどまで張り詰めていた空気など忘れてしまったかのように、生徒たちは目の前に広がる驚異の王国への興奮を隠せずにいた。
立ち並ぶ家々は、どれも独特の美しさを放っている。
虹を砕いた粒子から生み出されたかのような、色鮮やかな水晶。
そして、鏡のように磨き上げられた、眩い黄金の壁。
その輝きは、そこを歩く彼ら自身の姿さえ鮮明に映し出していた。
「それにしても、さっきの言い争いは何だったんだ?」
ヘルメスが尋ねた。
「クソみたいだと思わない?」
愛の女神は苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように答える。
「私たちは死にかけながら、ようやくここまで辿り着いたのよ? それなのに、真っ先に出迎えたのが、まるで犯罪者でも見るような目を向けてくる軍隊だなんて」
「ああ。クソみたいだ」
ヘルメスも、その言葉には同意した。
「だが、ここは奴らの領地だ。迂闊な真似をするわけにはいかない」
「ここへ来る途中で話したことを、もう忘れたのか?」
ヘルメスは声を落として続ける。
「もし俺たちまで捕らえられたら、いったい誰があいつらを守るんだ?」
「お前がオーディンを心底嫌っていることは分かっている。俺だって、できることならあの顔を殴り飛ばしてやりたいさ」
その声に、苦々しさが滲む。
「だが今は、俺たちの命運は奴らに握られているんだ」
アフロディーテは不満げに顔を背けた。
しかし、その直後――
またしても、自分たちを鋭く監視する兵士たちの姿が目に入り、彼女の苛立ちはさらに募った。
…………。
「ハイムダル、一つ聞いてもいいかしら?」
「おい……」
ヘルメスが制止しようと声をかける。
「何だ?」
ハイムダルは歩みを止めることなく、素っ気なく応じた。
「さっきから何なの、この善玉と悪玉を演じる茶番は?」
アフロディーテは、周囲の兵士たちへ鋭い視線を向けた。
「どうして私たちを、そこまで執拗に監視しているの?」
「知らん。興味もない」
ハイムダルは冷たく言い放つ。
「それは、万物の父がお決めになったことだ」
取りつく島もない返答だった。
アフロディーテは奥歯を噛み締めると、低い声で呟いた。
「なるほどね……」
「オーディンは、これほど重要な判断を下すときでさえ、自分の息子たちを信用していないということかしら?」
彼女の口元に、挑発的な笑みが浮かぶ。
「それとも――信用されていないのは、あなただけ?」
「アフロディーテ……!」
ヘルメスが不安げにその名を呼んだ。
ヒュンッ!
次の瞬間――
ハイムダルの姿が、その場から消えた。
そして瞬きをする間もなく、彼はアフロディーテの真正面に立っていた。
その瞳には、剥き出しの憎悪と嫌悪が宿っている。
「言葉を慎め――ギリシアの女神よ」
ハイムダルが低い声で警告した。
だが、まさにその瞬間――
彼の首筋に、冷たい刃が添えられた。
エデンの剣だった。
「お前こそ、態度に気をつけろ」
それでも、ハイムダルは微動だにしなかった。
首元に刃を突きつけられながらも、その視線はアフロディーテだけに向けられている。
「これほど厳重に監視されることを、不思議に思う必要などない」
ハイムダルは、淡々と言葉を続けた。
「何しろ、お前たちは自ら望んで、制御不能な悪魔を仲間に迎え入れたのだからな」
その言葉が、冷たく響き渡る。
「万物の父は、ご自身の王国の安全を守ろうとしているだけだ」
「私もまた――同じだ」
そこでようやく、ハイムダルの瞳がエデンへと向けられた。
「もし、その小僧がアースガルズの安全と調和を脅かすのであれば……」
その声には、一片の迷いもなかった。
「この私が、自ら奴の喉を掻き切る」
エデンの瞳が、鋭く細められる。
「だから、他国の神であるお前たちに忠告しておこう」
ハイムダルは再び、アフロディーテたちへと視線を向けた。
「九つの世界が抱える問題よりも、まずはアカイアの問題を心配することだ」
「これは北欧の神々が対処すべき問題であり、自分たちの国すら守れぬ異国の神々が口を挟むことではない」
「長旅で、皆疲れているんだ。非礼を詫びよう」
ヘルメスが穏やかな声で割って入り、ハイムダルの肩へ手を置いた。
「そろそろ、俺たちの宿へ向かったほうがいいんじゃないか?」
そう告げながら、ヘルメスはエデンへ視線を送る。
その意図を察したエデンは、迷うことなく剣を鞘へ収めた。
「……確かに、そのとおりかもしれんな。神々の使者よ」
ハイムダルも、一歩後ろへ下がった。
「我々全員、少し頭を冷やすべきだろう」
彼が周囲へ目を向けると、兵士たちはすでに武器を構え、いつでも襲いかかれる体勢を取っていた。
ハイムダルが片手で合図を送る。
ただそれだけで、兵士たちは一斉に武器を収めた。
———————
それから数分が過ぎ――
一行はようやく、自分たちにあてがわれた小屋へと辿り着いた。
そこで案内役のハイムダルと別れ、それぞれの道を分かつ。
「すみませんでした!」
小屋へ入るなり、エデンは深く頭を下げた。
その声には、心からの後悔が滲んでいる。
「どうしてお前が謝るんだ?」
ヘルメスが不思議そうに尋ねた。
「俺……頭に血が上って、みんなを危険にさらしてしまいました。本当にすみません」
「気にするな。謝る必要なんてないさ」
ヘルメスは穏やかな声で答える。
「自分の先生を守ろうとしたんだろ? それは決して間違ったことじゃない」
そして、少しだけ笑みを浮かべた。
「俺がお前と同じ立場でも、きっと同じことをしていたさ」
「でも……」
「むしろ、謝るべきなのは別の誰かさんだと思うけどな」
そう呟きながら、ヘルメスは愛の女神へと視線を向けた。
「それはお断りよ」
アフロディーテは即座に言い放つ。
「まったく……子供みたいな奴だな」
ヘルメスは小さく笑いながら呟いた。
「ただし、こういうことがあったときくらいは、大人を頼ってほしい」
今度は真剣な眼差しで、エデンへと告げる。
「何も悪いことが起きないようにするのは、俺たちの役目だからな」
「は、はい……」
エデンは戸惑いながらも、素直に頷いた。
「それに……認めるのは癪だが、アフロディーテは最後にハイムダルから少しだけ情報を引き出してくれた」
ヘルメスはどこか得意げな笑みを浮かべる。
「間違いなく、この場所では何か大きなことが起きている」
その表情から、ゆっくりと笑みが消えていった。
「九つの世界すべてを巻き込むほどの――何かがな」
(あの冷徹な老いぼれを苛立たせるほどの、大きな何かが……)
ヘルメスは静かに目を細めた。
(教えてみろ、オーディン)
(お前はいったい――何を隠している?)
…………。




