第13章・5:あの目…
災厄に刻まれた少年の瞳が、
ゆっくりと開かれた。
視界はぼやけている。
記憶も、まだ曖昧だった。
(……ここは、どこだ……?)
エデンは混濁した思考を、必死に繋ぎ直そうとする。
(最後に覚えているのは……)
(評議会へ行く準備をしていて……)
(それから……紫の煙が現れて……)
(そこから先は……何も……)
ふと、自分の身体へ視線を落とす。
その瞬間、
息が止まった。
全身が、鎖で縛りつけられている。
(……何だ、これ……)
エデンは腕を振る。
鎖が鳴る。
だが、
いくら力を込めても、
それはびくともしなかった。
その時――
耳を裂くような悲鳴が響いた。
醜く、
絶望に満ちた叫び。
エデンの身体が震える。
何が起きているのか理解できないまま、
ゆっくりと横へ視線を向けた。
そして、
見た。
そこに広がっていたのは――
地獄。
アテナイの街の大半が、
炎と血に包まれていた。
「な……」
「何だよ……これ……」
考える暇さえなかった。
その瞬間、
鋭い刃のような声が、
魂を貫いた。
「ようやく目覚めたか、悪魔」
その声を聞いた瞬間、
エデンの目が大きく見開かれる。
ゆっくりと、
首を動かす。
そして――
目の前に立つ存在を見た。
それは、
最悪の悪夢だった。
……
深く、冷たい紫の瞳。
魂の奥底にまで刻み込まれた、あの眼差し。
焼け爛れたような傷と火傷に覆われた顔。
人間の苦しみだけで鍛え上げられたような笑み。
「……嘘だ……」
エデンの声が震える。
「久しぶりだな」
男は嘲るように笑った。
「相変わらず、あの日と同じくらい哀れだ」
「カァァァァイ!!」
エデンが吼えた。
鎖を引き千切ろうと、全身に力を込める。
「おいおい」
カイは軽く手を上げる。
「そう興奮するな、小さな悪魔」
「殺してやる……!!」
「てめぇだけは、絶対に殺してやる!!」
「まったく」
カイは肩をすくめた。
「礼儀も変わっていないようだな」
エデンは何度も前へ飛び出そうとする。
だが、
背後の木へと繋がれた鎖は、
まるで世界そのものに固定されているかのように動かない。
「落ち着け」
「無駄に体力を使っているだけだ」
「黙れ、このクソ野郎!!」
エデンの怒号が響く。
「この鎖が外れたら――」
「一番惨たらしい方法で殺してやる!!」
カイは小さくため息をつき、
少し離れた石の上に腰を下ろした。
「……本当に失望したよ」
「この数ヶ月で少しは変わると思っていたが」
「世界を壊されて膝をついていた、あの弱く哀れなガキのままだ」
その言葉にも構わず、
エデンは鎖を引き続ける。
怒りと憎しみだけで前へ進もうとする。
「聞こえていないのか?」
カイは呆れたように言う。
「その鎖は壊れない」
「お前のような悪魔のために作られた特別製だ」
「何をしても無駄だ」
「黙れ!!」
「お前の腐った口から、一言も聞きたくない!!」
「必ず壊してやる!!」
「そして壊したら――」
「どこへ逃げようが」
「どこへ隠れようが」
「必ず見つけ出して」
「人間とは思えない方法で殺してやる!!」
カイは、
エデンの瞳を見つめた。
赤い瞳。
そこに宿る闇は、
悪魔のそれよりも深かった。
「……なるほど」
カイは笑う。
「本物の怪物になったようだな」
「だが、それも当然か」
「この世界で、光を保ち続けられる者などいない」
「……当然?」
エデンは低く笑った。
「全部……」
「全部、お前のせいだろうが!!」
鎖が軋む。
「見ろよ!!」
「お前らが俺を何に変えたのか!!」
「俺がどんな悪魔になったのか!!」
声が震える。
怒りだけではない。
そこには、痛みがあった。
「全部奪った……」
「今でも、あの夜のことを考える」
「まだ聞こえるんだよ……」
「あの人の叫びが」
「顔に流れた血の感触が……」
エデンの歯が軋む。
「あの人はお前に情けをかけた」
「なのにお前は」
「最低のやり方で攻撃した」
カイは静かに答えた。
「生き残るために必要なことをしただけだ」
「彼が名誉ある戦士だったことは認めよう」
「だが、その慈悲が命取りになった」
「この世界では」
「迷えば終わりだ」
カイの声は、あまりにも冷静だった。
「どれほど善良であろうと」
「どれほど誇り高くあろうと」
「最後に重要なのは、目的だけだ」
「そのために隙を突く必要があるなら」
「俺は何度でも同じことをする」
「必要なら、何度でもな」
カイはゆっくりと立ち上がる。
「どれほど眩しい光でも、消える」
「どれほど太い大樹でも、折れる」
「そして――」
「どれほど誇り高い男でも」
「死を前にすれば、臆病者になる」
カイは再び、ゆっくりとエデンへ近づいた。
そして、刀の刃を少年の喉元へ当てる。
冷たい鉄の感触が、肌に触れた。
「苦しんだからといって、自分を特別だと思うな」
カイの声が、残酷に響く。
「誰もが、想像を超えるほどの不幸を抱えて生きている」
「お前はただ、自分だけが苦しんだと思い込んでいる」
「傲慢なガキに過ぎない」
カイはエデンの頭を掴み、無理やり街の方へ向けさせた。
「見ろ」
炎に包まれたアテナイ。
崩れ落ちる建物。
逃げ惑う人々。
響き続ける悲鳴。
「聞こえるか?」
「この叫びが」
「命が、一つ、また一つと消えていく音が」
刃が、わずかに喉へ食い込む。
「この痛みも」
「この血も」
「すべて、お前のせいだ」
その言葉に、
エデンの身体が完全に凍りついた。
「もしあの日、お前が俺たちと来ていれば」
「こんなことにはならなかった」
「お前が自分の運命を受け入れていれば」
「今ごろ、死んだはずの家族たちは――」
「花火を見上げながら笑っていたはずだ」
カイは淡々と告げる。
「そうだ」
「すべて、お前のせいだ」
「どこへ逃げても」
「どこへ隠れても」
「死は、お前の足跡を辿る」
「そしていずれ――」
「お前が守りたいと願うものすべてが」
「お前自身の闇の底へ沈んでいく」
エデンの視界が歪む。
仲間たちの姿が、
巨大な深淵へ飲み込まれていく。
シュウ。
ユキ。
ヴァイオレット。
彼らの姿が、
声もなく消えていく。
「お前は幸せになる運命にない」
カイの声が続く。
「どれだけ足掻いても」
「どれだけ輝こうとしても」
「生まれた時から刻まれた闇からは逃げられない」
「呪いからも」
「痛みからも」
逃げられない。
今度は、
師たちが見えた。
炎に包まれ、
痛みの中で消えていく姿。
「受け入れろ」
カイは囁く。
「それがお前の運命だ」
「悪魔」
エデンは見た。
東京の街が、
炎に呑まれていく光景を。
自分は何もできない。
誰も救えない。
ただ見ていることしかできない。
その瞬間――
エデンの瞳から、
光が消えた。
希望も。
怒りも。
抵抗する意思さえも。
カイの冷たい言葉が、
少年の心を深い底へと沈めていく。
……
だが、
完全に沈みきる直前だった。
冷たく、静かな声が、
その場へ入り込んだ。
「ずいぶん歪んだ男になったね、カイ」
軽い笑い声。
カイは即座に振り返り、
その場に片膝をついた。
視線を地面へ落とす。
「……お待ちしておりました、主よ」
「やだなぁ」
その男は、機械のように整った笑みを浮かべた。
「そんなに畏まらなくていい」
「僕たちは友達だろう?」
「は、はい……」
エデンは、
わずかに残った意志だけで顔を上げた。
そして見た。
あらゆる常識から外れた存在を。
そのエネルギーは、
闇のように深く、
同時に光のように眩しかった。
黄金の瞳は、
僧侶のような静けさを宿している。
だがその奥には、
百の大地震を押し込めたような力が眠っていた。
エデンは、
初めてシュンを見た時以来の感覚を覚えた。
恐怖。
身体のすべてが叫んでいた。
この男は危険だ。
「初めまして」
男は、闇を孕んだ笑みを浮かべる。
「迷子の子羊くん」
「僕はヨゲン」
その声は穏やかだった。
だが、
魂の奥まで冷たく染み込んでくる。
(……誰だ)
(こいつは……)
ついに、
牧者と子羊が向かい合った。
エデンはもう、
過去の悪魔だけと向き合っているわけではない。
その前に現れたのは、
さらに深く、
さらに冷たい悪魔。
感情に溺れる者ではない。
怒りに身を任せる者でもない。
計算し、
導き、
世界そのものを盤上に置く悪魔。
そして――
北斗七星の光の下、
運命はなお、
盤上の駒を動かし続けていた。




