第15章・6:手を汚せる唯一の存在
……。
静寂が、ゆっくりとその広間を覆っていく。
神々は一柱、また一柱と、
振り返ることなくその場を後にした。
そして最後に残ったのは――
エスカトスとシュン、たった二人だけだった。
二人の視線はあまりにも対照的だった。
エスカトスの瞳は賢者のような穏やかさを宿し、
シュンの瞳には隠しきれない憎悪が燃えている。
「ようやく二人きりになれたな、シュン」
王はどこか嬉しそうに微笑む。
しかしシュンは答えない。
ただ鋭い眼差しで彼を睨み続けていた。
「おいおい、そんな怖い顔をするな」
エスカトスは肩を竦める。
「長い付き合いじゃないか。少しくらい優しくしてくれてもいいだろう?」
「……俺たちは友達じゃない」
「ひどいなぁ」
エスカトスは胸に手を当て、
わざとらしく傷ついた表情を浮かべた。
「そんなことを言われると、私の小さな心が傷ついてしまう」
「お前のその毒に塗れた偽善が吐き気を催すほど嫌いなんだよ、エスカトス」
その言葉を受けても、
王の笑みは崩れない。
「何がそんなに気に食わない?」
「最初から、お前の言葉には強い憎しみが混じっている」
「……別に何も」
「誤魔化すな」
エスカトスは静かに笑う。
「お前のことは誰よりも知っている」
「ここにはもう誰もいないんだ」
「吐き出してみろ。私への憎しみを全部」
その言葉に、
シュンはしばらく黙ったまま彼を見据えた。
そして低い声で問いかける。
「……最初から分かっていたんだろ」
「今回のことが起きるって」
その瞬間、
エスカトスの口元がわずかに歪む。
「……さあ、どうだろうな」
「どうして止めなかった」
シュンの声に怒気が混じる。
「どうして何もしなかった!」
「なぜ止める必要がある?」
「お前は王だろうが!!」
シュンの怒号が広間を震わせた。
だがエスカトスは、
まるで意に介さない。
「だから?」
「何千人も死んだんだぞ、エスカトス!!」
「何百もの家族が、お前が救いに来るのを待ちながら死んでいった!!」
「それなのにお前は……!」
「まるで不要な駒でも見るみたいに、ただ見殺しにした!!」
シュンの拳が震える。
「そんな大量の血を見ても、何も感じないのか!?」
数秒の沈黙。
そして王は、
あまりにも淡々と答えた。
「勝利のためなら、安い犠牲だ」
. . .
エスカトスのその冷酷で無関心な言葉を聞いた瞬間、
シュンの感情は完全に爆発した。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇッ!!」
怒号と共に、
シュンはエスカトスへと突進する。
その怒りは凄まじく、
王の身体を迷いなく玉座へ叩きつけた。
轟音と共に玉座が軋む。
シュンの瞳には抑えきれない激情が燃えていた。
「全部分かってたんだろ!!」
「なんで俺に言わなかった!?」
「もしかしたら俺は――」
だがエスカトスは、
その言葉を遮るように静かに問い返した。
「もし私が、お前に全てを話していたら」
「お前はどうしていた?」
「止めてたに決まってる!!」
「……それで?」
「は……?」
シュンの怒気を真正面から受けながらも、
エスカトスは穏やかな手つきで、
自分の服を掴むシュンの手を外した。
そして静かに彼の目を見つめながら問う。
「お前は、一度でも冷静に考えたことがあるのか?」
「私がなぜ、あの選択をしたのかを」
「俺は……」
「私がここへ来てから見たものは」
「感情に振り回されている“英雄”の姿だけだ」
その言葉に、
シュンは言い返せない。
「お前があの少年を守りたい気持ちは理解している」
「だが、いずれ彼は一人で歩かなければならない」
「お前が永遠に守ってやれるわけじゃないんだ、シュン」
「……分かってる」
シュンは苦しそうに呟く。
「でも……あいつをあんな場所へ送るなんて……」
「もし彼が祖父を取り戻したいのなら」
エスカトスは静かに続けた。
「強くならなければならない」
「お前では助けられない壁を、自分自身で越えなければならない」
「本当に危険から遠ざけることが、彼のためになると思うか?」
「それは……」
答えられなかった。
シュンはただ、
自らの誇りを噛み殺すように視線を落とした。
そんな彼を見下ろしながら、
エスカトスは静かに口を開く。
「……今回の件は」
「私の疑念を確信へ変えるための計画でもあった」
「……何の話だ?」
シュンが眉をひそめる。
するとエスカトスは、
一切の迷いなく告げた。
「評議会の中に、“Black Lights”の協力者がいる」
その瞬間、
シュンの身体が完全に凍りついた。
「……なっ……」
「長い間、我々は疑っていた」
「アケイア内部に潜入者がいることをな」
「神々の中にすら」
エスカトスは淡々と続ける。
「だが、それでも不可解だった」
「なぜBlack Lightsが、評議会しか知らない区域へ正確に侵入できるのか」
「奴らの襲撃は、評議会のみがアクセス可能な拠点へ集中していた」
「円卓ですら知らない場所だ」
「十二家ですら入れない区域にもな」
シュンはすぐに反論する。
「……それだけで決めつけるのは早い」
「情報を盗まれた可能性だって――」
「神の眼を欺けるほど」
エスカトスの声が低くなる。
「歪み切った魔術制御を持つ者など、そう多くはない」
広間の空気が一気に重く沈んだ。
シュンは息を呑み、
ゆっくりと問いかける。
「……誰だ」
エスカトスは迷いなく答えた。
「ドレイク・ドラグニル」
「第十二師団団長だ」
その名前を聞いた瞬間、
シュンの瞳が大きく見開かれた。
「……そんなはずは……」
シュンの声がわずかに震える。
エスカトスは静かに続けた。
「奴の死体からは、“Zenka”の痕跡が一切検出されなかった」
「それに、あの施設から奪われたものが、今回の襲撃の手掛かりにもなった」
「……何を盗まれた?」
「アテナイ周辺都市、そして首都そのものの詳細な設計図」
「加えて、神々に関する機密情報だ」
その言葉に、
シュンの表情が険しくなる。
「今回の襲撃は、偶然など一つも存在しない」
「全てが徹底的に計算されていた」
エスカトスは淡々と語る。
「奴らは、現場に現れる可能性のある者たちの能力を全て考慮していた」
「そして、お前を最も遠ざけるために」
「わざわざアステカ王国へ飛ばした」
「それは……」
シュンは言葉を失った。
「シュン」
エスカトスの声が低く響く。
「もうこれ以上、“評議会”に疑念を植え付けられてはならない」
「全てを根本から断ち切る必要がある」
シュンは苦しげに目を細めた。
「……お前、自分が何を俺に求めてるのか分かってるのか?」
「分かっている」
エスカトスは即答する。
「だからこそ、お前に頼むんだ」
「……なぜ俺なんだ」
その問いに、
王は静かに答えた。
「お前だけだからだ」
「血に手を染めても、なお前へ進めるのは」
シュンはゆっくりと、
自分の両手へ視線を落とした。
その手からは、
錆びついたような血が絶え間なく滴り落ちている。
どれだけ拭おうとも、
二度と綺麗には戻らないほどの血。
そして、
自分が背負う剣の重みを理解した彼は、
かすれた声で問いかけた。
「……俺は、何をすればいい」
その瞬間、
エスカトスの瞳には、
世界すら呑み込みかねない闇が宿った。
「最後の瞬間まで待て」
「奴が、“誰にも勝利を奪われない”と確信した、その時を」
「その瞬間――」
「迷わず殺せ」
シュンはなおも迷いを滲ませながら問い返す。
「……なぜ俺が、そんなことを」
するとエスカトスは、
あまりにも静かに答えた。
「それが“英雄”の義務だからだ」
「その剣を持つ者の、宿命だ」
シュンはゆっくりと、
白き刃を持つ長剣を抜き放った。
その刀身に映っていたのは――
血に濡れた、あの笑顔。
あの時、
その剣を託しながら言われた言葉。
――『その笑顔で世界を照らせ、英雄』
……。
懐かしさ。
責任。
悲しみ。
その全てを抱えたまま、
シュンは静かに剣を鞘へ収める。
そして何も言わず、
ゆっくりとその場を後にした。
だが、
扉を越える直前、
彼は振り返ることなく問いかける。
「……あいつの祖父が誰なのか」
「最初から知ってたんだろ」
「こうなることも、全部」
「……ああ」
エスカトスは迷いなく答えた。
……。
「全部終わったら」
シュンは強く歯を食いしばりながら呟く。
「この手で、お前を殺す」
その言葉を聞いた王は、
どこか嬉しそうに笑った。
「楽しみにしているよ、シュン」
こうして、
数え切れない迷いを抱えた英雄は、
血と痛みに満ちた役目を受け入れた。
たとえその道で、
自分自身を失うことになろうとも。
少しずつ心を奪っていった、
あの弟子だけは守るために。
そして、
たとえ自分が倒れたとしても――
あの呪われた少年の心の奥底には、
すでに小さな炎が灯り始めていた。
やがて世界そのものを焼き尽くす、
運命の炎が。




