第14章・2:この残酷な世界で
その神の呼吸は、山のように重かった。
血と汗が混ざり合い、
滴るたびに地面を叩きつける。
その一滴一滴が、
まるで大地を砕いているかのようだった。
瞳には、確かな意志が宿っている。
だが――
全身は傷だらけで、
今にも崩れ落ちそうだった。
(くそ……)
アレスは視線を外さず、思考を巡らせる。
(まったく距離が詰められねぇ……)
(あと一歩ってところで……)
(あの野郎、必ず人形を割り込ませやがる……)
歯を食いしばる。
(あいつには……)
(死者への敬意が一欠片もねぇ……)
(ただの捨て駒として使ってやがる……)
脳裏に浮かぶのは、
貫いた感触。
崩れ落ちた命。
(槍で貫くたびに……)
(あいつらの嘆きが、俺にまとわりつく……)
(まるで――)
(俺が背負っているみてぇだ……)
その声は、消えない。
(死ぬたびに……)
(俺を呪ってるみてぇに……)
(あいつを殺せって……)
(休むなって……)
(あの野郎が与えた苦しみの分だけ、償わせろって……)
アレスの呼吸が荒くなる。
(俺は……)
(この全部を背負えるのか……?)
その瞬間だった。
地の底から、何かが伸びてくる感覚。
無数の手。
嘆きと絶望に満ちた手が、
彼を引きずり込もうとする。
地獄の底へ。
奈落の口へ。
――その時。
狂気じみた笑い声が、空気を裂いた。
「ははははははっ……!」
アレスの目が鋭くなる。
「……何がそんなに可笑しい」
パペットは腹を抱えて笑っていた。
「ごめん、ごめん」
「でもさぁ……」
「君のその“恐怖”が面白くてたまらないんだよ」
くすくすと笑いながら、言葉を続ける。
「で?」
アレスは低く吐き捨てる。
「俺を臆病者扱いか?」
「てめぇはどうなんだ」
「一歩も近づかずに戦ってる奴がよ」
「本当に強いなら、そんな小細工やめて」
「正面から来いよ」
パペットは首を傾げた。
「なんで?」
軽い声。
まるで子供のように。
「“名誉ある戦い”をするため?」
次の瞬間、吹き出す。
「ははっ……!」
「何それ、くだらなすぎて笑えるんだけど」
爪を弄びながら、淡々と語る。
「そんな理想に縛られるほど、僕は馬鹿じゃない」
「死んだら終わり」
「それだけでしょ?」
肩をすくめる。
「“立派なパペットとして記憶される”って?」
「それで戦争が終わるの?」
「病気が治るの?」
冷たい視線。
「違うでしょ?」
「だからさ――」
「君みたいに“綺麗事”のために戦うより」
「僕は生き残るために戦うよ」
「自分のためにね」
一瞬、静寂が訪れる。
そして、
パペットはゆっくりと爪を研ぎながら言った。
「ねぇ、戦神様」
「一つ教えてよ」
その声は、どこか楽しげだった。
「人生で一番美しいものって、何だと思う?」
アレスは眉をひそめる。
「……今それを聞く意味は何だ」
「いいから答えて」
「くだらねぇ」
アレスは吐き捨てた。
「てめぇの遊びに付き合う気はねぇ」
「つまんないなぁ……」
パペットは肩を落とした。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「じゃあ、教えてあげる」
その笑みは、
どこまでも歪んでいた。
「人生で一番美しいもの――」
「それは、“死”だよ」
アレスの目が細くなる。
「……は?」
「何言ってやがる」
「くだらねぇ戯言を……」
パペットは楽しそうに語る。
「死こそが、この世界のすべての存在を繋ぐものなんだ」
「何であろうと関係ない」
「どれだけ強くても」
「どれだけ金を持っていても」
「絶対に死ぬ」
指を一本立てる。
「神も」
「天使も」
「悪魔も」
「人間も」
「例外なんて一つもない」
その声は、妙に静かだった。
「死だけが、この世界で唯一の“完全な平等”なんだ」
「貧富も、力も、種族も関係ない」
「全員を同じ場所へ連れていく」
パペットは微笑む。
狂気に満ちた、優しい笑みで。
「だからこそ――」
「死は、この世界で唯一の“正しい神”なんだよ」
. . .
「……それで」
アレスは低く唸った。
「そんな理屈で」
「これだけの命を奪う権利があるってのか?」
鋭い視線がパペットを射抜く。
「戦いが始まってからずっとそうだ」
「瀕死の市民を弄びやがって」
「まともに死なせることすらしねぇ」
「最後の最後まで、“玩具”みたいに扱ってる」
歯を食いしばる。
「それで理想を語るだと?」
「どんな英雄様のつもりだ、てめぇは」
怒りが滲む声。
「神の正義だとか、御大層なことをほざいてるが――」
「てめぇがやってるのは」
「ただ、何千もの家族の夢を踏み潰してるだけだ」
「反吐が出るぜ」
……
その言葉を聞いたパペットは、
静かに微笑んだ。
「……面白いね」
「結局、僕たちはそんなに違わないんだよ」
「同列に並べるな、クズが」
アレスは吐き捨てる。
「本当に?」
パペットは首を傾げた。
「僕と君の手」
「どっちも同じくらい血に染まってると思うけど?」
その声は穏やかだった。
だが、言葉は鋭い。
「国一つ、真っ赤に塗れるくらいにはね」
アレスの瞳が揺れる。
「違いがあるとすれば――」
「君はそれを“戦死者”って呼ぶ」
「そして神々は、それを称賛する」
パペットの口元が歪む。
「“戦神アレス”」
「いい名前だよね」
「でもさ――」
「君がやってきたことって結局」
「無数の命を奪ってきただけじゃない?」
「トロイア戦争っていう名目で、ね」
その一言に、
アレスの身体がわずかに震えた。
「教えてよ、アレス」
パペットは問いかける。
「その死は、本当に必要だったの?」
「それとも――」
「君の満たされない欲望を埋めるための手段だったのかな?」
その瞬間。
ぞわり、と。
アレスの背筋を冷たいものが走る。
視界が揺れる。
そして――
自分の手から、
血が溢れているように見えた。
止めどなく、
滴り落ちる血。
「……っ」
息が詰まる。
その隙を逃さず、
パペットは糸を引いた。
一体の“人形”が、引き寄せられる。
それは――
焼けただれた、ただの人間だった。
皮膚は崩れ、
呼吸は浅く、
今にも死にそうな状態。
ほんの少しの衝撃で、
命が途切れることが分かる。
パペットはその男の頬に手を伸ばした。
ゆっくりと、
愛おしむように撫でる。
その仕草には、
異様な“快楽”が滲んでいた。
「この世界は残酷だよ」
ぽつりと呟く。
「すべては力で決まる」
「弱者はどれだけ夢を見ようと」
「最後には踏み潰される」
「それが――」
「君たちが作り上げた“秩序”だ」
視線をアレスへ向ける。
「結局さ」
「これは君たちの世界なんだよ」
「戦争が日常で」
「強者は下を見ない」
「見る価値もないと、無意識に思ってる」
パペットの笑みが歪む。
「そしてその醜さを」
「“戦争”とか」
「“栄光”とか」
「“必要”とか」
「綺麗な言葉で隠す」
一歩、踏み出す。
「でも僕は違う」
「僕は隠さない」
その目が狂気に染まる。
「僕は――」
「この世界に相応しい怪物だ」
次の瞬間。
「――全部、壊せる怪物だよ!!」
パペットの指が弾かれた。
――――
バンッ!!
頭部が爆ぜた。
肉片と脳漿が空中に散り、
赤黒い雨となって降り注ぐ。
その中心で、
パペットは笑っていた。
狂気に満ちた、歓喜の笑みで。
アレスは、自分の手を見つめた。
そして――
足元に広がる、無数の死体へと視線を落とす。
名。
夢。
笑顔。
家族。
すべてを――
この手で奪ってきた。
「……ああ」
静かに、吐き出す。
「お前の言う通りだ」
死者たちの視線を浴びながら、アレスは認めた。
「俺たちは……同じだ」
「どっちも、救いようのない化け物だ」
拳を握る。
「数え切れねぇほどの命を奪ってきた」
「それでも――」
顔を上げる。
その瞳には、確かな意志が宿っていた。
「それでも、俺は“正しいこと”をやりてぇ」
パペットの目がわずかに細まる。
「この世界が残酷だってことも」
「殺るか殺られるかしかねぇってことも」
「全部、分かってる」
一歩、踏み出す。
「だがな――」
声が重く響く。
「たとえ俺がどれだけ身勝手だろうが」
「敵の命よりも」
「俺の民の幸せを守る」
血が、ゆっくりと動き始める。
地面に広がっていた血液が、
アレスの方へと吸い寄せられていく。
パペットの眉がわずかに動く。
「……?」
「俺は毎日、あいつらのために戦ってる」
アレスは低く言った。
「この手で殺した奴らのために」
「せめて、どこか別の世界で――」
「同じ死を繰り返さなくて済むように」
その言葉に、迷いはなかった。
「だから俺は――」
「ここにいる限り」
「一瞬たりとも止まらねぇ」
「俺の民のために」
「この国のために」
「俺の誇りと、幸せのために」
その瞬間、
アレスの身体から、
巨大で鋭い気配が噴き上がった。
空気が裂ける。
大地が軋む。
パペットの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「はは……」
「いいね」
アレスの全身に、
紅い光の線が浮かび上がる。
それは血のように輝き、
圧倒的な力を帯びていた。
「戦神として――」
アレスは槍を構える。
「てめぇに教えてやる」
「お前が人形扱いしてる戦士たちの価値をな」
視線が交錯する。
「俺は――」
「最後の最後まで、あいつらの嘆きを背負う」
「たとえそれが」
「化け物になるって意味でもな」
その誓いは、
戦場に重く響いた。
……
二人の戦士は、再び構える。
さらに手を血で染める覚悟を持って。
この残酷な世界では――
進み続けられるのは、
より多くを捨てられる者だけ。
すべてを犠牲にできる者だけが、
前へ進める。
たとえそれが――
自分自身であっても。




