第14章・4:壊れた舞台
ついに幕は開かれた。
この狂った舞台の主役である二人は、
地獄の観客たちの視線を真正面から受けていた。
(何なんだ……これは……? 幻覚か……?)
アレスは周囲を見渡しながら眉をひそめる。
「……またお前の悪趣味な遊びか、パペット」
するとパペットは、
糸で縫われた口元を歪ませながら笑った。
「違うよ、違うよ♪」
「これはただの――」
「美しく、歪んだ“表現”さ」
その目が妖しく細まる。
「今日は君に教えてあげる」
「“痛み”がどれほど美しいものかをね」
――その瞬間。
オルゴールの音色が劇場全体を包み込んだ。
不気味で、
暗く、
なのにどこか愉快。
狂気に満ちた旋律。
パペットが指を鳴らす。
パチン――
その背後から、
深紅の糸に吊られた“不死者の楽団”が現れた。
腕のない演奏者。
顔の潰れた歌手。
腹を裂かれた指揮者。
死体たちは糸に操られながら、
狂った音楽を奏で始める。
パペットは大きく両腕を広げ、
歓喜に満ちた声で叫んだ。
「皆さぁん!!」
「――ようこそォ!!」
「《壊れた舞台》へぇぇぇぇぇぇぇ!!♪」
次の瞬間――
演奏が爆発した。
激しい音色。
狂った笑い声。
そして、
天から降り注ぐ大量の血。
鮮血の雨が、
舞台全体を赤く染め上げる。
「ふざけるなァ!!」
アレスは叫びながら、
迷いなく突撃した。
槍を構え、
一直線にパペットへ迫る。
だが――
その時。
パペットが歌う。
♪「赤い幕が 開いていく」
アレスは猛烈な連撃を放つ。
神速。
重撃。
一撃一撃が空気を裂き、
舞台を破壊する。
しかし――
当たらない。
パペットは、
まるで踊っているかのように、
軽やかに攻撃を避けていく。
今まで通用していた戦法が、
完全に“遊ばれて”いた。
(何だと……!?)
その瞬間。
パペットがアレスの耳元に現れる。
♪「歪んだ夢の 始まりだ」
「――ッ!?」
アレスは即座に反応し、
槍を横薙ぎに振るう。
轟音。
舞台の一角が丸ごと吹き飛ぶ。
だが、
パペットは既に別の場所にいた。
(どこからこんな速度を……!?)
パペットは観客席へ降り立つ。
そして、
そこにいた観客の一人の頬へ、
ナイフで“笑顔”を描いた。
血飛沫。
悲鳴。
♪「笑顔の奥に 隠れている」
「……遊ぶなァァァァ!!」
アレスは怒号と共に飛び込む。
――ドゴォォォォン!!
巨大な爆発。
観客席が粉砕される。
瓦礫。
血。
肉片。
その暴威は、
ギリシャ市民すら巻き込んでいた。
♪「砕けた悲鳴 聞こえるか?」
アレスの足元。
そこには、
彼自身が殺してしまった無数の市民たち。
焼け焦げた身体。
潰れた四肢。
絶望に染まった瞳。
その視線が、
神である彼の魂を貫く。
まるで、
弱さを責め立てるように。
♪「糸を引けば 踊りだす」
無数の糸が、
一斉にアレスへ絡みつく。
「ッ!!」
アレスは反射的に槍で斬り裂こうとする。
だが――
切れない。
鋼よりも硬い。
神の力すら通さない。
「離せぇぇぇぇぇ!!」
パペットは、
糸に囚われたまま動けないアレスの前へゆっくりと歩み寄った。
そして、
その顎を掴み、
愛おしむように囁く。
♪「壊れた心 美しい♪」
「……ッ!!」
アレスは全身を震わせながら暴れる。
筋肉を軋ませ、
神の力で無理やり引きちぎろうとする。
だが――
切れない。
壊れない。
深紅の糸は、
まるで呪いのように彼を縛り続ける。
そのまま、
アレスの身体は舞台中央へと引きずられていった。
全ての観客の視線が、
彼へ突き刺さる。
そして――
観客たちが一斉に叫ぶ。
♪「踊れ 踊れ♪」
次の瞬間、
糸がアレスの身体を無理やり操り始めた。
腕。
足。
首。
まるで本物の操り人形。
観客たちは笑っている。
だがその目からは、
血の涙が流れていた。
♪「壊れるまで♪」
焼け焦げたギリシャ市民たちが、
ゆっくりとアレスを囲み始める。
その瞳には、
絶望しか存在しない。
♪「悲鳴さえも音楽になる♪」
死人たちは、
泣きながら、
叫びながら、
必死にアレスへ縋りつく。
まるで、
「終わらせてくれ」と懇願するように。
「やめろ……」
「触るな……!」
♪「笑え 笑え♪」
観客席が合唱する。
狂ったように。
壊れたように。
その瞬間――
ベチャッ。
アレスの頬へ、
肉片と血が降りかかった。
まるで、
悪趣味な喜劇。
♪「狂うほど♪」
アレスは何もできない。
抵抗できない。
ただ、
絶望だけが積み重なっていく。
響き渡る悲鳴。
空すら裂きそうな叫び。
そしてパペットは、
大きく両腕を広げながら叫ぶ。
♪「ここでは痛みも芸術さ♪」
その背後で、
もう一枚の緞帳がゆっくりと開いた。
そこに現れたのは――
無数の“顔”。
恐怖。
苦痛。
絶望。
狂気。
人々の感情が、
そのまま芸術作品のように張り付けられていた。
アレスは、
完全に言葉を失う。
(……どうやって……)
(こんな奴に勝てばいい……?)
理解不能。
パペットには、
誇りもない。
信念もない。
道徳もない。
ただ、
己の最も暗く深い欲望のままに動いている。
(……勝てるのか……?)
神の瞳が揺れる。
その瞬間――
パペットが爆笑した。
観客も、
死人たちも、
全員が笑う。
壊れたように。
狂ったように。
だが――
次の瞬間。
アレスの心臓が止まりかける。
目の前に、
二人の女性が現れた。
その姿を見た瞬間、
アレスの全身が凍りつく。
「あ……」
その二人は、
彼にとって、
この世界の残酷さそのものだった。
「行くな……」
アレスは震える手を伸ばす。
「お願いだ……」
――シュンッ。
次の瞬間。
二人の身体は、
無慈悲に爆発した。
赤い紙吹雪となって。
世界が止まる。
あの日の悪夢。
失った瞬間。
守れなかった記憶。
それが、
再び彼を飲み込む。
アレスの頬を、
何かが伝って落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
「……なんでだ……?」
彼は呆然と呟く。
「……雨……か……?」
だが、
それは違った。
彼の頬を濡らしていたのは――
涙だった。
. . .
その瞬間――
止まることのなかった音楽へ、
再びパペットが溶け込む。
♪「涙の味が 甘すぎて♪」
パペットはゆっくりと指先を伸ばし、
アレスの頬を伝う涙をなぞった。
そして――
その涙を、
舌で味わう。
恍惚とした表情。
「……っ」
♪「壊したくなる その心♪」
グシャッ――
パペットは、
人間の心臓を握り潰した。
まるで、
ただのガラス細工でも壊すかのように。
鮮血が飛び散る。
♪「歪んだ顔が 愛おしい♪」
アレスの瞳は、
少しずつ焦点を失っていく。
過去。
罪。
後悔。
悪夢。
それらが何度も何度も蘇り、
彼の精神を引き裂いていた。
♪「もっと聞かせて その声を♪」
「ぁ……ぁぁ……!!」
アレスは叫ぶ。
絶望に満ちた悲鳴。
その瞬間、
パペットの糸がゆっくりと彼を解放した。
だが――
もう遅い。
「なぜ慈悲を与えた?」
「なぜあいつを生かした?」
「なぜ止めなかった?」
同じ声が、
頭の中で繰り返される。
何度も。
何度も。
何度も。
アレスは膝から崩れ落ちた。
目を見開いたまま、
過去の叫びを聞き続ける。
終わらない。
止まらない。
♪「逃げられない♪」
パペットが耳元で囁く。
♪「終わらない♪」
糸で縫われた口が、
大きく歪む。
♪「すべてはショーの一部♪」
その瞬間――
空から大量の死体が降ってきた。
ドサッ。
グシャッ。
鮮血が舞台を真紅に染める。
……
そして観客たちは、
狂ったように声を揃える。
♪「回れ 回れ♪」
アレスは立ち上がる。
だが、
その身体は左右に揺れていた。
視界が歪む。
現実と幻覚の境界が崩れていく。
♪「終わらぬ舞台♪」
パペットは糸を舞台中へ広げた。
観客全員が、
“主役”アレスを彩る演者へと変わる。
♪「壊れた人形 笑っている♪」
その時――
アレスの顔に、
壊れた笑みが浮かんだ。
涙を流しながら。
彼自身、
理解している。
壊れているのは自分だと。
だから止めようとする。
自分の皮膚を引き裂いてでも。
だが、
止まらない。
♪「叫べ 叫べ♪」
観客が懇願する。
無数の視線が、
アレスを裁くように突き刺さる。
♪「声が裂けても♪」
アレスの叫びは、
どんどん壊れていく。
喉が裂けても。
血を吐いても。
亡霊たちは、
彼の罪を責め続ける。
♪「悲劇こそが美しい♪」
パペットは、
怯えきった神の瞳を見つめながら囁いた。
……
♪「さあ もっと…♪」
♪「もっと壊れて…♪」
アレスの声は、
悲鳴を上げるたびに歪んでいく。
人間とも獣ともつかない声。
♪「君の絶望が♪」
♪「最高の演出だ♪」
パペットは、
アレスの顎から手を離した。
アレスは、
もう抵抗しない。
ただ、
虚ろな瞳で地面を見つめていた。
そして――
小さく、
震える声で呟く。
「助けて……」
脳裏に浮かぶのは、
父――ゼウスの姿。
「やめて……」
震える手を伸ばす。
「痛い……」
その言葉と共に、
アレスの瞳から、
最後の光がゆっくりと消えていった。
. . .
パペットは、
壊れかけた小さな玩具を見るように、
アレスへ視線を落とした。
そこに浮かんでいたのは、
明確な“失望”。
そして、
ほとんど囁くような声で歌う。
♪「壊れても♪」
♪「まだ足りない♪」
次の瞬間――
パペットは舞台全体へ糸を張り巡らせた。
観客。
死人。
楽団。
すべてを、
彼の“劇”へ引きずり込む。
「――そろそろ終幕の時間だ」
その言葉と同時に、
全員が狂ったように踊り始めた。
死人たちは身体を軋ませながら舞い、
楽団は狂気のまま演奏を続ける。
太鼓の音は、
もはや断末魔だった。
♪「踊れ 踊れ♪」
全員が叫ぶ。
♪「狂気のショー♪」
パペットは、
完全に意志を失ったアレスと共に、
優雅に踊り始めた。
まるで舞踏会。
まるで恋人同士。
♪「涙さえも飾りになる♪」
ドンッ――!!
ドンッ――!!
太鼓が鳴るたび、
死人たちの身体が壊れていく。
肉が裂け、
骨が砕け、
悲鳴が響く。
そのすべてが、
音楽だった。
♪「壊せ 壊せ♪」
観客が狂ったように叫ぶ。
次の瞬間、
腸が宙を舞った。
肉片が飛び散る。
血が雨のように降り注ぐ。
だがパペットは、
笑いながら踊り続ける。
♪「すべてを♪」
その指先は、
まるで刃物。
糸を操るたび、
次々と首が宙を舞う。
♪「ここでは絶望が輝く♪」
パペットが両腕を大きく広げる。
その瞬間――
――BOOOOOOM!!
巨大なドラム音と共に、
血と肉の豪雨が舞台を覆い尽くした。
世界そのものが、
真紅へ染まる。
そして――
♪「さあ…♪」
♪「幕を閉じよう…♪」
パペットは、
完全に崩壊した円形劇場へ向けて、
優雅に一礼した。
そこにはもう、
観客はいない。
歓声もない。
残っているのは――
戦争の神と、
狂った人形遣いだけ。
……
やがて、
緞帳がゆっくりと閉じていく。
ギィィ……
赤い幕が、
全てを覆い隠した。
そして――
静寂。
先ほどまでの狂気も、
音楽も、
絶叫も、
すべて消えた。
残ったのは、
壊れた二人の男だけだった。
……
「……なぜだ……」
アレスが掠れた声で呟く。
「……なぜ……こんなことをする……?」
パペットは小さく首を傾げる。
「何が?」
「他人の痛みで……何を得る……?」
するとパペットは、
不思議そうに笑った。
「僕?」
「何も得てないよ」
そして、
ゆっくりとアレスを見下ろす。
「僕はただ――」
「君が“本当は何者なのか”を見せてあげただけ」
その声は、
どこまでも優しい。
だからこそ恐ろしい。
「脆くて弱い神」
「何一つ守れなかった神」
「恐れを知らない戦士を演じ続けた、弱い男」
パペットは再びアレスの顎を掴む。
そして、
涙で濡れた瞳を覗き込みながら問いかけた。
「どうしてそんなに悲しいの?」
「君は最初から、神々に踊らされる操り人形だったじゃないか」
「これからも同じだよ」
「ただ――」
糸で縫われた口が、
ゆっくりと歪む。
「僕と一緒なら、もう苦しまなくて済む」
アレスの瞳から、
力が抜けていく。
「……もう……終わったのか……?」
「うん」
パペットは静かに頷いた。
その答えを聞いた瞬間、
アレスは小さく笑った。
安堵にも似た、
壊れた笑み。
そして、
ゆっくりと目を閉じる。
世界が、
暗闇へ沈んでいく。
……
最後に響いたのは――
湿った、
冷たい、
金属音。
――SWOOSH。
その後に残ったのは、
墓場のような沈黙だけだった。




