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第15章・1:紅の夜

――バキィィィン!!


偽りの空が、


轟音と共に砕け散った。


無数の破片となって崩れ落ちるその光景を、


ヨゲンは呆然と見上げていた。


ほんの一瞬で。


緻密に積み上げてきた全ての計画が、


ただの幻想へ変わる。


なぜなら――


勝利を確信していた男の前に、


“もう一人の男”が現れたからだ。


その存在だけで、


戦局そのものを塗り替える男。


憎しみでも、


怒りでもない。


静かな慈悲と、


深い哀れみを纏った存在。


「……これは、本当に最悪だな」


ヨゲンは心の中で呟き、


引き攣った笑みを浮かべた。


その視線の先。


シュンがゆっくりと降り立つ。


穏やかな瞳を、


真っ直ぐ敵へ向けながら。


白き翼が静かに羽ばたき、


その姿はまるで神話そのものだった。


神々しいほど優雅に、


大地へ降り立つ。


シュンは迷うことなく、


エデンの前へ立った。


「……大丈夫か、エデン?」


「……ッ、はい……」


エデンがかすれた声で答える。


その言葉を聞いた瞬間、


シュンの視線が再び敵へ向けられる。


静かで。


だが圧倒的だった。


「――宴は終わりだ、ヨゲン」


――ザァッ!!


「死ねェェェェェッ!!」


ケツロウが獣のように飛び出した。


迷いなく、


狩猟犬の如き速度で。


だが――


シュンは動じない。


ただ静かに、


その頭を片手で掴み。


――ドンッ!!


――バキィッ!!


そのまま地面へ叩き潰した。


容赦など一切ない。


わずか一秒にも満たない。


あれほど恐ろしく、


絶望的だった怪物が、


英雄の手によって容易く沈んだ。


「……だから言っただろ?」


「狂犬はちゃんと躾けておけって」


ヨゲンは肩を竦める。


「いやぁ、申し訳ない」


「彼、君みたいな強者を見ると興奮を抑えられなくてね」


「どうか許してやってくれ」


軽く頭を下げる。


シュンは気絶したケツロウを一瞥し、


淡々と言った。


「まぁ、しばらく吠えることもないだろ」


「それは助かるよ」


カイは完全に息を呑んでいた。


(……知ってはいた)


(シュンが化け物じみた強さを持ってることくらい)


(でも、これは異常だ……)


(ケツロウを……あんな簡単に?)


(旦那ですら多少は手こずる相手だったはずなのに……)


(この男の力は、もう理屈じゃない……!)


その時。


ヨゲンが初めて、


自ら前へ出た。


それは部下たちすら驚かせる行動だった。


「……旦那?」


ヨゲンは静かにシュンを見据える。


「シュン」


「お互い、状況は理解しているはずだ」


「今の私は、君の存在によって全てを崩された」


「認めたくはないが――」


「君だけは、どうしても越えられない壁らしい」


ヨゲンは苦笑する。


「勝利を確信していた戦争ですら、君はまた邪魔をする」


「だから、一つ提案がある」


「……何だ?」


「一時的な停戦だ」


その言葉に、


全員が凍り付いた。


あまりにも馬鹿げていて、


危険すぎる提案。


だがシュンだけは、


表情を変えない。


ヨゲンは続ける。


「私は君をよく知っている」


「君は“これ以上の犠牲”を最も嫌うタイプの指導者だ」


「そして今ここで全面衝突すれば、どれだけの命が失われるかも理解している」


「だから――」


「私たちを見逃してくれないか?」


沈黙が落ちる。


その静寂に、


エデンが耐え切れず叫んだ。


「……なんで迷うんだよ、シュン!?」


「目の前にいるんだぞ!?」


「全部の元凶が!!」


「黙ってないで戦えよ!!」


シュンは、


苦しそうに微笑んだ。


その笑みは、


どこか壊れていた。


「……よくそこまで図々しいことが言えるな、ヨゲン」


静かな声。


だが、


怒りが滲んでいる。


「自分が何を要求しているのか、分かってるのか?」


ヨゲンは一切動じない。


「……あぁ」


「もちろん、理解しているさ」



その瞬間。


エデンの感情が、完全に爆発した。


「何をしてるんだよ、シュン!!」


「何千人も死んだんだぞ!? 全部こいつらのせいだ!!」


「それなのに……戦いもせずに見逃すつもりなのか!?」


「お前は……どんな英雄なんだよ!!」


その叫びを聞いた瞬間、


シュンの瞳から光が消えた。


そして静かに答える。


「……俺は英雄なんかじゃない」


「でも――」


「自分の感情に流されて、これ以上誰かを死なせるわけにはいかない」


シュンは拳を強く握り締める。


怒りを押し殺すように。


「教えてくれ、エデン」


「俺はなぜ戦うべきなんだ?」


「まだ生きてる人間まで、俺の怒りのせいで死なせるためか?」


その問いに、


エデンは言葉を失う。


「世界は、お前が思ってるほど単純じゃない」


シュンは静かに続けた。


「お前の気持ちは理解できる」


「だが、それを制御できなければ……ただの暴走だ」


震える手を押さえながら、


彼は呟く。


「どれだけ綺麗な理想を掲げても」


「それを貫く力がなければ、何の価値もない」


「でも……!」


「下を見てみろ」


シュンの視線が、


燃え続けるアテナイへ向けられる。


「今のアテナイには、神ですら止められない怪物が溢れている」


(パペットはまだ動ける)


(カイも自由だ)


(神々は未だ封じられたまま)


(それに――まだ闇の中からこちらを見ている連中もいる)


シュンは奥歯を噛み締める。


(ここで感情に任せれば……アテナイは終わる)


「……これ以上」


「これ以上、血で手を汚す価値が本当にあるのか……?」


その声は、


酷く壊れていた。


エデンは答えられない。


ただ悔しさに唇を噛み、


視線を逸らすことしかできなかった。


重苦しい沈黙の中、


シュンはヨゲンへ冷たい視線を向ける。


「……さっさと失せろ」


「お前の犬共も全員連れてな」


「数分後にもまだこの街に残っている奴がいたら――」


「今度こそ、最悪の形で叩き潰す」


その瞳は、


刃より鋭かった。


ヨゲンは優雅に一礼する。


「その慈悲に感謝するよ、シュン」


――パチン。


指を鳴らした瞬間、


街中の至る場所に無数のゲートが開いた。


部下たちのいる場所、


全てに。


そしてヨゲンの背後にも、


一つの門が現れる。


だが、


立ち去る前に。


シュンが低く告げた。


「一つだけ忠告しておく、ヨゲン」


「何かな?」


「次にアテナイへ足を踏み入れた瞬間――」


「お前を潰すためなら、俺はこの街ごと焼き払う」


空気が凍り付く。


シュンの黄金の瞳は、


一切揺れていなかった。


「そして、もう一度でも俺の生徒に触れてみろ」


「地獄の苦痛ですら、遊びに思えるほどの痛みを味わわせてやる」


その瞬間。


初めて。


ヨゲンの背筋に、


冷たい悪寒が走った。


だが――


その感覚に、


彼はむしろ満足そうに微笑む。


(……あぁ)


(やっぱり君は、本当に素晴らしいよ、シュン)


ヨゲンは気絶したケツロウを担ぎ、


そのままゲートへ向かった。


だが去り際。


彼はエデンを横目で見て、囁く。


「忘れるな、子羊」


「お前は“そのため”に生まれた」


「どれだけ逃げようと、運命からは逃れられない」


「今はその光を楽しめばいい」


「だが光が強くなるほど――」


「それを喰らう影もまた、大きくなる」


ヨゲンの笑みが深まる。


「そしていつか」


「お前は必ず、自分の中の闇を受け入れることになる」


次の瞬間。


ゲートが閉じた。


ブラックライツの姿が、


風のように消える。


街中の門も、


一つ、また一つと消滅していく。


最後まで残っていたのは、


パペットだった。


背後に開いた門を見て、


彼は全てを理解する。


そして。


崩れ落ちたアレスを見下ろし、


残念そうに呟いた。


「本当に残念だなぁ……」


「今回は君を僕のお人形にできなかった」


パペットは微笑む。


「でも安心してよ」


「次は絶対に、いっぱい遊んであげるからさ」


「戦争の神様♪」


彼はアレスの顎から手を離し、


背を向ける。


「せいぜい楽しむといい」


「神々の操り人形としての、偽りの自由を」


アレスは何も答えない。


その瞳には、


もう光すら残っていなかった。


パペットがゲートを潜った瞬間。


全ての糸が消滅する。


――ベシャァァァァッ!!


宙に吊られていた死体が、


一斉に地面へ叩き付けられた。


肉片。


臓物。


血飛沫。


それらが、


生気を失ったアレスの顔を覆う。


そして。


その後に訪れたのは、


底なしの静寂だった。


……


アテナイ虐殺事件は、


こうして終結した。


死者数は五千を優に超え、


行方不明者を含めれば被害はさらに膨れ上がる。


神々も。


王も。


世界中の前で、


致命的な打撃を受けた。


そして――


ブラックライツは、


“真実を求める組織”として急速に支持を拡大していく。


世界を震撼させたこの事件は、


後にこう呼ばれることになる。


――『紅蓮の夜』と。

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