第14章・6:あいつが諦めなかったなら、なぜ俺が諦める?
オリヴィオの身体から流れ落ちる血が、
地面を深紅に染めていく。
その量はあまりにも多く、
まるで涙や汗のようだった。
呼吸は乱れ、
重く、
途切れ途切れ。
全身には無数の穴が空き、
そこから絶え間なく血が溢れている。
それでも――
オリヴィオは倒れなかった。
敵の前で、
なお立ち続けていた。
その姿を見つめながら、
レムリエルは苛立ったように問いかける。
「なぜ立ち続ける?」
「勝ち目など微塵もないというのに、なぜそこまでして抗う?」
「死の淵に立ちながら、何がお前を支えている?」
「なぜ諦めない?」
「なぜ大人しく冥府の魂たちに連れて行かれない?」
オリヴィオの身体は限界だった。
意識は霞み、
視界もぼやけ始めている。
それでも彼は立っていた。
「レムリエル、時間の無駄だ」
フードの男が冷たく告げる。
「さっさと殺せ」
「苦しみを長引かせたところで、我々に得はない」
レムリエルは視線だけを向けた。
「……あの血筋の者に情けでもかけろと言うのか?」
「そういう意味じゃない」
フードの男は淡々と返す。
「ただの無駄だと言っているだけだ」
「我々には、もっと優先すべきことがある」
その時だった。
弱々しかったはずの声が、
再び響く。
「……諦める?」
オリヴィオは、
不釣り合いなほど自信に満ちた笑みを浮かべた。
「悪いな……」
掠れた声で、
彼は言う。
「それは……選択肢にない」
レムリエルの単眼が静かに細まる。
「俺は見たんだ」
「花びらみたいに脆い子供が……神々に立ち向かう姿を」
その瞬間、
脳裏に浮かぶ。
笑いながら前へ進む、
あの少年の姿。
「……あいつができたなら」
「俺に諦める資格なんてないだろ」
オリヴィオは小さく息を吐く。
「俺はずっと考えてた」
「あの時、違う選択をしていたらどうなっていたのかってな」
「でも……」
彼は静かに笑った。
「あいつが教えてくれた」
「大事なのは過去じゃない」
「未来のために、どんな選択をするかだって」
――ドンッ!! バキィィッ!!
オリヴィオが力強く地面を踏み込む。
その瞬間、
大地が砕け散った。
(どこからそんな力を……?)
フードの男が眉をひそめる。
(……これが、人間の誇りというものか)
レムリエルは静かに思う。
(見事だ)
オリヴィオは荒い呼吸を繰り返す。
(……一瞬でいい)
(必要なのは、それだけだ)
(代償なんてどうでもいい)
(やるしかない)
(死にたくない……)
彼の拳が震える。
(だけど、ここで折れたら全部無駄になる)
脳裏に浮かぶのは、
今なお戦い続ける仲間たち。
(みんな、勝つことを信じて戦ってる)
(だったら俺も……信じるだけだ)
次の瞬間――
オリヴィオのゼンカが凝縮され、
剣の刃を包み込んだ。
その異様な光景に、
フードの男の目が細まる。
(……自爆覚悟か?)
オリヴィオの身体から、
急速にゼンカが失われていく。
レムリエルは静かに両手を合わせた。
「戦士よ」
彼の周囲に、
無数の光の糸が現れる。
「その執念に敬意を表し――」
膨大なゼンカが、
彼の両手へ集束していく。
「私も全力で応えよう」
空気が震える。
空間が軋む。
それは、
確実な死の一撃。
オリヴィオは静かに目を閉じた。
(兄貴……)
ほんの一瞬、
脳裏に浮かぶのは、
あの温かな笑顔。
(……あとは任せた)
. . .
二人の攻撃が、
同時に放たれた。
オリヴィオの剣閃。
レムリエルの光。
鋭く凝縮された刃の輝きと、
球状に圧縮された破滅の光が、
空中で激突する。
――ゴォォォォォォン!!
衝突した瞬間、
世界そのものが軋んだ。
だが――
その瞬間だった。
戦士が抱いていた、
小さな希望が砕け散ったのは。
どれだけ努力しようと。
どれだけ足掻こうと。
人間では、
決して届かない領域がある。
その現実が、
あまりにも残酷な形で突きつけられる。
――パキィィン。
まるで脆いガラスが砕けるような音。
オリヴィオの技が、
粉々に崩壊した。
同時に、
“命”と呼ばれていた光も、
静かに砕け散っていく。
迫り来る破滅の光。
時間がゆっくり流れているようだった。
それでも――
オリヴィオは笑った。
死が目前にあるというのに。
恐怖に震えながらも、
彼は微笑んでいた。
なぜなら、
彼は理解していたからだ。
どれほど犠牲を払おうと、
世界は“何か”を信じ続けなければならない。
そして、
彼には信じたい人がいた。
ずっと世界のために戦い続けてきた人。
ようやく、
ほんの少しだけ恩返しができる。
――シュン。
(ありがとう、シュン)
(……愛してる)
次の瞬間――
眩い光が、
オリヴィオの姿を飲み込んだ。
そして、
ほんの刹那だけ。
幼い彼が、
シュンの背中を追いかけて走る姿が見えた。
ずっと憧れていた、
あの大きな背中へ向かって。
……
――ボォォォォォォォォン!!!
レムリエルの一撃が、
峡谷そのものを飲み込んだ。
容赦など一切ない。
そこに存在するものすべてを、
光は跡形もなく消し飛ばしていく。
その威力は凄まじく、
アテナの奥深くにいる神々ですら、
その光を目撃した。
その瞬間。
アフロディーテは、
理由も分からないまま、
頬を一筋の涙が伝うのを止められなかった。
「……オリヴィオ」
立ち込めていた土煙が、
ゆっくりと晴れていく。
その後に残ったのは、
墓場のような静寂だった。
「……終わったな」
レムリエルは背を向ける。
「戻るぞ」
だが、
次の一歩を踏み出そうとした瞬間――
彼の身体が完全に止まった。
単眼が大きく見開かれる。
氷のように冷静だったその身体が、
わずかに震え始めた。
「……冗談だろ」
フードの男が、
信じられないものを見るように笑う。
そこにいたのは、
風に揺れる美しい桃色の髪。
絹のように滑らかな肌。
黄金の瞳には、
人の心すら包み込むような温かな光が宿っていた。
そしてその男は、
腕の中に最も大切な存在を抱えていた。
――オリヴィオを。
「よく頑張ったな、弟」
シュンは優しく微笑む。
「もう休め」
「後は兄ちゃんに任せろ」
「……シュン」
オリヴィオの声はか細い。
「安心しろ。俺が来た」
その言葉だけで、
オリヴィオの張り詰めていたものが崩れそうになる。
「……シュン」
彼は震える声で問いかけた。
「俺……やっと役に立てたか?」
その言葉に、
シュンは一瞬だけ目を見開いた。
そして、
そっと弟の頭を撫でる。
「バカ」
彼は柔らかく笑った。
「お前はずっと、俺の力だっただろ」
次の瞬間、
シュンの掌から温かな光が溢れ出す。
その優しい光が、
一瞬でオリヴィオの身体を包み込んだ。
「貴様ァァァァ!!」
レムリエルが怒号を上げる。
「なぜここにいる!? お前が来られるはずがない!!」
だが、
シュンは視線すら向けない。
彼は静かに弟を地面へ横たえる。
そして立ち上がる。
ゆっくりと。
静かに。
その黄金の瞳が、
レムリエルを射抜いた。
「全部」
シュンは淡々と告げる。
「弟の勇気のおかげだ」
「死を目の前にしても、あいつは止まらなかった」
「あの意志が――お前の能力に小さな穴を作った」
レムリエルの単眼が揺れる。
「……あり得ない」
「私の結界は完全無欠だ」
シュンは鼻で笑った。
「その規模の結界を維持するには、全神経を集中させ続けなきゃならない」
「だが、お前は冷静さを失った」
「くだらない我儘のためにな」
フードの男が目を見開く。
(……あの時か)
レムリエルが両手を使って技を放った瞬間。
完全にオリヴィオへ意識を向けた、
あの一瞬。
「もし弟だけに集中してなければ」
「俺はここへ来られなかった」
「お前たちの勝ちだったかもしれないな」
シュンは冷たく笑う。
「残念だったな」
「お前、思ったより“人間臭い”ぞ」
「黙れェェェェ!!」
レムリエルが激昂し、
シュンへ飛びかかる。
――ザァァァッ!!
だが、
次の瞬間。
神聖で不可侵だったはずの存在は、
地面に顔面を叩きつけられていた。
その頭を、
たった一人の人間が踏みつけている。
シュンの手には、
引きちぎられた翼が握られていた。
「――アァァァァァァァァッ!!」
絶叫。
風すら裂くような、
醜く歪んだ悲鳴。
「貴様ァァァ!!」
だが、
シュンは微動だにしない。
見下ろすその瞳には、
凍えるほどの軽蔑と憎悪だけがあった。
「自分の立場を忘れるな」
彼は静かに告げる。
「三流の天使風情が」
その言葉だけで、
空気が凍る。
「お前みたいな雑魚が生きていられるのは」
「俺が許してるからだ」
レムリエルは全力でもがく。
だが、
一ミリたりとも動けない。
圧倒的。
それは、
絶望的な力量差だった。
「今日から生き続けろ」
シュンは冷たく言い放つ。
「そして何度でも思い出せ」
「この瞬間をな」
彼はゆっくりと顔を近づける。
「……次、誰かに触れてみろ」
「その気色悪い眼を抉り取ってやる」
レムリエルはなおも暴れる。
だが、
意味はなかった。
――ドゴォォォン!!
シュンは無造作に蹴り飛ばす。
たった一撃で、
レムリエルの意識は完全に刈り取られた。
その時、
フードの男が静かに口を開いた。
「……まさか、ここまで読んでいたとはな」
彼は感心したように笑う。
「どれだけ頭が切れようと、ここまでの規模を予測するのは不可能に近い」
シュンは答えない。
ただ静かに崖の縁へ歩み寄った。
そして、
夜空を見上げながら言う。
「俺は一人で戦ってるわけじゃない」
「アケア最高の頭脳が、二人もついてるんでな」
その言葉に、
フードの男は小さく笑った。
尖った鼻がわずかに覗く。
「……何かが、お前を変えたようだな」
シュンは振り返らない。
「お前もな」
彼は静かに返した。
「……旧友」
一瞬だけ、
空気が止まる。
やがてシュンは冷たく告げた。
「さっさと失せろ」
「お前への僅かな情を忘れる前にな」
フードの男は肩をすくめる。
そして気絶したレムリエルを抱え、
指を鳴らした。
――パチン。
空間が裂け、
闇の門が開く。
二人はそのまま消え去った。
跡形もなく。
静寂。
ようやく一人になったシュンは、
深く息を吐いた。
そして――
「……反撃の時間だ」
剣を空へ掲げる。
黄金の瞳が、
アテナ全土を見下ろした。
「世界よ――」
彼の声が、
夜空へ響く。
「人の想いの強さで、輝け」
「倒れた者たちの魂を」
「今なお立ち上がる者たちの心を」
「その美しい光で包み込め」
「道を失った者には道標を」
「弱き者には、もう一度立ち上がる力を」
シュンの瞳が鋭く光る。
「――ルクス・アモーリス」
次の瞬間――
剣から巨大な光の奔流が解き放たれた。
――ドォォォォォォォン!!
それは天を貫き、
アテナを覆っていた結界へ直撃する。
そして――
――パキィィィィィン!!
絶対不可侵だったはずの結界が、
数え切れない破片となって砕け散った。
紫と黄金の光の欠片が、
夜空を埋め尽くす。
それはまるで、
凍てついた世界へ降り注ぐ流星群。
誰もが見上げた。
神も。
人間も。
怪物さえも。
種族など関係なかった。
その光景は、
どれほど冷え切った心にも、
僅かな温もりを取り戻させるほど美しかった。
「……なんとも奇妙な芸術だ」
パペットが空を見上げ、
静かに呟く。
アフロディーテもまた、
空を見上げていた。
「オリヴィオ……」
彼女は微笑む。
「どうやら、女神の私でも“信じる”ことができるみたいね」
そして――
アテナ外縁部。
そこには、
果ての見えない大軍勢が広がっていた。
無数の兵。
無数の武器。
終わりの見えない戦列。
その最前線で、
アテナが笑う。
「あのバカ、本当に毎回予想を超えてくるわね」
隣で、
盲目の預言者ティレシアスが静かに呟く。
「……なんと美しい景色だ」
アテナは思わず吹き出した。
「見えてないくせに」
「ええ」
彼女は夜空を見上げる。
「……本当に綺麗よ」
その時、
シュンが再び剣を掲げた。
「――反撃開始だ」
彼の声が、
戦場全体を震わせる。
「進めェェェェェェェッ!!」
その命令と同時に、
シュン率いる軍勢が一斉に駆け出した。
恐怖など消えていた。
いや、
恐怖はある。
それでも進める。
なぜなら――
シュンの声があるから。
それだけで、
彼らは地獄へ踏み込めた。
雄叫びが響く。
戦士たちは止まらない。
すべてを薙ぎ倒しながら、
一直線に突き進む。
そして山頂から、
シュンは遥か彼方を睨みつけた。
その黄金の瞳には、
絶対の意志が宿っている。
「……次はお前が堕ちる番だ、ヨゲン」




