第14章・1:お前の本当の正体
エデンの瞳は、大きく見開かれていた。
目の前にいる存在を、理解できなかった。
少なくとも――
彼の目には、あれは人間ではなかった。
「初めまして、迷子の子羊くん」
ヨゲンは小さく礼をした。
「僕の名はヨゲン」
「この混沌とした芸術作品の、創作者……とでも言っておこうか」
エデンは動けなかった。
言葉が出ない。
思考が、真っ白に塗り潰されていた。
(頭が……働かない……)
(恐怖で、何も考えられない……)
だが――
(ここで怯えを見せたら……終わる)
(こんな怪物の前で恐怖を見せれば)
(それだけで、俺は死ぬ)
エデンは拳を握りしめた。
無理やり口角を上げる。
歪んだ笑み。
「……へぇ」
「ようやく、サーカスの団長が出てきたわけか」
喉が震えるのを隠すように、軽く笑う。
「正直、もっと変で狂った奴を想像してたんだけどな」
「まあ……」
「話が通じそうな相手でよかったよ」
ヨゲンは冷たくエデンを見つめた。
その瞳の奥まで覗き込むように。
「僕の前で強がる必要はないよ、エデン」
静かな声。
「君の目を見れば分かる」
「そこにいるのは、怯え切った子供だ」
エデンの表情がわずかに固まる。
「時間を稼ごうとしているんだろう?」
「その意図も分かっている」
「だが、一つだけはっきりさせておこう」
ヨゲンは穏やかに告げた。
「今の君は、僕にとってあまりにも小さい」
「何を言おうと」
「何を試そうと」
「僕は止められない」
「どれだけ時間を稼いでも無駄だ」
「ここにいる者の中に」
「僕を倒せる存在はいない」
「……神々でさえもね」
そこに、傲慢はなかった。
ただ事実を述べているだけ。
エデンには、それが分かってしまった。
ヨゲンの声はあまりにも静かで、
まるでその気になれば世界すら動かせると、
自然に信じてしまうほどだった。
自分がどこに立っているのか。
誰を前にしているのか。
ようやく理解したエデンは、
喉の奥から声を絞り出した。
「……どうして、俺なんだ」
「何の話かな?」
「どうして……」
エデンはヨゲンを睨みつける。
「どうして、俺を欲しがる」
「どうして、俺みたいな取るに足らない存在のために」
「ここまでする必要があった」
声が荒くなる。
「世界中にいる不幸な奴らの中で」
「どうして俺なんだよ!」
「俺が、お前に何をしたっていうんだ!!」
ヨゲンは少しだけ目を伏せた。
「これは、君だけのためではない」
「世界へ伝える必要があった」
「僕たちが何をできるのか」
「どこまで届くのか」
「それを示す必要があったんだ」
「注目されたいだけかよ……」
エデンの声に怒りが滲む。
「そんなことのために」
「何人の命を奪ったと思ってる……!」
「罪のない人たちの死が」
「お前を押し潰さないのか!?」
「どうして……」
「どうしてそんな顔でいられる!」
「どうして平然と眠れるんだ!!」
……
沈黙。
そして、
ヨゲンは静かに答えた。
「背負う覚悟があるからだ」
その声に迷いはなかった。
「聞こえるよ」
「彼らの叫びが」
「毎晩、彼らの嘆きが僕を呼ぶ」
「地獄の顎へ、ゆっくりと引きずり込まれるような感覚さえある」
「それでも」
「僕はその重さを背負う」
「この残酷な世界を書き換えるためなら」
「喜んで払う代償だ」
ヨゲンの目が、静かに細められる。
「彼らの死には、やがて意味が生まれる」
エデンは言葉を失った。
目の前の男の言葉は、
狂人のそれではなかった。
怪物の咆哮でもない。
それは――
底の見えない深淵の縁まで追い詰められた、
ただの人間の言葉だった。
「君は聞いたね」
「なぜ、僕が君のような弱い存在を選んだのか、と」
ヨゲンは静かに言った。
「……は、はい……」
エデンは喉を震わせながら答える。
「では、聞こう」
「エデン」
ヨゲンの瞳が、まっすぐ彼を捉えた。
「砂漠に、ポピーは咲くと思うかい?」
「……咲かない」
「その通りだ」
ヨゲンは小さく頷いた。
「だから君も、まだ咲けていない」
「君は今、自分の本当の力を育てるにはあまりにも不適切な場所にいる」
「環境も」
「感情も」
「状況も」
「君の本質を育てるものではない」
「……俺の本当の力?」
「君の力は、痛みに根差している」
ヨゲンは淡々と告げた。
「闇」
「苦しみ」
「絶望」
「それらこそが、君を本来いるべき頂へ導く」
「だが君は、今もなお」
「幸福だの、愛だの」
「そんな無意味な感情に縋ろうとしている」
「だからいつまで経っても」
「君が望む力には辿り着けない」
その言葉を聞いたエデンは、
壊れかけたような、
苦い笑みを浮かべた。
「つまり……」
「お前の言い分だと」
「俺の本当の力を引き出すために、罪のない人たちを虐殺してくれてありがとうっ
て」
「そう感謝しろってことか?」
鎖が軋む。
「ふざけるなよ、ヨゲン」
エデンは怒りを噛み殺すように唸った。
「俺は力のために、自分を失うつもりなんてない」
その瞳に、
小さな炎が宿る。
「たとえ死ぬことになっても」
「俺はそうする」
「それが、誰も守れないという結果になっても?」
ヨゲンが静かに問いかけた。
その一言で、
エデンの身体が凍りついた。
まるで、
決して癒えない傷を、
正確に指でなぞられたかのように。
「この世界では、力こそが答えだ」
ヨゲンは続ける。
「十分な力がなければ」
「愛する者を守ることなどできない」
「……別の方法があるはずだ」
エデンは小さく呟いた。
「ない」
即答だった。
「生き残るためには、必要なことをしなければならない」
「たとえ、それが他者の目に怪物として映る道であっても」
「……他の道があるはずだ」
声が震える。
恐怖が混じっていた。
エデンは足元の小さな水たまりへ視線を落とした。
そこに映っていたのは、
自分ではなかった。
人の顔を失った、
巨大な影。
「あるはずなんだ……」
「絶対に……」
ヨゲンはゆっくりとエデンへ近づいた。
そして、
そっと彼の顎に指を添える。
無理やり、視線を上げさせた。
「君も本当は分かっているはずだ」
その瞳が、エデンの奥底を覗き込む。
「君が探しているその道は」
「この世界には存在しない」
「この世界は、そこまで優しくない」
「根の部分から、残酷にできている」
「君自身、それを見てきたはずだ」
「神々ですら」
「本来果たすべき役割を果たしていない」
「人を導くべき存在が、道の途中で歪んでしまった」
「ならば――」
「僕たちには何が残されている?」
エデンは俯くことしかできなかった。
否定したかった。
受け入れたくなかった。
だが、
ヨゲンの言葉には、
一片の嘘も感じられなかった。
「もし本当に祖父を取り戻したいのなら」
ヨゲンの声がさらに低くなる。
「君は、君が本来そうであるべき姿にならなければならない」
「運命に刻まれた姿に」
「――悪魔に」
エデンは、
悔しさと怒りを滲ませた笑みを浮かべた。
「つまり……」
「何をしても無駄だって言いたいのか」
「最後には、運命が望む悪魔になるって?」
……
沈黙。
そして――
「ふざけるな」
低く、
だが確かな声。
「自分の運命を決めるのは」
「俺だけだ」
「他の誰でもない」
鎖が揺れる。
「星が何と言おうと」
「神が何を告げようと」
「俺の物語を書くのは、俺自身だ」
エデンはヨゲンを睨みつけた。
「お前の予言が何を語っているのかなんて知らない」
「でも、一つだけ言っておく」
「俺は特別な存在なんかじゃない」
「ただの人間だ」
一瞬だけ、言葉が止まる。
そして、
苦く笑う。
「……少なくとも」
「少し前までは、そう思っていた」
エデンは、小さな水たまりへ視線を落とした。
そこに映っていたのは、
歪みきった自分の姿。
長い時間をかけて築き上げてきたはずの自分。
その輪郭が、
少しずつ曖昧になっていく。
人間なのか。
悪魔なのか。
それとも――何か別の存在なのか。
形も、色も、名前さえも、
今の彼には分からなかった。
「……今の俺には」
エデンは低く呟いた。
「自分が本当に何なのかすら分からない」
だが、
その瞳に、わずかな炎が宿る。
「それでも一つだけはっきりしている」
「お前は、俺の仲間に手を出した」
「それだけは――」
「絶対に許さない」
その瞬間、
エデンの身体から、濃く重い力が滲み出した。
禍々しく、
底知れない気配。
瞳は、深い紅へと染まっていく。
彼が一言発するたび、空気が重くなる。
まるで世界そのものが沈んでいくように。
大気は淀み、
腐敗したような臭いが広がり、
周囲の草木がゆっくりと枯れていく。
ヨゲンはエデンの顎から手を離した。
そして、上から見下ろす。
「……本当に残念だ」
静かな声。
「だが、急ぐ必要はない」
「君を連れていった後で、ゆっくり説明してあげるよ」
その瞬間――
自信と傲慢に満ちた声が、割り込んだ。
「おい、イカれた預言者」
「うちの“予言の子”から手を離せ」
「聞こえなかったのか?」
「そいつは、お前とは行きたくないらしいぞ」
全員が驚いて振り返る。
そこにいたのは――
ガスマスクを片手に持ち、
尊大な笑みを浮かべるヨウヘイだった。
「……どうして……」
カイが困惑したように呟く。
ヨゲンは横目で彼らを見ただけだった。
その静けさは、血が凍るほど不気味だった。
「ヨウヘイ!?」
エデンが声を張り上げる。
「何しに来たんだ!」
「逃げろ!こいつらは本当に危険だ!」
「おい、悪魔」
ヨウヘイは冷たく言い放つ。
「誰が喋っていいと言った?」
「でも――」
「黙れ」
「今すぐ黙って、俺をよく見ていろ」
「本当に、優しさの欠片もないね。ヨウヘイ」
穏やかで、どこか歪んだ声が続いた。
「……リュウザキ?」
「どうやら君には、変な磁石でもついているようだね」
リュウザキは薄く笑う。
「サイコパスを引き寄せる磁石がさ、エデン」
「……どうして、お前らがここに……?」
「さあね」
リュウザキは肩をすくめた。
「運命、というやつかもしれない」
カイがヨゲンへ視線を向ける。
「主よ、どうされますか?」
「心配いらない」
ヨゲンは静かに答えた。
「ケツロが相手をする」
(ケツロ……?)
リュウザキの眉がわずかに動く。
その名に、違和感を覚えた瞬間――
「危ない!!」
エデンが叫んだ。
ヨウヘイとリュウザキが振り返る。
その背後にいたのは、
巨躯の男。
鋭い眼差し。
そして、肉食獣のような笑み。
――――――
BOOM――CRACK!!
凄まじい衝撃が山頂を揺らした。
粉塵が爆発するように舞い上がり、
山の頂を丸ごと包み込む。
やがて、
その埃がゆっくりと晴れ始めた。
最初に現れたのは――
ケツロの圧倒的な巨体。
その拳からは、鮮血が滴っていた。
彼は獲物を前にした獣のように笑っている。
その正面には、
ヨウヘイとリュウザキ。
ほんの一瞬の攻防。
それだけで、
二人の顔は血に染まっていた。
「……へぇ」
ヨウヘイは口元の血を拭う。
獰猛な笑みを浮かべながら。
「世界には、本当に強い奴がいるんだな」
リュウザキは静かに刀を抜いた。
「少し殺すのに手間がかかりそうだ」
「だが……面白い」
ヨゲンは、その混沌を見ても表情一つ変えなかった。
ただ静かに、
エデンへ視線を落とす。
「楽しむといい」
「その小さな希望の光を」
「今のうちにね、子羊くん」
その声は穏やかだった。
だが、どこまでも冷たい。
「もうすぐ――」
「君の仲間も」
「君の意志も」
「君の名前すらも」
「君を救えなくなる」
「本当の自分になることからは、逃げられない」
アテナイの灰を運ぶ風が、山頂を強く吹き抜けた。
まるで世界そのものが、
息を止めているかのように。
戦争はもはや、
神と人間だけのものではなかった。
それは今――
運命と、
それを拒む一人の少年との戦いでもあった。




