第14章・7:慈悲
【シュン到着の数分前】
深紅の血と鉄の臭いが、
山頂全体を覆っていた。
巨大な岩山のような男――ケツロウの前に立つのは、
満身創痍の二人の少年。
かつては傲慢で、
誰にも屈しなかったその瞳も、
今は“越えられない壁”を前にしていた。
全身は血塗れ。
傷だらけ。
骨すら何本も折れている。
それでも――
二人は立っていた。
頬を吊り上げ、
不敵な笑みを浮かべながら。
――ドゴォン!!
ケツロウの拳が、
地震のような威力でヨヘイの頭部へ叩き込まれる。
頭部は地面へめり込み、
数メートル先まで大地が砕け散った。
「――ヨヘイッ!!」
リュウザキが叫び、
即座にケツロウへ飛びかかる。
――ザシュッ!!
だが次の瞬間、
カイの刀の峰が、
リュウザキの首筋へ叩き込まれた。
「ガッ……!」
容赦なく、
カイはリュウザキの頭を地面へ押し潰す。
そしてその首元へ刀を添え、
冷たく告げた。
「余計な真似はするな」
リュウザキはなおも抵抗する。
だが、
カイの圧倒的な力から抜け出せない。
その隣では、
ケツロウがヨヘイの頭を掴み上げていた。
まるで、
壊れかけの玩具でも持つかのように。
ヨヘイの顔面は土と傷に塗れ、
額から流れる血が頬を濡らしている。
「……もう降参か?」
ケツロウが冷たい視線を向ける。
しかしヨヘイは笑った。
「なぁ、お前……歯ァ磨いてるか?」
「その腐った息で吐き気がするんだけど」
――ドゴッ!!
鈍く重い拳が、
ヨヘイの顔面へ突き刺さる。
大量の血が吐き出された。
「……減らず口だな、ゼウスの息子」
「その顔見てると目が腐りそうなんだけど」
――バキィィッ!!
拳が炸裂し、
鼻骨が砕ける嫌な音が響いた。
「まだ喋るか?」
「ちょうどよかったよ」
「整形したかったんだ」
「……チッ」
ケツロウが舌打ちする。
その瞬間、
拳の連撃が始まった。
――ドゴッ!!
――ゴッ!!
――バギィ!!
終わりのない暴力。
一撃ごとに、
より凶悪に。
より残酷に。
ヨヘイの顔は、
徐々に形を失っていく。
血が、
かつて緑に輝いていた大地を赤黒く染める。
半神の誇り高き血が、
ケツロウの無機質な顔へ飛び散った。
その光景を、
リュウザキとエデンは見ていた。
恐怖と怒りに目を見開きながら、
鎖を必死に引きちぎろうとする。
「クソがァ!!」
リュウザキが吼える。
「やめろォォォォォォッ!!」
エデンの絶叫が山頂に響いた。
次の一撃を放とうとしていたケツロウが、
その声で動きを止める。
「もうやめろよ……!」
エデンの声は震えていた。
涙が零れ落ちそうになるほどに。
「欲しいのは俺なんだろ……!?」
「だったら、もうこいつらには手を出すな!」
「頼むから……!」
ヨゲンは静かに視線を向ける。
そして、
僅かに頷いた。
――ドサッ。
ケツロウはヨヘイを地面へ放り捨てる。
だがその直後、
鎖がヨヘイの身体へ巻き付き、
完全に拘束した。
ヨゲンは不思議そうに振り返り、
静かに問いかけた。
「……なぜ、そいつらに慈悲を乞う?」
「もし私の記憶違いでなければ、一人はお前の人生をずっと邪魔し続けてきた男だ」
「お前が犯してもいない罪を理由に、存在そのものを呪い続けていた」
「そしてもう一人は、お前の大切な友人を重傷に追い込んだ男だ」
ヨゲンは淡々と続ける。
「ならば、なぜそんな連中に情けをかける必要がある?」
「お前が苦しんでいた時、あいつらはお前に慈悲を見せたか?」
エデンは凍り付いた。
ヨゲンの言葉一つ一つが、
まるで“絶対の真実”のように胸へ突き刺さる。
その声は、
まるで迷い続けた自分を導く光のようだった。
たとえそれが、
闇の光だったとしても。
震えるエデンの瞳を見つめながら、
ヨゲンは命じた。
「カイ、刀を貸せ」
「……ですが、旦那」
「今だ」
「……ッ、はい」
カイは不満そうに刀を差し出す。
その直後――
――バキィィン!!
鈍い破壊音が山頂に響いた。
エデンを拘束していた鎖が、
次々と地面へ落ちていく。
その光景に、
全員が目を見開いた。
「旦那ッ!? 何を……!」
カイが明らかに動揺する。
「鎖を外せば、そいつは危険です!」
だがヨゲンは聞く耳を持たない。
彼はそのまま、
カイの刀をエデンへ差し出した。
「……何のつもりだ?」
エデンが警戒を滲ませる。
「別に」
ヨゲンは静かに微笑む。
「ただ、一つ気になっただけだ」
「……何を?」
「お前はいつになったら、“本当のお前”を隠すのをやめる?」
「……意味が分からない」
「なら、見てみろ」
ヨゲンは、
鎖に繋がれたヨヘイたちを指差した。
「何度、こんな未来を望んだ?」
「何度、あいつらを殺したいと思った?」
「……何言ってんだよ」
「惚けるな」
ヨゲンの声が低くなる。
「私は見えるんだ」
「お前が纏っている“正義の味方”という偽りの仮面の奥がな」
「お前がどれほど身勝手な人間か」
「その学生という皮の裏に、どれほど深い闇を隠しているか」
「……全部、見えている」
エデンの呼吸が乱れる。
「だが理解もしている」
「お前がその闇を隠したがる理由もな」
「その闇は、お前から何もかも奪ってきたのだから」
その瞬間――
エデンの両手から、
大量の血が溢れ始めた。
腐臭。
歯。
髪の毛。
粘つく血液。
それらが混ざり合い、
地面へ滴り落ちる。
「まだ聞こえるんだろう?」
ヨゲンが薄く笑う。
「あいつらの悲鳴が」
「……お前に何が分かる」
「全部分かる」
ヨゲンは即答した。
「地獄の底へ引きずり込まれる感覚も」
「毎晩、自分の死を望む亡霊の叫びを聞き続ける苦しみも」
「全部だ」
ヨゲンの瞳が、
静かに細められる。
「だが、なぜそこまで手の血を恐れる?」
「その血は、他人の苦しみを楽しんでいた連中のものだ」
「私は今でも覚えている」
「あの醜い笑顔を」
「若者同士が頭を潰し合う様を見て、歓喜していた連中を」
「神聖な闘技場が紅に染まるたび、欲望と興奮で笑っていたあの顔を」
「……」
「そんな連中を、なぜ必死に覚えていようとする?」
「本当に、あいつらがお前の死を悲しんだと思うか?」
「……した」
エデンが小さく呟く。
だがヨゲンは首を振った。
「違う」
「お前の死に様を面白がっただけだ」
「断末魔を」
「悲鳴を」
「最後の呼吸を」
「それだけをな」
ヨゲンの声は、
どこまでも穏やかだった。
「奴らにとって、お前の命に価値などない」
「お前は数字でしかない」
「名前でしかない」
ヨゲンはエデンの顎を掴み、
真正面から見つめる。
「この世界で生き残る方法は、一つだけだ」
「残酷になることだ」
「恐れるな」
「残酷さとは、自分自身への慈悲に過ぎない」
「この世界は、裏切りと痛みと残虐さによって作られた」
「時代も種族も関係ない」
「誰もが羊の皮を被った狼だ」
ヨゲンの瞳が、
エデンを深く呑み込む。
催眠のように。
堕落へ誘うように。
そして静かに囁いた。
「もう隠すな、エデン」
「世界に見せてみろ」
「お前が本当は何者なのかを」
「皆が見たがっている、その闇を――」
ヨゲンは、
その鋭い刀をエデンの手へ握らせた。
まるで慈愛のような、
不気味な温もりと共に。
エデンは何も言わず、
ゆっくりとヨヘイたちへ歩き出す。
一歩。
また一歩。
そのたびに、
脳裏へ蘇る。
罵声。
軽蔑の視線。
吐き捨てられた悪意。
「死ね」
「お前なんか生きる価値もない」
「生まれてくるべきじゃなかった」
その全てが、
杭のように胸へ突き刺さる。
「……俺は何を恐れてる?」
エデンは自問した。
「俺の手だって、もう血塗れだ」
乾いた笑いが漏れる。
「何を“善人”ぶってたんだ……?」
「最初から全部、自分のためだった」
足音が、
静かに山頂へ響く。
「友情?」
「絆?」
「……そんなもの、全部嘘だ」
「最初からあいつらを“仲間”なんて思ってない」
「目的のための道具だ」
だが――
「なら、なんで……」
「なんで、こんなに震えてるんだ……?」
エデンはついにヨヘイの前へ立った。
刀の刃を、
その首元へ向ける。
するとヨヘイは、
満足そうに笑った。
「やっと本性を見せる気になったか、悪魔」
「さぁ世界に見せてみろよ」
「お前ら悪魔がどれだけ醜くて腐ってるかをな」
「……ごめん」
エデンは虚ろな瞳のまま呟く。
そして刀を強く握り締め、
苦痛に満ちた叫びを上げた。
「――AAAAAAAAAAHHHHHHHHH!!」
――ザシュッ!!
……
――カラン。
鎖が砕け落ちる金属音が、
山頂へ響いた。
その場の全員が目を見開く。
「――ふざけんなァァァァッ!!」
エデンが怒号を放つ。
「誰だよ……!」
「誰がお前に、俺を分かった気にさせたッ!!」
ヨヘイとリュウザキを拘束していた鎖が、
次々と崩れ落ちていく。
二人は状況を理解できず、
呆然としていた。
「勝手に俺の生き方を決めつけるな……!」
エデンの声が震える。
怒りと、
涙を押し殺しながら。
「世界が残酷だから何だよ……!」
「闇しかないから何だよ!!」
「そんなもん知るか!!」
「どれだけ小さな光でも――」
「俺はそれに縋って、生きてやる!!」
「力のために、あいつらも、自分自身も裏切る気なんてねぇ!!」
ヨゲンが静かに問い返す。
「……自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「この世界では、自分の悪魔を受け入れなければ生き残れない」
エデンは一歩前へ出る。
「だったら――」
「俺がこの世界を変える」
その瞳には、
燃え尽きない炎が宿っていた。
「もし俺がいつか、お前らみたいなクズになるなら――」
「その時は、“エデン”って名前を捨てる」
エデンは刀を構える。
全身は震えている。
それでも、
決して目を逸らさない。
「未来なんて知らねぇ」
「今日死ぬのか、明日死ぬのか、何十年後なのかも分からない」
「……でも」
「俺は最後まで、“俺自身”として生きる」
ヨゲンは静かに目を細めた。
「最も強い鉄ですら、この世界の残酷さには屈する」
「そうかもな」
エデンは答える。
「でも、今の俺が信じられるのは一つだけだ」
「――お前をここから出さない」
その覚悟を見た瞬間、
ヨゲンは重く息を吐いた。
「……失望したよ、エデン」
「お前自身が、自分の運命を理解する機会を与えたつもりだった」
「だが、最も美しいダイヤモンドでさえ――」
「輝くためには、極限の圧力を必要とする」
ヨゲンはゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、
空気が凍り付いた。
「――そろそろ」
「この茶番を終わらせようか」
. . .
――バキィィィン!!
その瞬間、
凄まじい破壊音が山頂を揺らした。
全員の動きが止まる。
空を覆っていた、
あの漆黒の闇。
絶望と苦痛に染まっていた夜空が、
今は星々の光によって美しく輝いていた。
ほんの僅かな時間。
それでも確かに、
この暗黒の世界へ“光”が戻っていた。
紫と黄金の軌跡が、
残酷なほど美しく空から降り注ぐ。
まるで星屑のように。
その光景を見た瞬間、
ヨヘイの表情が凍り付く。
そして、
都市全体へ響き渡った“あの声”。
「――進めェェェェェェェェッ!!」
その叫びは、
誰よりも聞き覚えがあった。
恐ろしく、
そして圧倒的に。
ヨヘイは乾いた笑みを浮かべる。
「……ハッ、最悪だな」
エデンも理解した。
その声の主を。
「……シュン……?」
その名を、
震える声で呟く。
だが次の瞬間、
ヨゲンの視線が本能的に空へ向けられた。
「……これ以上、状況が悪くなるとはな」
そこにいた。
天空に。
神々しく、
そして圧倒的な存在感を纏った男が。
純白の翼。
夜空を照らす桃色の髪。
黄金の瞳は、
太陽のように美しかった。
だがそこに宿るのは、
憎しみでも復讐でもない。
――慈悲。
シュンは静かに口を開く。
その声には、
王のような威厳が宿っていた。
「ヨゲン」
山頂全体へ、
その名が重く響く。
そして黄金の瞳で真っ直ぐ彼を見据え、
冷たく告げた。
「俺の生徒に指一本でも触れた」
「――その報いを受けてもらう」




