第15章・2:一人の男
重たい静寂が、
アテナイ全土を包み込んでいた。
シュンの瞳には、
深い苛立ちと無力感が宿っている。
その視線の先に広がるのは、
炎と瓦礫に沈んだ故郷だった。
直接的な戦いは終わった。
だがシュンは理解していた。
――これは、もっと巨大な何かの始まりに過ぎないと。
その時だった。
思考へ沈みかけた彼を、
掠れた声が引き戻す。
「……なんで、戦わなかったんだ?」
怒りを押し殺した声で、
エデンが問い掛ける。
「エデン……」
「なんで……あいつらを逃がした……?」
低く震える声。
「……あれが最善だった」
「嘘だ!!」
エデンの瞳が、
魔物のように紅く染まる。
「お前の力なら倒せただろ!!」
「なんで殺さなかったんだ!?」
「こんなに人が死んでるのに!!」
「何も感じないのかよ!!」
シュンは奥歯を噛み締め、
静かに視線を逸らした。
その反応が、
エデンの怒りを爆発させる。
彼はシュンの胸ぐらを掴み、
怒鳴った。
「答えろよ!!」
「なんで戦わなかったんだ!!」
……
シュンは拳を強く握る。
その言葉は、
弟子よりも自分自身を傷付けていた。
そして。
「……お前たちが弱いからだ!!」
怒りと苦悩を混ぜた叫び。
エデンは完全に固まった。
「今のお前たちは……ただの足手まといだ!!」
「存在しているだけで、俺の枷になる!!」
シュンは苦しそうに続ける。
「奴は、それを一番理解していた」
「お前たちを守りながら、本気で戦うことなんて俺にはできない」
拳も。
歯も。
震えていた。
「認める」
「お前たちの世代は、俺が見てきた中でも最高の可能性を持ってる」
「……だが、これは戦争だ」
「期待や可能性なんかに賭ける余裕はない」
「これは――殺すか、殺されるかだ」
その現実が、
真正面からエデンへ叩き付けられる。
彼はゆっくりと、
シュンから手を離した。
「今日は……もう十分死んだ」
シュンは掠れた声で言う。
「これ以上、誰かを失うわけにはいかない」
「……お前も失いたくないんだ、エデン」
エデンの目が見開かれる。
冷静で、
決して弱さを見せなかった師が。
今、
目の前で壊れかけていた。
「……シュン」
「もう……これ以上、血を背負えない」
シュンの視界には、
自分の手から零れ落ちる大量の錆びた血が映っていた。
限界だった。
それを理解した瞬間。
エデンは膝から崩れ落ちる。
「……っ!!」
そして。
「クソがァァァァァ!!」
何度も。
何度も。
拳を地面へ叩き付けた。
「クソ!! クソ!! クソ!!」
「何も変わってねぇじゃねぇか!!」
「俺は……何一つ守れない!!」
その声は、
完全に壊れていた。
……
シュンは静かにしゃがみ込み、
弟子の目を真っ直ぐ見つめる。
「……自分の意志に価値を持たせたいなら」
「もっと強くなれ」
「お前ならできる」
「だから、お前は俺の弟子なんだ」
そう言って。
シュンは温かな手を差し伸べた。
その笑顔は、
優しくて。
そして、
誰よりも壊れていた。
「今感じてるその悔しさを――」
「強くなるための燃料に変えろ」
「……ただ、一つだけ約束してほしい」
エデンは震える声で尋ねる。
「……何を?」
シュンは静かに答えた。
「絶対に、自分自身を見失うな」
エデンはゆっくりと、
師へ向けて手を伸ばした。
だが――
だが、その瞬間。
一つの低く力強い声が、
その空気を切り裂いた。
「――隊長」
エデンがシュンの手へ触れる前に、
彼は反射的に視線を森の茂みへ向ける。
そこに立っていたのは、
青白い肌を持つ青年だった。
その瞳は鋭く、
冷たい憎悪を宿している。
「アレックスボルト、どうした?」
【アレックスボルト――特殊部隊第二師団所属】
「部隊は無事、全区域の制圧を完了しました」
「生存者は現在、アテナイ中央区域へ避難誘導中です」
シュンは静かに頷く。
「よくやった」
「最後の瓦礫一つまで確認するまで、捜索を止めるな」
「了解です」
そしてアレックスボルトは、
ふと思い出したように視線を三人へ向けた。
「それと、一つ頼みがある」
「何でしょうか?」
「この三人を下まで連れて行ってくれ」
「治療も頼む」
「特にヨヘイは状態が悪い」
「……了解しました」
アレックスボルトはヨヘイへ手を差し出す。
「肩を貸しましょうか?」
だがヨヘイは、
ふらつきながらも立ち上がり、
不機嫌そうに言い放つ。
「いらねぇ」
「一人で歩ける」
その瞬間。
リュウザキが無言でヨヘイの腕を掴んだ。
「……何の真似だ?」
「馬鹿かお前」
リュウザキは呆れたように吐き捨てる。
「怪我人なんだから、少しくらい意地張るのやめろ」
「……チッ」
ヨヘイは舌打ちするが、
振り払うことはしなかった。
そのやり取りを見て、
エデンは小さく笑う。
この地獄の中でも。
こんな連中の中に、
自分は確かに温もりを見つけていた。
「……シュン」
「ん?」
エデンは真っ直ぐ師を見つめる。
「いつか」
「もうお前に頼らなくて済むくらい強くなって――」
「絶対、お前を倒す」
その生意気すぎる宣言に、
シュンは思わず小さく笑った。
「……楽しみにしてるぞ、ガキ」
その言葉を最後に。
彼らは山を下り、
炎と灰に覆われたアテナイへ向かって歩き出す。
そして。
山頂には、
シュンだけが残された。
シュンはゆっくりと崖際へ歩み寄り、
崩壊したアテナイを見下ろした。
その瞬間だった。
血に濡れた黒い腕が、
足元から無数に這い出してくる。
それらは亡者のように、
シュンの身体へ必死にしがみ付いた。
歪んだ悲鳴。
掠れた泣き声。
呪いのような怨嗟。
その全てが、
彼へ向けられていた。
まるで責任を押し付けるための“罪人”を探すように。
シュンの耳には、
終わりのない声が響き続ける。
『なぜ見殺しにした?』
『なぜ戦わなかった?』
『なぜ来るのが遅かった?』
何度も。
何度も。
何度も。
それでもシュンは、
必死に平静を保とうとしていた。
彼はゆっくりと、
自らの両手へ視線を落とす。
血。
血。
血。
あまりにも多すぎる血が、
その手の輪郭すら見えなくしていた。
(あと何人――)
(あと何人、俺の指揮の下で死ねばいい……?)
彼の脳裏に浮かぶのは、
散っていった二千六百十人の兵士たち。
(あいつらは……いつか安らげるのか?)
(その死に意味は生まれるのか?)
亡者たちの腕が、
さらに強くシュンを包み込む。
まるで地獄へ引きずり込もうとするように。
(この終わらない戦いは……いつまで続く?)
(俺は……いつになったら休める……?)
やがて。
無数の腕が、
完全にシュンを覆い尽くした。
視界が黒く染まっていく。
そして。
闇に呑まれる寸前、
シュンは静かに呟く。
「……俺は、ただの人間だ」




