第17章・2:片道だけの旅
目の前で過去と現在、そして未来が交錯していくなか――
二柱の神は、この旅を取り巻く一連の出来事について、思いを巡らせずにはいられなかった。
「どうしたんだ、アフロディーテ。何だ、その顔は?」
ヘルメスが尋ねた。
「何のこと? 私はいつもと同じ顔だけど」
「誤魔化すなよ。何か気がかりなことがあるのは、見れば分かる」
「あなたには関係ないわ」
「そう言うなって。俺たちはもう長い付き合いだろ? それに、俺たちの間には何人も子供がいる。君のことなら嫌というほど分かってるさ」
そこまでしつこく食い下がられ、アフロディーテは深い溜息を吐いた。
「本当にしつこいわね……」
「へへっ、しつこさは俺の専門分野だからな」
ヘルメスは満面の笑みを浮かべて答えた。
「別に、何かを心配しているわけじゃない。ただ……何もかもがおかしいと思っているだけよ」
「おかしい? この旅のことか?」
「旅だけじゃない。大会も、対戦カードの決まり方も……全部よ。何もかもがおかしい」
「情報が漏れないようにしたかった、というのは分かる。だが、まるで……」
「誰かが、自分の望んだ場所に駒を配置したみたいだ――って?」
「そう、それよ!」
アフロディーテは強く頷いた。
「ノルク王国では、何かおかしなことが起きているという噂まで流れている。そのうえ、よりによって私たちがそこへ送られるなんて……ずいぶん都合のいい偶然よね」
そして、不満を隠そうともせずに続けた。
「そのあと、この件についてシュンに尋ねようとしたら、『自分の仕事だけに集中しろ』って言われたの。まるで私が、ただの邪魔者みたいに……」
「今まで一緒に働いてきた時間を、全部忘れたとでもいうの?」
アフロディーテは顔をしかめ、不満げにこぼした。
そのどこか無邪気な表情を見て、ヘルメスは穏やかな笑みを浮かべる。
「何がおかしいのよ?」
「いや、何でもない」
ヘルメスは笑いを漏らしながら答えた。
「ただ、本当のアフロディーテを見るのは久しぶりだと思ってさ」
「まったく……本当に驚いたよ」
「……その口を閉じなさい」
――――――
「なあ、この大会の一件をおかしいと思っているのは、君だけじゃない」
ヘルメスは声を落として告げた。
「この体制が、ブラック・ライツを前に弱みを見せるわけにはいかない。それは分かる」
「でも……だからといって、生徒たちを危険に晒すところまでやるのは、さすがに行きすぎよ」
「……ああ」
だが、まさにその瞬間――
一つの言葉が、まるで警告のようにアフロディーテの脳裏に蘇った。
「勝つためには、すべてを犠牲にしなければならない……」
アフロディーテは困惑を滲ませながら、小さく呟いた。
「その言葉……」
「ええ……シュンに言われたの」
「……あの野郎。勝つためなら、いったいどこまで犠牲にするつもりなんだ?」
「違うわ。シュンはそんな人じゃない」
「自分に言い聞かせて誤魔化すな、アフロディーテ」
ヘルメスの声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「俺たちは二人とも知っているだろ。本当のシュンが何者なのか――誰も知らないってことを」
「あいつは、支配するために生み出された怪物だ」
「俺たちを神として見てすらいないだろう。あいつにとって俺たちは、盤上の駒でしかない」
「今の俺たちにできるのは、あの子たちを守ることだけだ」
ヘルメスはそう告げた。
「あの子たちに何かが起きるのを防げるのは、俺たちしかいない。たとえ、そのために命を落とすことになっても」
「ええ……」
(やはり、何かがおかしい……)
(私には見えていない何かが、まだ隠されている)
(シュン……あなたは、いったい何を企んでいるの?)
疑念は瞬く間に馬車の中へと広がり、三人の若者たちはそれぞれ物思いに沈んでいた。
「一つ、聞いてもいいか?」
エデンが窓の外から視線を外さないまま、声を上げた。
「どうした?」
シュウが尋ね返す。
「お前らは、どうして俺と一緒に来るなんて決めたんだ?」
エデンは静かに問いかけた。
「あの日にも理由は聞いた。けど、本当にそれだけで、ここまで来たのか?」
「どうして今さらそんなことを聞く?」
「この旅が何を意味しているのか、お前らが本当に分かっているのか、確かめたいだけだ」
「僕は……」
緊張した様子で、アイザックが口を開いた。
「僕は、エデンが羨ましかったんだ」
「俺が?」
「うん……。周りにどう思われるかも恐れず、自分の気持ちを叫ぶ君を見て、そう考えずにはいられなかった」
アイザックは胸の内をさらけ出すように、言葉を続ける。
「どうすれば僕も、君みたいになれるんだろう――って」
「僕はこれまでずっと、自分が望むもののために戦うことすらできない臆病者だった」
俯きながら、両手を強く握り締めた。
「父さんと違って、僕は何があっても折れない戦士なんかじゃない。自分では乗り越えられそうにない壁を前にすると、何度も足が震えた……」
「でも、この前――」
アイザックは顔を上げ、エデンをまっすぐに見つめた。
「傷だらけになりながら、それでも堂々と立ち続けていた君を見て、思ったんだ」
「僕がなりたいのは、こういう人なんだ――って」
その声は震えていた。
だが、そこに迷いはなかった。
「もう、不甲斐ない自分のままではいたくない」
「強い人間になりたい。自分が望むものや愛するもののために戦わなかったことを、後悔せずに済むような人間になりたいんだ」
「アイザック……」
シュウが驚いた様子で、その名を呟いた。
「あれだけ内気なのに、なりたい自分ははっきり見えてるんだな」
エデンはわずかに微笑んだ。
「そういうところは、素直に尊敬する」
「ただ――」
その笑みを残したまま、静かに言葉を続ける。
「お前には、俺みたいな人間にだけはなってほしくない」
「今のままでいろ。お前の力は、そこにあるんだから」
「あ、ありがとう……」
「さて――」
エデンは悪戯っぽい笑みを浮かべ、隣にいる少年へと視線を移した。
「お前はどうなんだ、シュウ?」
「お前には関係ない」
「いいだろ、いいだろ。ここには気心の知れた奴しかいないんだぞ?」
エデンはますます楽しそうに笑う。
「それとも、恥ずかしいのか?」
「やかましい。黙れ」
「僕も聞きたい!」
アイザックが期待に目を輝かせながら身を乗り出した。
「なんだ、そのキラキラした目は……?」
シュウは二人を交互に見つめ、うんざりしたように顔をしかめる。
「まったく……お前ら二人、本当にしつこいな」
「自業自得だろ?」
エデンは肩をすくめながら答えた。
…………。
不意に、シュウの眼差しが冷たく、物悲しいものへと変わった。
両手の指を固く絡ませ、静かに口を開く。
「俺は……出来損ないなんだ」
「大勢の人が、俺に大きな期待を寄せている。天才だと呼ぶ奴だっている……」
シュウは俯き、自嘲するように言葉を続けた。
「でも、あの夜……俺は思い知らされた。自分が本当は、どれほど弱い人間なのかを」
「俺には何もできなかった……。何が起きたのか理解することさえできないまま、周囲から響く助けを求める叫びを聞いていることしかできなかった」
「それでも、どうにか意識だけは繋ぎ止めようとした。けど……身体がまったく動かなかった」
絡めた指に、さらに強い力がこもる。
「そのときだ……。あのフードを被ったクソ野郎の一人が、笑いながら生存者の喉を切り裂いた」
シュウの声が、微かに震えた。
「その人は、瓦礫の中に倒れていた俺を見つけた。自分の命を繋ぎ止めるだけで精いっぱいだったはずなのに……」
「最期の力を振り絞り、奴らに俺の存在を気づかせないために、わざと視線を逸らしてくれたんだ」
一つ一つの言葉が、胸の奥に突き刺さっていく。
「あの人には、神のような力なんてなかった。それでも、俺なんかよりずっと勇敢だった」
「何もできなかった俺を責めることだってできたのに……あの人は、俺を守ることを選んだ」
シュウは、唇を強く噛み締める。
「この俺を……半神である、俺なんかを……」
「シュウ……」
「あの夜、何もできなかったのは俺たち全員だ」
エデンが、力強い声で告げた。
「オリビオとシュンがいなかったら、俺たちは今ここにいない」
シュウへ向けられた灰色の瞳に、確かな決意が宿る。
「俺たちは全員、失敗した。だからこそ――戦わなきゃならないんだ」
エデンは拳を固く握り締めた。
「俺はもう、誰かに俺たちの代償を払わせたりしない」
「あのクソ野郎どもが俺を欲しがってるなら、この俺が相手になってやる」
その声には、冷たい殺意が滲んでいた。
「一人残らず殺す。跡形も残さない」
「たとえ――この命を失うことになっても」
「エデン……」
二人は、呆然とその名を呟いた。
…………。
ズドォォォォン――ッ!!
凄まじい轟音が響き渡り、馬車全体が激しく揺さぶられた。
「な、なんだ今のは!?」
シュウが叫ぶ。
だが、彼らの意識はすぐさま別のものへと向けられた。
「ぐあああああああああっ!!」
エデンが引き裂かれるような絶叫を上げ、床の上で激しくのたうち回り始めた。
「エデン!」
「何が起きているの、ヘルメス!?」
「分からない! こんなことは今まで一度もなかった!」
ヘルメスは動揺を隠せないまま答えた。
「まるで、リンクが完全に暴走しているみたいだ!」
馬車がさらに激しく揺れ始める。
その周囲を、緑と紫の雷が嵐のように駆け巡り、瞬く間に辺り一帯を呑み込んでいった。
(クソッ……いったい何なんだ、これは……!?)
ヘルメスは馬車に必死でしがみつきながら、心の中で吐き捨てた。
馬車の中では、事態が刻一刻と悪化していた。
「おい、エデン! 何が起きてるんだ!?」
「がああああああああああっ!!」
「駄目だ……僕たちの声が、まったく届いてない……」
アイザックが青ざめた顔で呟く。
エデンの全身に血管が浮かび上がり、その瞳は異様に痙攣しながら、次第に白目を剥いていった。
「エデン! エデン! 返事をしろ!」
しかし、どれほど呼びかけても無駄だった。
少年の精神は、すでに完全に砕け散っていた。
その脳裏を、無数の光景と声が駆け巡り始める。
未知なる過去から、不確かな未来まで――
それらはまるで、時を越えてエデンを呼び続けているかのようだった。
彼に囁きかける、血のように赤い泉。
『お前は、ただの鍵にすぎない』
これ以上ない愛の証として、一つに溶け合う二振りの剣。
『あとは、お前に託す』
そして、彼の目の前に立つ一人の男。
どこか懐かしい。
それなのに、まるで知らない。
その眼差しには、この世で最も眩い光と、最も深い闇が同時に宿っていた。
そして、その男は憎悪に顔を歪め、声の限りに叫んだ。
『俺はあいつじゃない……』
『だから――俺はお前が憎いんだ!!』
…………。
「全員、しっかり掴まれぇぇぇっ!!」
ヘルメスは叫ぶと、手綱を力の限り握り締めた。
そして馬車を強引に横へ急旋回させ、直撃寸前まで迫っていた強烈な雷撃を紙一重で躱す。
(ここで一か八かに賭けるしかない……!)
(このままここにいたら、俺たちは全員、死ぬ可能性が高い!)
「リンクッ!!」
その叫びと同時に、彼らの正面へ巨大な門が出現した。
「行っけええええええええええっ!!」
ズガァァァァン――ッ!!
強烈な雷撃が馬車を直撃し、その屋根を木っ端微塵に吹き飛ばした。
それでも馬車は、間一髪のところでリンクを抜け切った。
ギィィィィィィィッ!!
ヘルメスは必死に手綱を引き絞り、岩だらけの道へ強引に馬車を着地させる。
凄まじい衝撃によって馬車は地面を抉りながら暴走し、道の大部分を破壊した末――突如として動きを止めた。
ドンッ!
ヘルメスの呼吸は、これまでにないほど重かった。
その顔からは、滝のような汗が流れ落ちている。
かつての壮麗な姿を誇った馬車は、今や砕けた木片の山と化していた。
それでも――
誰一人として、命を落としてはいなかった。
「俺たち……助かったのか?」
シュウが状況を呑み込めないまま呟いた。
「クソッ……いったい何だったんだよ、今のは……」
エデンは力なく言葉を漏らす。
「エデン、大丈夫!?」
「たぶん……」
「みんな、怪我はない!?」
アフロディーテが不安に満ちた声で尋ねた。
「なんとか……」
シュウが疲れ切った様子で答える。
「よかった……」
(クソッ……あんなもの、初めて見たぞ)
ヘルメスはエデンへと視線を向けた。
(これが……あいつのそばにいる代償だとでもいうのか?)
…………。
だが、まさにそのとき――
威厳に満ちた、しゃがれた声が辺りに響き渡った。
「ずいぶんと派手な登場ではないか――アカイアの者たちよ」
その声に、全員が一斉に振り返る。
そこに立つ男の姿は、あまりにも特徴的で、見間違えようがなかった。
長く垂れ下がる灰色のローブ。
鋭く尖った帽子。
そして――この世のあらゆる叡智を宿しているかのような、ただ一つの眼。
「ようこそ、雪の大地へ」
オーディンは、重々しく告げた。
「ノルクへ――よく来た」




