第16章・3:弟子と師
日々は、静かに過ぎ去っていった。
アテネは少しずつ、
瓦礫と痛みの中から立ち上がり始めていた。
神々と人間たちの力によって、
街は徐々に機能を取り戻していく。
だが――
人々が再び歩き始めたとしても、
あの夜の傷が心から消えることはなかった。
……
病室に差し込む淡い光が、
エデンの真剣な横顔を静かに照らしていた。
彼は椅子に座ったまま、
眠り続けるオリヴィオの姿を見つめている。
「……ごめん」
エデンは歯を食いしばりながら呟いた。
「もし俺がお前たちの前に現れなかったら……」
「お前は、こんな姿にならなかったのに」
「俺なんか、ただ突然お前たちの人生に現れただけの赤の他人なのに……」
「なんで命まで懸けられたんだよ……」
「……どうして……」
……
「お前の話を聞いてると、こっちまで落ち込むんだが」
低く、それでいて気品のある声が病室に響いた。
「……シュン?」
エデンは驚いたように振り返る。
「どうしてここに?」
「もう出発したと思ってた」
「まだ少し用事が残っていてな」
シュンは静かに答えた。
「……そっか」
エデンは唇を舐める。
言葉を探すように。
そして拳を握り締めながら、
小さく口を開いた。
「……ごめん」
「どうして謝る?」
「俺のせいでオリヴィオはあんな状態なんだ」
「もし俺がここに来なければ、あいつは無事だった」
「……どうして、それが本当だと言い切れる?」
「だって、この混乱全部……俺のせいだから」
その言葉を聞き、
シュンは小さく息を吐いた。
「お前がここにいなかったとして、結果が変わっていたかなんて分からない」
「俺たちに分かるのは、“実際に起きたこと”だけだ」
「別の世界では違う未来があったかもしれない」
「だが、ここはその世界じゃない」
シュンは静かに続ける。
「それに、俺に謝る必要はない」
「お前をここへ連れてきたのは俺だ」
「危険を承知の上でな」
「だから謝るべきなのは、お前じゃなく俺の方だ」
「……シュン」
「だが、一つだけはっきり言っておく」
シュンの視線がエデンへ向けられる。
「オリヴィオがお前のために命を懸けたのは――」
「お前を大切に思っていて、信じていたからだ」
エデンは目を見開いた。
だが、返す言葉が見つからない。
シュンは苦笑混じりに肩を竦める。
「だから、いい加減そんな陰気な顔をやめろ」
「その顔じゃ、オリヴィオが悪夢を見る」
「今の俺たちにできることは、あいつを信じることだけだ」
「俺たちを信じてくれたみたいにな」
シュンはどこか寂しげに微笑んだ。
「大丈夫だ」
「あいつは、誰より強い男だからな」
そして病室の扉へ向かいながら言う。
「そろそろ静かに休ませてやろう」
「さすがに“落ち込みエデン”にはもう十分付き合っただろ」
その言葉に、
エデンは思わず小さく笑った。
「……うん」
「少し外の空気でも吸いに行くか、エデン」
……
師弟は夕焼けに染まる美しい街を、静かに歩いていた。
その周囲には、
あの恐ろしい夜が残した傷跡が至る所に刻まれている。
壊れた家族。
崩れ落ちた家々。
砕けた夢。
それでも――
この街は笑うことをやめなかった。
「……GODSでの生活はどうだ?」
シュンが何気なく尋ねる。
「え?」
「お前から届いた手紙、全部読んだ」
「楽しんでいるように見えたぞ」
「……まあ、そんな感じかな」
エデンは少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「認めるのは悔しいけど、この場所に来たからこそ出会えた人たちがいる」
「前のままだったら、絶対会えなかったような奴らに」
彼は少しずつ言葉を続けていく。
「シュウは本物の天才だよ」
「この世界のことも、色々教えてくれた」
「ユキは……性格は最悪だけど」
「戦い方を教えるのは本当に上手い」
「ロワには、自分の限界についてたくさん教わった」
「それにヴァイオレットと出会って、自分自身のこととか……」
「他人の感情を少し理解できるようになった気がする」
弟子の言葉に宿る熱を感じ取り、
シュンは静かに微笑んだ。
「たぶん……」
エデンは空を見上げる。
「GODSに来なかったら、自分の強さも弱さも理解できなかったと思う」
「でも……」
その声が少し沈む。
「楽しいって思ってても、やっぱりじいちゃんのことを忘れられない」
「最後に会ってから、もうすぐ一年になる」
「やっと居場所の手掛かりを見つけたのに……」
「俺、怖くて動けなかった」
「本当に……情けないくらい臆病だよ」
……
「……臆病?」
シュンが静かに聞き返す。
「うん……」
「お前、自分が誰なのか忘れたのか?」
エデンは目を瞬かせた。
シュンは真っ直ぐ前を向いたまま話し続ける。
「一年前までのお前は、ただの十六歳のガキだった」
「祖父と平凡な日々を過ごしていた普通の少年だ」
「サッカーの試合やテスト相手に悩んでいたようなな」
「そんな奴が突然――」
「神クラスの怪物たちと戦う世界に放り込まれた」
シュンは静かに問いかける。
「普通の人間なら、どうしていたと思う?」
「……分からない」
「即座に諦めていた」
シュンは迷いなく言い切った。
「だから二度と、自分を臆病者なんて言うな」
「お前はその真逆だ、エデン」
「ヨゲンを前にしても」
「奈落の縁に立たされても」
「全部を失いかけても――」
「お前は奴の言葉に屈しなかった」
「最後まで抗ったんだ」
「……シュン」
シュンは小さく肩を竦める。
「俺は学者じゃないから、“勇気”の正確な定義なんて知らん」
「だが、少なくとも――」
「俺が見たものは、それに一番近かった」
エデンは呆然とその言葉を聞いていた。
そして次の瞬間、
シュンはいつもの調子で続ける。
「まあ、センスはないし」
「顔もそこまで良くない」
「救いようのない馬鹿かもしれんが」
「少なくとも、臆病ではないな」
「……もっと素直に褒めてくれてもよくない?」
エデンは苦笑混じりに言う。
「調子に乗るだろ、お前」
その言葉に、
二人は思わず笑い合った。
それは、
どこか心を軽くしてくれるような、
温かい笑いだった。
そして師弟は、
夕暮れの街を再び歩き始めた。
――――
二人は細い路地を抜けながら歩き続け、
やがてアテネの外れへと辿り着いた。
その先に広がっていたのは、
花々が咲き乱れ、
小動物たちが駆け回り、
小さな小川が静かに流れる美しい草原だった。
「……シュン、ひとつ聞いてもいいか?」
「なんだ?」
エデンはその景色から目を離さないまま尋ねる。
「どうして“英雄”になろうと思ったんだ?」
その問いに、
シュンは少しだけ目を細めた。
「さあな……」
「もう、とっくに忘れた」
彼は軽く笑う。
「あの剣を継ぐと決めた理由なんて」
あまりにもあっさりした返答に、
エデンは完全に面食らった。
「……本気で言ってる?」
「ああ」
「じゃあ、なんで今もその剣を持ち続けてるんだ?」
エデンは真っ直ぐ彼を見る。
「シュンが“英雄”って肩書きを嫌ってるのは分かる」
「周りの見方だって嫌ってる」
「それでも前へ進み続けるのは、どうしてなんだ?」
シュンは静かに空を見上げた。
「俺は、生まれた時から全部持っていた」
「家族も、愛も、富も、力も」
「何一つ不自由したことがない」
「だって俺は、“光の祝福”を受けて生まれたからな」
「“予言の子”なんて大層な肩書き付きで」
彼は苦く笑った。
「……だが、すぐに理解した」
「この世界が、どれほど残酷かを」
シュンの瞳が少しだけ曇る。
「俺の兄は、家族から酷く扱われていた」
「何か間違えたわけでもない」
「悪いことをしたわけでもない」
「ただ、“弱い”と思われた」
「血筋の恥だと見なされた」
エデンは黙って聞いている。
「その時、気づいたんだ」
「俺の世界は――」
「俺だけのために作られた“黄金の檻”だったってな」
風が静かに吹き抜ける。
「だから選ばなきゃならなかった」
「目を逸らして、“世界とはそういうものだ”と諦めるか」
「それとも、この力で世界を変えるために戦うか」
エデンは静かに尋ねた。
「……後悔してないのか?」
シュンは少しだけ考える。
「まだ分からない」
「もしかしたら、あの時の選択に意味なんて無かったのかもしれない」
「それでも、最後の瞬間まで戦い続けるつもりだ」
エデンは苦笑した。
「……やっぱりシュンってすごいよ」
「俺なら、そんな風に決断できない」
「いつも正しい答えを選んでるように見える」
その言葉に、
シュンは小さく首を振った。
「勘違いするな、エデン」
「俺だって、自分の選択が正しいかなんて分からない」
「所詮、ただの人間だ」
「……それでも」
彼は真っ直ぐ前を向く。
「自分が選んだものだけは信じている」
「愛した女も」
「信じると決めた相手も」
「自分で選んだ道もな」
「もしかしたら、死ぬ瞬間になって」
「全部間違いだったと気づくかもしれない」
だが次の瞬間、
彼の視線は、
遠くで笑い合う家族へ向けられた。
「でもな――」
「ああいう笑顔を守れた時だけは」
「ほんの少しだけ、“間違ってなかった”と思えるんだ」
「……シュン」
シュンは苦く笑った。
「正直に言えばな」
「俺は、自分が背負ってる重さをちゃんと理解してる」
「だから毎晩思うんだよ」
「いっそ英雄なんて辞めた方が楽なんじゃないかってな」
彼は静かに目を閉じる。
「……それでも」
「今、この痛みを背負えるのは俺だけだ」
「崩れずに歩き続けられるのも、たぶん俺だけなんだ」
その笑みは、
どこまでも優しく、
そしてどこまでも寂しかった。
エデンは、
そんな師の不器用な弱さを前にして、
小さく口を開いた。
「……ごめん」
シュンは片眉を上げる。
「急にどうした?」
エデンは少しだけ視線を落とした。
「ブラックライツがアテネを襲ったあの日……」
「俺、最低だった」
「言わなくていいことまで言ったし」
「あの時は、心の中が怒りでいっぱいだった」
「ただ、“あいつらを許せない”って、それしか考えられなかった」
夕陽が二人を静かに照らす。
「……でも」
「その時のお前が、どれだけ苦しんでたのか」
「俺は全然見えてなかった」
「自分だけが苦しいと思い込んでた」
「ただのガキだったんだよ……」
その言葉を聞いたシュンは、
ぽかんとした顔を浮かべた。
「……へえ」
「なんだよ」
「お前、自分の非を認められるようになったのか?」
「本当にエデンか?」
「はぁ!? お前バカか!?」
エデンは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「せっかく謝ってるのに笑うな!」
「まあまあ、そんな怒るなって」
シュンは肩を揺らして笑った。
エデンは呆れたようにため息をつく。
「……時々、本気でお前ってバカだと思う」
――――
二人は顔を見合わせ、
次の瞬間、
堪えきれずに笑い出した。
長い闇と痛みの果てに、
二人はようやく、
どんな勝利よりも価値のある小さな光を見つけていた。
シュンは笑いながら、
エデンの髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。
「やめろって!」
「……ありがとな、エデン」
「なんでお前が礼言うんだよ?」
「少し肩の力を抜きたかったんだ」
「お前みたいに、俺に遠慮しないバカは貴重だからな」
「それ褒めてるのか?」
「さあな」
シュンは笑う。
「……でも今は、まだ戦える気がする」
その笑顔は、
夕陽よりもずっと温かかった。
エデンは軽く拳を握り、
シュンの胸を小さく叩く。
「もう一人で戦うなよ」
「絶対にだ」
――――
「悪いけどな、俺はお前よりハエの方が頼りになると思ってる」
「おい! 今くらい俺を主人公にさせろよ、このバカ!」
「だってお前、本当にうるさいし」
「殺す!!」
エデンは叫びながら蹴りを放つ。
シュンは楽しそうに笑い、
軽く構えを取った。
「できるならな」
エデンは迷いなく飛び込み、
二人はそのまま拳を交え始めた。
だがそこにあったのは、
責任でも、
憎しみでも、
痛みでもない。
ただ、
心からの笑顔と幸福だった。
夕焼けの下、
師と弟子は笑いながら戦い続ける。
その顔に浮かぶ笑みは、
どんな凍てついた心さえ溶かしてしまいそうなほど暖かく、
そして――
世界さえ照らせるほど眩しかった。




